幸福なポジティヴィスト

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昭和20年から30年の山口県議会史——日韓漁業協定に関して

<書誌情報>
山口県議会史』


山口県議会史

昭和三〇年の県議会

○二月臨時会 八三〇頁から八三二頁
①井川議員の質問
 ついでに沿岸漁民の問題をもう一点触れておきたい。今度の予算を見ると水産漁業協同組合指導に要する経費というのが七十一万八千円ある。これらは昭和三十年度において、三面海に囲まれた百数十の漁業組合を要する沿岸漁業に突つこまれる金である。そこで沿岸漁業の実態は近時新聞、統計などによると、増産がなされているという。しかし、漁獲の増産というのは機械の近代化、操業技術の改良、船の大型化などによって生まれてきた結果であって、その結果は大量貧乏という言葉で呼ばなければならないのである漁獲の数字が上がることによって漁民の経済が向上しつつあることにはならない。魚はたくさん取れても値段が安いからである。ことに沿岸の小さい零細漁民は直接影響を受ける。七十一万八千円の強度組合の指導費に対して、水産部長はいかなる名案をもってこの沿岸漁業の振興、協同組合の育成、強化を図られるか。なおまた水産業の協同組合、あるいはまた沿岸漁業の一元的な対策として沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へという標語によって沿岸漁業の振興策というものが表現されている。ところが現実的には少なくも一歩も二歩も出てないどころか、だんだんと退歩して行くような状態さえある。それに加えていま申し上げたような圧力としわ寄せが沿岸漁民の上に降りかかりつつある。これらの状態の中からどうして沿岸漁業の振興を図られるか、この基本的考え方についてお伺いしたい。

小澤知事の答弁
 猶沿岸漁業の問題については、本件の特に悩みとして折る問題であって、沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へというスローガンのもとに一連の方策をあげているが、当面の問題としては、それのみでは実際の効果をただちに期待することはできないのである。事に瀬戸内海の沿岸などについては、魚族の積極的な保護、積極的な増殖というようなことを考えなければならないのであって、たとえば漁礁を積極的に設置するとか、あるいは稚魚の乱獲などを防止するために取り締まりを徹底させるというふうな一連の措置を講じていきたい。また日本海沿岸の漁業については、昨年来とりたった沿岸漁民が沖合に出るという方策をとっている。若干の漁業許可権を拡張してやっていたのであるが、これまた今度は指導を今少し適切にして、他人のふんどしで仕事をするような根性でなしに、沿岸漁民みずから自分の責任と自分の利益においてこれを行うという体制に持っていくという考えを一そう進めてまいりたい。

昭和二十九年度の県議会
○十二月定例会 七九七頁から七九八頁
②小澤知事
 終戦後県下の漁業は沿岸たると沖合たると問わず、その漁場はますます狭隘化して非能率的漁法の悪循環と相まち、漁業経済は極度に不振窮迫の度を加えていることはご承知のとおりである。かかる状態を解消して打開いたすためには、かねて水産行政の基本的指導理念としているところの沿岸から沖合へ、沖合から遠洋への転換施策を強力に推進していることが極めて緊要であると存ずるものである。
かかる見地からして、県並びに沿岸漁業社をはじめとする水産業者の協力体制を基調とする漁業技術、漁業経営ならびに経済援助、および中核的指導育成機関を創設することが最も適切なる措置と認めて、かねて漁業公社の設立を企図して、過般一応の発足を見るにいたった次第である。この公社は県の重要なる水産施設の一環を実現するものとして、公共性に立脚することが適当と考えられるのであって、公社みずからも独立採算制の上に立ち、その余力をもって沿岸漁業の育成発展に寄与し得るように、十分その機能を発揮せしめることが重要なる目途であって、その目的を達成いたすためには、当面公社自体の基盤の安定性を確立することが緊要であるので、まず遠洋かつお、まぐろ漁業への進出を図ることとしているのである。指向して、将来にわたって途上の県の基本的方針を、この公社を通じて具現していく必要があるので、県としてもこれに対して出資を行わんとする者であり、当面の経営に遺憾な気を帰するため若干の指導経費をあわせ、五百十五万円を計上した次第である。なおこれが財源には前年度繰越金を充当しており、なにとぞ慎重審議の上、適当なる御議決あらんことをお願いする。


○十一月定例会
③井川議員
 山口県には全県下津々浦々に船溜まり、漁港その他の漁業根拠地があって非常に多くの密入者が入るに易い、出るに易い状態にある。しかるに現在において動かし得る船はわずか三隻しかない。また派出所も下関を合わせて全部で五か所しかなく、所員の数は五十数人にしか過ぎないのである。これだけの機動力と陣と拠点をもって、広島県を境として瀬戸内海側から島根県を境とする外界、さらに福岡県の玄界灘、対韓国関係についての広範な海面を取り締まりの区域にしているのである。少なくとも犯人を逮捕せんとすれば、犯人の船より早い船でなければならない。スピードを保つ最優秀線を、少なくとも五隻程度は建造しなければ山口県海上犯罪の治安は保たれない。それから海上犯罪の特殊性からして、下関市に派出所を移すことはもちろんであるが、その他宇部、徳山、岩国、柳井、防府、安上庄、萩くらいには水上警察の拠点がないと、山口県の内海、外界を通じて治安の確保はできないのである。早急に水上警備力の増強を図ってもらいたい。これについての知事の御答弁を願いたい。
 御承知のように水産庁においては、昭和三十年度の動力漁船の建造計画を最近発表された。これは毎年発表されているのであるが、特に三十年度計画を数字的に申し上げると、トロール船三隻、以西底引鋼船三十二隻、木船六十三隻、かつお・まぐろ鋼船九十四隻、木船二百七十二隻、中型底引木船、百十五隻、小型底引き漁船、木船三百四十二隻、その他鋼船三隻、木船四千五百二十隻で、この資金的な裏付けは漁船建造のための農林漁業金融公庫を通じて出される金が、五十億円、年々これくらいな漁船が新たに建造されつつあるわけである。


小澤知事
 昨年年末に李承晩ライン、中共のだ捕船の関係から水産業者の困窮しておる実情にかんがみ、年末にこれの救済融資をしたのである。それが十分に回収できぬために、損失の補償をいたさなければならぬ状態にいったことは誠に遺憾千万である。この融資をうけた組合および組合員が、相当困窮した状態にあることは事実であるが、融資はあくまでも融資であって、返還していただくことが建前である。私はあくまでも融資を損失補償するがこれの回収をして県民への損失のないように努力いたすつもりである。従来においても、いろいろの事情を勘案して漁獲したものの販売代金のうちから積立てを行わせるというふうな方法をとって、極力これの回収をしてまいったわけである。これについては、さらに毅然たる態度をもって融資を受けられ方々に対しては協力を願おうと考えている。

沖議員
 先ほど同僚議員から質問のあった漁業年末融資に関連して質問したい。
 知事の議案説明に、「本年分は約五千二百万円の損失が生ずることから明らかになったので……」とあるが、この表現は先ほどの知事の説明と非常に相違する。なぜならば保証の契約によって銀行が損失を生ずるということは、ある一定の期限内に終わらない場合に始めて補償が可能となるのである。しかしそれは県の損失になるということではなく、県は求償権を行使しなければならぬのである。ところがこういう説明を知事がする場合に、ともすれば苦しい業者はこれをいいことにして、もう県は損として諦めたんだ、払わなくてもいいんだという気持ちになりかねない。これはぜひ訂正願いたい。
 それから少なくとも補償するのであるが、これは短期年末の融資として三か月間の融資であったはずである。然るにそれを延ばし延ばして今日までもってなおかつ返らない。それで県がこの苦しい財源から銀行に金を払う、しかもそれは特定の業者のためである。こうした場合には私は少し知事にとってもらいたい手段がある。すなわち山口県水産業緊急対策融資保証要綱の第八項に「融資期間が融資しようと得る場合は、回収に十分なる担保または保証人の設定を行わせるものとする」とある。私は金融機関が担保あるいは保証人に対する追及をやったかどうかということを伺いたい。
 次にこの融資の内容を見るに、山口銀行関係を経由して貸した順洋水産株式会社、三洋水産株式会社、田島水産株式会社、高松三平この四業者は完全に完済している。しかるに他の業者は、なかには一銭も払っていないのがある。利子すら払っておらぬ。同じ業者でこのようなことがありうるとは考えられぬ。金を借りたものか払う気持ちを持った場合と、なるべく引き延ばそう、あるいは払わないという気持ちを持った場合にこういう結果が表れたのではなかろうか。最も越ヶ浜の漁業組合に貸した一千八十六万円については、去る七月定例県議会において、零細漁業で船の建造をやっているので、三十四年の十二月まで延期してほしいという陳情があったので、これは本議会に可決されている。しかるに他の下関の関係の組合の方は非常に成績が悪い。しかも農林中金を経由して貸したものが悪いのである。風評によれば、農林中金は業者に対してこれは三カ月で払わなくてもいいんだ、三年でいいんだということを言っておるのだということを聞く。はたしてその噂さが本当があるかどうか。知事の正直なところを聞きたい。
 仮にさようなことがあるならば、これは融資保障要綱の第十条によって禁止されておるところである。もしこれらのことを犯して、債権の回収に農林中金が不熱心であったとするならば、保障要綱免責条項によって県は補償する必要はないのである。はたして銀行がどの程度業者との摂政をやり、どの程度の努力をして回収に努めたか、これは保障要綱の第十六項によって県は調査権を持っている。はたして県はこの調査権を行使して農林中金を調べたのか、伺いたい。

小澤知事
先般日本赤十字社の行為によって、私は地方自治体の首長としてただひとり李徳全女史一行と、高輸の光輪閣において前後二時間にわたって文字どおり膝をまじえて話し合う機会を得たのである。以下質問の二点について報告しておきたい。(中略)
 漁業関係であるが、私は意図していたのは中京に拿捕された船舶並びに乗組員について、人道的な措置を要望したいということであったが、ちょうど面会したその日の朝刊に、中共でだ捕された漁業者が日本に向かって帰ってきつつあるということが報道されていたのである。これについては謝意を述べたが、大部分の漁船はまだ帰ってきていないという状況である。したがってこの漁船は零細な企業家の所有物であって、これがないと生活に困るという状態であるから、人道上の立場から漁船を返してほしい。さらに中国と日本との漁業の相互扶助的ないき方を考える必要はないか。中共が自由になる漁労を許せば、場合によっては先方の希望によって漁船と漁獲を提供する。水揚げは大陸において、日本においてはチャーター料等を支払うだけにする。漁業の面において操業に協力するというふうなことを申したが、これに対しては同感の意を表していた。再び年内に日本から漁業者代表を向こうに招へいすることになっているので、この問題はおそらくその会議で全面的に解決するのではないかと申していた。

総務委員会
 昨年末、漁業年末貸付金として県が補償し、これが未回収のため、県の損失補償金二千九百四十三万の予算があったのである。水産部長の説明を求めたところ、昨年末の漁業者に対する貸付金を計画したのは、韓国と中京の漁船拿捕を契機として出た問題で、国家的に見て国が災害を受けたのと同様と考えるので、国の立法措置を期待し、この融資は将来国に肩代わり可能という見通しのもとに執行したが、国が代船建造資金のみにとどまり、当初の見通しとは食い違ったとの説明があり、これに対して委員会は、水産部長が確実なる立法をもたず希望的観測のもと措置したことについて、誠に遺憾であるとの意を表明したのである。これが年末貸付金の状況ついて資料の提出を求め内容を検討した結果、信漁連貸出しの萩越ヶ浜の漁業協同組合の一千八十六万円については、さる七月県議会においてこれが償還の猶予方の陳情が提出され、議会はこれを採択しているので、これが未収関係はあらかじめ了としておったのであるが、農林中金貸出しの下関底引綱漁業協同組合の三千九百七十万円について回収は、わずかに四百三十一万余円にして残額三千五百四十八万余円である。山口銀行貸出しの一千七百三十万円に対する回収は、一千百三十万円にして残金六百万円であった、これも十分な回収とはいわないが、ほかの農林中金、信漁連などと比較すれば、山口銀行関係においてはこれらの回収に努力され、一面業者のこれは対する誠意がうかがわれた。一方、農林中金関係においては、元金はもちろん利子すら一戦も支払われない業者が数社あり、その回収成績は目下のところはなはだしく不良であって、業者自身に償還の熱意があるとは認めがたいと断ぜざるを得なかったのは誠に遺憾である。県は取立交渉において、未払い業者に対して利子免除する方針であるとのことであるが、かかる措置は県財政困窮のおりから県民の膏血をかかる杜撰な見通しに基づく計画によって、しかも一部特定業者を利するために消費するというのは、実に妥当を欠くとの全員一致の意見により、旧第一号議案第八尺産業経費第二項第三十一節水産業者、水産業緊急対策資金損失補償金二千九百四十三万円の削除の動議が提出され、委員会は本修正動議を議題として質疑応答、討論の結果、本補償は目下の回収成績および償還計画より見る時、その要綱による県の免責の可能性が考えられ、およびこれが補償いまだ契約期間の未到来という点より、今後の金融機関の回収獲得の努力によりこれが減少も考えられ、全員一致本修正案を可決したのである。


○二月臨時会
小澤知事
 次に水産関係においては、さきに支出した韓国に不法だ捕された船員の見舞金の追加として、今回国より百十二万四千円の交付があったので、これを予算化するとともに、漁業活動打開のため活動した漁業団体に対する補助金として百七十万円を追加し、目下設置中の漁業用萩無線局の活動をより効果的なものとするため、大島に自動中継局を設置するとともに、仙崎無線局との連絡をより能率化するため、萩・仙崎間に超短波無線電話を架設することとして、これに要する経費百万円、小型機船底引き網減船整理の促進を図るため今回指定の二十四隻分に対する補助金百五十七万円三千円、暖冬異変に原因するのりの養殖事業の被った被害が以外に甚大であるため、この救済補助金として五十万円および淡水魚放流事業に対する補助金二十万円、工場汚水問題発生に対処し、これが海水の基本的試験調査を行うこととして、これに要する経費として三十七万円などを濁加している。水産関係の公共事業については、国の事業費の削減に伴い一千百六十万円を更正した。

宮川議員
水産と工場汚水と暖冬異変による海苔の被害についてお尋ねしたい。戦後の砿工業の復活によって山口県も非常に発達を来しているがその排水によって沿岸の水産業に甚大なる被害を及ぼしていることは周知の事実である。
 先月も私どもは工場へ行ってみたが、工場側はこれで十分なる施設であるとはいっておらぬ。商工業の発達という大きい観点から考えるならば、この工場誘致のためには県としてあらゆる犠牲を払わなければならぬということも十分わきまえているが、一面水産業の被る多大な被害について、県はどういう処置をとるのか伺いたい。
 工場側は排水による被害に対する補償派はデーターが出なければしないと言っているので、なかなか難しい問題である。今度三十七万円程度内海試験場の内容充実に予算を組んでおられるが、この程度の金額ではなかなかできないと思う。漁民にとってはこの海岸は農民の耕地と同じである。昨年度、病虫害が発生した時期には県費を出してこれを助成しているではないか。ことにこの工場汚水の問題について、県は一体どう処置をしておられるのか知事に伺いたい。
小澤知事
 山口県の工業の発達に伴い、工場から排出される汚水によって沿岸漁民の生活の基盤が奪われるという重大な問題が起こっている。この問題は已に諸種の検討を加えてまいったのであるが、結局科学の領域においてこの問題を解決できるような的確なデーターは現在まで出来上っていないのである。したがって、科学的な検討を加えていくと同時に、状況の判断などの総合的な要素をとり入れて、ここに何らかの線を引いていくという努力をしている。これについては、漁民の方々の現実の被害の報告などを実地に調査する必要もある。そのような方法を講じて何とかこれを解決していくというのが私の念願でもある。また工場と漁民との間に立って、その間の事情を十分に聞いて解決の道にもっていくという仲介あっ旋の労をとってまいりたい。
 事位の暖冬異変のために、せっかくの則が腐ったということについて、その損害に対して若干の金額を補償したのである。しかし山口県のかつての名産であった海苔が技術的にも市場販路においても逐次衰微に立ち至ってる状況を、いかにして打開していくかということが今後の問題にある。この問題については将来十分考えていきたい。




昭和二十八年の県議会
○二月臨時会
田中知事
 水産関係については、現在下関に存ずる漁業無線施設は急速に改装を迫られている関係上、これに対し助成の必要を認め百万円計上することとした。また違反漁業に対する取締船建造費をさきに計上したが、その後検討した結果、さらに船体装備などを堅牢化する必要が認められるので千二百万円を追加した次第である。さきに政府は乱獲漁業の調整措置として、小型底曳網漁船の整理を行う方針を決定実施することとなったのであるが、このため漁民の被る損失については、できるだけこれを軽減する必要を認められるので五百八十七万七千円を計上し、漁業者の安定を図らんとする。

○九月臨時会
 以上の知事の説明を終了。ついで井川議員から朝鮮水域の非常事態に対する決議案が次のごとく提出された。
朝鮮水域の非常事態に対する決議案
 李承晩韓国大統領は昨年一月十九日突如として「海洋主権宣言線」を宣布し、日本漁船の同ライン内への立ち入りを禁止する方針を明らかにし、その以後しばしば日本漁船への攻撃と捕獲を繰り返し、また乗組員を射殺するなどの不法なる行動をなしてきた。
 今一つ朝鮮水域にはこれとは関係泣く国連軍の防衛水域封鎖船の設定があり、「朝鮮水域における攻撃を防止し、国連軍の交通線を確保し、密輸あるいは共産側スパイの韓国への侵入を防止」することを目的とされていたが、このラインは朝鮮の休戦協定と共に先月実施が停止された。
 われわれは漁業者とともに韓国並びに国連軍においてなされたこれらの措置がその実施に際しては必ずや国際法の原則と慣例に基づいて施行される事を確信しつつ、韓国官憲によるたび重なる日本漁船に対する迫害にもかかわらず、事態の平静化を期待しながら隠忍自重の態度を持してきたものである。
 然るに韓国は次から次へと宣言海域の取り締まり強化策の実力行使に移りつつあったが遂に韓国政府はさる本月七月二十四時を期し全日本漁船を李ライン外に退去させることの通告をなすに至り、武力行使を示唆する強硬手段によって日本漁船の生命財産の不安はこの上もない危険状態にたちいたった。
 かかる事態は国際法上全く前例をみない不法の措置であって、誠に遺憾にたえないところである。
 この海域における漁業ができないことは約一千八百隻の漁船と三万数千人の生業を奪い、約二十二万頓七十五億の漁獲を失うことになるのであって、関係漁業者にとって死活の重大問題であるばかりでなく、国民の食糧事情に対してもさらにまた本県唯一の産業である水産業の壊滅的損害となり、これが県財政に及ぼす影響は極めて多大であり、事態の早急解決の成否は本県議会としても最も重大なる関心を有するものである。
 われわれは昨年の十一月二十五日の本県議会において韓国及び国連軍によってなされたこの二つの措置に対して日本漁業者とともに国際正義の確立を希望し、道義と良識の上に立って宣言したことをここに再確認する。それは公海がいずれの国の専権にも属せず従って特別の取り決めのない限りいずれの国の漁船もその目的が平和的である限り立ち入りも操業も自由であるべきことである。
 われわれは日韓両国がおかれている冷厳なる国際環境の情勢下にあってその共通の運命を考えるとき、韓国が日本の漁船を不法な手段をもって不平等に取扱い漁民の生命財産に危難を加え日本産業の発展と民生の安定を阻害するようなことは、その本意に非ざること深く確信するとともに日韓両国の善隣友好と平和を冀求し、この当面する重大事態が日韓両国政府の努力と平和と正義を愛好する世界の諸国の与論とあっ旋により即時解決せられんことを請願する。しかしながらもし韓国政府において善意と良識もって速かかなる事態の善処を図らず徒に事を構えてさらに不法なる行動をなすに及んでは日本国政府は直ちに適切なる自営の措置を講じ、漁場の安全を確保せらるるとともに不幸にして不法なる損害をこうむりたる漁船および乗組員に対する補償の措置を取られるようにここに山口県議会満場一致の決議をもって要望する。
右決議する。
  昭和二十八年九月九日
          山口県議会議長   二木 謙吾
 直ちに採決が行われ、全員一致をもって可決された。次に質問に入った。

○十月定例会
井川議員
 今次朝鮮水域の非常事態に対しては、先に満場の皆さん方の御賛同の下に、本会議としての決議を可決せられ、県当局においても、それぞれの事態の拾収方についての善処方を努力していただいている。しかし、現実は最悪の事態に突入している。すなわち、本県の漁業者で今日不法なる拿捕をせられ、韓国に抑留せられているものは漁船二十六、乗組員二百三十一人に及んでいる。この中には全く一家の中心を失い、家計の中心を失って家庭経済の上に実に気の毒にたえない家族が数あまたいることも十分ご承知のことと思う。日韓会談に期待するところも大きいのであるが、この会談の成り行きは必ずしも楽観を許さない。今次朝鮮水域におけるこれらの事件は、その一切の責任が韓国側にあるとわれわれは存じている。また業者に対する責任の所在の全部は、国家が負うべきものであると確信をする。財産の保障、人命の完全保障等すべての責任は日本国の名において、業者に対する責任が取られるべきものと考えるが、知事の見解を問いたい。私はこの際知事が山口県漁業者のこのように状態を見て、日本赤十字社等を通して、この抑留者の給与状態、あるいは人命の保護に対する調査を申し出る意思はないか聞きたい。また県自体がその気の毒な家庭の救済に対していかなるお考えをもって救済の道を取られるか。それも併せてお尋ねしたい。

小澤知事
 朝鮮水域における李承晩ラインの暴挙に対しては、私は皆様とともに憤りを感じ、また痛恨やるかたないものを覚えるのである。犠牲になられた方々に対しては、私はとりあえず予備金をもって見舞金を差し上げて、さらにその他の措置については、県、市当局とも相談して、生活の御苦労を何とかして救っていきたいと考えている。もとよりこのことは国家の責任において処置すべきものであるということは、井川議員と見解を同じくするものである。皆様がたとともどもに政府をべんたつして、早期にこの問題を解決することを強く希望している。特に本県と韓国は地理的にも歴史的も切っても切れない関係がある。この親善感を阻害する李承晩ラインの措置については、両民族の間において早期解決を要望したいと考えている。また拿捕されて御苦労なさっている方々に対する衣服の送付などのことについては、井川議員と同様に日本赤十字社を通じて早急に措置したい。

井川議員
 水産委員会を代表して緊急動議を提出したい。御承知のように日韓会談が決裂して、昨日は萩市において全県下の漁民総決起大会が行われまた明日は地元選出の国会議員参集の下に日韓漁業山口県対策本部と協議して来たるべき国会にこの問題に対する措置についての手続きを進めることにもなっておる関係上、この問題の緊要性にかんがみて、次のごとく決議を上程する次第である。
  日韓会談決裂に伴う李ライン水域問題の
  緊急措置に対する決議案
 李承晩韓国大統領は、昨年一月十九日突如として「海洋主権宣言線」を宣布し、日本漁船の同ライン内への立入りを禁止する方針を明らかにし、それ以後しばし日本漁船への抗撃と捕獲を繰り返し次から次へと宣言水域の取締強化策の実力行使に移りつつあったが、遂に韓国政府は去る九月七日の二十四時を期し全日本漁船をこのライン外に退去させることの通告をなすに至り、武力行使を示唆する強硬手段によって実際にはラインの内外に在るを問わず、又操業中と航行中の如何を問わず、国際法上全く前例を見ない不法拿捕を強行し、一方的な自国の裁判によって漁船、漁具、漁獲物を奪い乗組員には体刑を課するなどの暴挙をなし、既に政府の確認したるもの四十一隻の漁船と四百八十四名の乗組員の拿捕抑留を算するに至り被害のおよぶ所計り知れざるものあり、今や日本漁船および乗組員の生命財産の不安はこの上もない危険と恐怖の状態に立至った。
 われわれはこのことに関し、深い関心を有し、昨年十一月二十五日と去る本年九月九日の二回に亘り県議会満場一致の決議をもって日韓両国がおかれている冷厳なる国際情勢の下にあって両国民の上に宿命づけられた共通の運命に思いをいたし、日韓両国の善隣友好と平和を希求し、この当面する重大事態が両国政府の善意と良識の上に立っての努力と平和と正義を愛好する世界の諸国の世論と斡旋により速やかに解決されることを確信し再開せられし今次日韓会談の成果に全部の期待をかけて、これが成功を念願していたものである。然るにわれ等の期待は裏切られ十月二十一日をもって日韓会談決裂の方に接す。
 天運無情というべく何たる痛恨事であろう。事既に茲に至る、われらは会談決裂の責任がそのいずれの側のあるとも日本国の法律の保護を受ける日本国民に対しては一応日本国政府の責任において、その生命財産の安全が保証せられ、その損害に対する補償の措置が講ぜられるべきであると信じ、本県議会満場一致の決議をもって、次のことを日本国政府に陳情するとともに衆議院および参議院に請願する。
 一、捕獲されたる日本漁船と乗組員に対する、その損害の国家補償をなすと共に漁船の代船建造資金の優先的融資措置を講ずること。
 二、抑留された乗組員の対する生命の安全、待遇給与の改善と早期帰還に必要なる措置をとること。
 三、留守家族並びに遺族の生活援護に必要なる措置を講ずること。
四、今後における漁場の安全を確保し自己を末然に防止するために有効適切なる手段を速かに実施すること。
五、以上のことは事態の緊急渡重大性に鑑みすくなくとも災害等に対してなされると同等なるれ熱意と努力において緊急重要施策としてとり上げられ、地区開会される第十七回国会の会期中に必要なる措置を講ずること。
右決議する。
 昭和二十八年十月二十三日
        山口県議会議長  二木謙吾
      殿
 どうか事態の重要性にかんがみられて、満場一致をもって本決議案の御賛成をお願いしたい。
 直ちに採決の結果、決議案は満場一致で可決された。次に議長は日程を追加して議案第三十六号を上程し、知事の説明を求めた。

○十二月臨時会
小澤知事
なお、報告を一件提出しておるが、これはさきに韓国官憲により不法だ捕された本県漁船乗組員がこの程、送還されたので、国の方針に基づきこれが救済のため、見舞金四百三十二万六千円を全額国庫補助をもって計上したものであって、帰国当面の救済に遺憾なきを期するため専決処分したものである。ここに御報告申し上げる次第である。
 以上で、知事の説明を終わった。次に井川議員より李ライン問題に関する専決の決議の経過について報告が行われた。

井川議員
 朝鮮水域における非常事態が発生して以来、本県の水産業界を初めとする関連産業、ひいては、経済界全般に及ぼす影響が極めて深刻なるものがあるので、本議会として満場の御賛成の下に、この事態の収拾方、並びに善処方について力強い決議をしていただいたのであるが、水産委員一行はこの決議文の実現のために中央方面に運動を続けてきたのである。本日の議会にその経過の一端を御報告させていただきたい。国民的の御同情と力強い御支援によって、漸く抑留船員が無事帰還したことは、全く皆さま方の御協力の賜であると考えて漁民とともに喜びにたえないところである。本県関係においては萩関係百四十四名、下関関係八十七名、計二百三十一名の抑留船員が帰ってまいった。なお、いまだ未帰還者が後一隻二十五名残っておるわけであるが、この未帰還者をもなるべく早い期間に送還されることを念願しつつ、さらに力強い運動をしたいと考えるわけである。国として取られた措置は、抑留船員家族に対する法案が、何かの姿において出て来ることをわれわれは期待している。国会においても、各政党制覇を超越して、この問題に解決に力強い熱意をもって当たっておられることを思うとき、これらによって生じた損失保障などについての措置が講じられることを念願するものである。この問題の本質は単に漁業問題にあらず、日本の主権侵害に対する問題である。いま仮に漁民がこの漁場を放棄したならば、この李ライン水域が培われて行くというところに、我が日本として絶対服し得ないのである。漁民は断じてこの線を引かず、日本の主権の第一線に立ってその侵害を防止するために、このラインを守って強硬出漁いたしているのが現状である。竹島を奪われ、さらに壱岐対馬に対するこの脅威を考える時に、全くこの問題は日本の主権が保たれるかどうかの重大な問題であるわけである。この日韓両国の基本的な問題の解決に、漸くアメリカが積極的に乗り出してきた。我々はアメリカの仲裁によって、この国際法上類例を見ない不法なる李承晩宣言が一日も早く撤廃せられて、公海における漁場の安全が確保される日を念願している次第である。また、抑留船員家族、その他これらの運動を実現する県議会としては、その時々きわめて敏速的確なる措置を講じてまいりたい。このことについても関係漁民はもとより、これら抑留船員家族一体となって感謝の念を申し述べている次第である。はなはだ簡単であるが経過の一端を申し上げて御報告に代えたい。
 午後十二時十五分休懇
 午後二時再開
 再開後、議長は議案第八号を上程し、提出議案に対する知事の説明を求めた。

小澤知事
 李承晩ライン設置に伴う韓国の一方的強硬措置は、日本漁業にとって致命的打撃となり、特に、本県漁業に与えた被害は実に甚大である。これが打開の方途については、皆さま方の御協力の下に懸命の努力を続けてまいったのであるが、未解決のまま年末になったことは誠に遺憾とするものである。しかしながら、かかる状況は日時の推移に伴い水産関係者の経済的困窮を深刻化し、年末における経営収支の決済にも困却するという状態に立至って、このまま放置するならば金融機関よりの融資は止まり、生産資材の入手代金その他すべての資金にも事欠く結果となり、ますます生産の減少を招来することは明らかなことである。もちろんかかる国際的紛争に基づく諸案件の処理については、国においてその責を負うべきであって、本県としても金融対策をはじめ諸種の救済措置は、急速に政府に要請しているのである。しかしながら、短時日の間に国の施策の実施を見ることは困難な模様であるので、ここに県としては、これら県水産業者が年末において必要とする所要資金見込額一億円の範囲内において、融資額の半額を検討とする損先補償を金融機関対して行うこととして融資の促進を図り、水産生産の維持と将来の増進とに供へたい所存である。
 以上で知事の説明を終わり、質問に入った。

山本議員
 漁場の国際的紛争の危害を受けて困窮している中小漁業者に対して、金融機関に対する五割の損失補償を県として支給し、厚生の機会を与えるために一億円を年末に出資しようとする議案第八号については賛成するものであるが、その融資のいかんによっては、非常に喜ぶものであるが、もし策を誤れは怨嗟の声が起こることは避けがたいことである。このような融資が行われる場合、やゝもすると特定のもののみに行われて、高いところに地持ちをするという関係でほかのものが締め出されるのである。これは金融機関がその回収の安全を期するあまり、利息の比較的高いもののみに融資するのはないかという声を聞く。従って、この機会においてその融資を渇望するものに対して、よほど慎重な調査を行って適正公平な融資をしなければならないと考える。金融機関の自由意思によって融資の選定を行うのかどうかまたその方針を伺いたい。

小澤知事
 今回取った措置だけによると、あくまでコマーシャルベースのケースバイケースということになるのであって、このことについては金融機関とも話し合っていきたいと思う。ただし、これは年末融資の金融措置であって、これを裏付けするものは先ほどの提案理由で申しあげたように、国においてもこのような災害に対しては農地災害に匹敵するものと考えて、これらの困窮される方々に日銀の特融、あるいは国庫資金による肩代わりといった措置を強力にとってもらう必要がある。これは県令の皆さま方と私と業者と、さらに中央に対する強力な働きかけによって有終の美をなし得るようにしたいと思うのである。
 以上で質問を終わり、議長は提出議案の審査を各常任委員会に付託して、午後四時散会した。

昭和二十七年の県議会
○二月定例会
田中知事
 水産関係については、近時濫獲漁業により漁業資源が極度に枯渇し、加うるに瀬戸内海を中心に違反漁船の横行は漸次頻繁となり、漁業秩序をかき乱すのみならず、関係漁民の経済をおびやかし、まさに崩壊の危機に迫っておる実情であるので、漁業取締施策の強化推進並びに取締船の運営管理など、これら必要経費を追加計上している。他面漁村経済とその指導的中核をなすものは、漁業協同組合、並びに同連合会であり、その健全な発達をはかることは目下喫緊の幼児であるのでその経営士道に努めるとともに、県費一百七十余万を投じて漁協、並びに連合会に対する利子補給をなすこととし、もってその再建整備を容易ならしめる計画である。

○三月定例会
田中知事
 水産関係においては、近時とみに活況を呈してまいった本県水産関係者の旺盛なる生産意欲と立地条件に恵まれた本県の水産業は、講和発効を目前にひかえて一大増産に拍車を加えられ、全国的に生産の首位を争う位置となっていることは誠に喜ばしいことであり、今後ますますこの天恵の優位性の上に関係業者の不屈の精神を期待しておるわけである。この意味において本年度は各種漁港施設の整備費として三百六十六万円、あるいは密漁取り締まりの経費、漁船に対する無線電線電話の設置助成費、新装なった外海および内海試験場の全面的活動促進に要する経費などを計上しているほか、本年度新しい試みとしては外海出漁奨励の意味をもって、対馬漁場を中心に必要な施設を行う経費、並びに本県の遠洋漁業対策として水産物の鮮度の保持、価格の調整、輸送の円滑を期し、かつまた中小業者の維持育成を図るため、下関漁港に冷蔵設備を設けることとして二千万円を計上するなど、水産関係の総経費は一億二千八百六十一万余円となっておる。

 水産関係としては、三十二万円をもって海産稚鮎放流試験を行うこととしたほか、近時外海出漁の漁船のだ捕されるもの多く、これが対策の一助として船舶通信網の強化助成を行っておるが、今回これらだ捕抑留せられた船員のうち、事業不振のために生計にも影響を及ぼすお気の毒な方に対し、見舞品を送り慰籍激励することとした。


昭和二十六年の県議会
○八月定例会
田中知事
 水産関係については、近時内海における密漁の跳りょうは近海漁業者の生業をおびやかし、まことに憂慮すべきものがあるので、これが取り締まりのため、現有の取締船北晴丸に新たな傭船をなし、取り締まりの徹底を図るとともに、要所に漁礁を設けることにより、密漁船の侵航に備え、かつ、漁場確保に資することとする必要経費五百四十六万余円を計上いたした。なお、二千五百五十三万余円を追加して、第二、第三種県営漁港および市町村などの漁港修築を行うほか、三千万円をもって浚渫線を購入し、最近極度に荒廃いたしておる漁港の維持浚渫を行うこととし、漁港機能の増大と漁業根拠地の保全につとめしめることとした。
 右のほか、遠洋漁業の振興助成を図るため無線電話設置に対し補助金を交付することとし二百万円を計上し、さらに漁業協同組合に対しては、その資金繰りを容易ならしめるため、貸付金一千万円の支出をなすかたわら、これが経営の指導、水産加工品の増産指導など、水産振興上必要な経費の追加をした。

宮川議員
 知事にしても、県当局の要路のかたがたも、内海沿岸業者が非常に行き詰っているという実情は、幾度となく実地を御視察になり、御存知のことと思う。しかるに、今回の追加予算をみると、そういう零細漁民の救済をされるについては、いったいどの項目が適用されるのか、その点を伺いたい。

和田民生部長
 漁村の方々をいかにお救いするかということは、水産県としても重大な問題である。特に大島郡近海を中心にする違反漁業、外海の底曳きが内海にまで入って漁礁を荒らすというような点、あるいはダイナマイトを使用する爆破漁業、こういった違反漁業に対して、地元の方々はほとんど死活の問題として苦しんでいられるわけである。県においても検察庁あるいは警察、さらに、水産部では各県に要請するなどあらゆる手段を尽くして、これらの取り締まりに努力している。取り締まりの問題のほかに、いわゆる漁信連に対する貸出しの問題もある。これらについても県としては同様にいろいろの施策を考えねばならぬと思っている。


昭和二十五年の県議会
○一月臨時会
 次に井川議員から、「マッカーサー・ライン内における操業の自由と漁船の保全と漁船員の生命の安全保障の要請決議案」の提出があった。採決の結果全員の賛成で可決された。

○三月定例会
西村議員
 漁業法の改正に伴って、今まで許可なしに機船底引きをやっていたものに対し、知事が農林大臣の承認を得て小型手繰りとして許可することができると聞いているが、現在でもすでに底引き漁船は大変多いのに、これ以上底引きを増やされると、沿岸漁場が大変荒廃することになる。県はどういう対策があるか。もし許可するならばどれくらいの統数を許可するか。

田中知事
 本県の水産業は多様性をもっているが、県の水産行政としては沿岸関係を主とした内容をもっている。この点は本県の水産の内容と、県行政として管轄している面との食い違いである。特に沿岸漁業の振興を図る意味からも、漁礁などについては特に考えているわけである。

○八月定例会
井川議員
 水産部が設置されることはまことに喜びにたえない。しかしその裏付となる水産部内の機構改革案の要綱を見るとき、一まつの寂しさを感ずる。本県の海洋漁業は最近三割の減船を余儀なくされ、あるいはマッカーサー・ライン、朝鮮動乱に伴う操業上の安全面、しかも日々深刻化する金詰りにより、水産経営はまさに崩壊の一歩手前にある。然るに下関の水産事務所では、現在下関漁港事務所の中で水産課下関出張所との併用である。ここには二級以上の技師が必要であると思うが、三級主事の方が配置されている。これではたして下関の漁業者を指導し、県の行政を滲透させることができるか。

田中知事
 御覧のとおり下関に関する行数はまことに少ないが、瀬戸内漁業、日本海漁業もあるので、断じて遠洋漁業を軽視するものではない。

○十二月定例会
藤井議員
 ダイナマイトによる密漁がばっこしている。ダイナマイトを受けると半年は魚がそこに近寄らないという。しかも密漁船は快速を利用して警備船や監視船を尻目にゆうゆうと逃走している。こうした漁民の窮状を早急に解決することこそ、為政者の喫緊の責務である。

田中知事
 仰せの通りの実情であるので、今回の処置をしたのである。





昭和二十四年の県議会
○三月定例会
西村議員
 自分の取った魚は非常に安く、漁船・漁具その他油等はすばらしく高い。次の生産はおろか、日常の生活に苦しんでいる。このさい県費あるいは国庫補助をもって、十分なる漁業の振興をしていただきたい。またまず漁礁の拡充や船溜の設備を十分にしていただきたい。また試験場で研究されたことは、是非とも漁村に出向いて講習会を開き、あるいは技術方面についても指導していただきたい。

田中知事
 御指導の面のみならず、土木費なりなんなりの経費の方に編入されている漁港なり、あるいはその他の経費もあるわけである。大企業としての企業水産と違って、特に沿岸の漁村に対しては県の助成なり、あるいはまた厚い保護というものが絶対必要である。

原彬久編『岸信介証言録』

<書誌情報>
原彬久編,2003,『岸信介証言録』毎日新聞社

岸信介証言録 (中公文庫)

岸信介証言録 (中公文庫)


p31
岸氏が「反共」・「反ソ」であることはいまさらいうまでもない。しかし岸氏における「反共」・「反ソ」は、日本敗戦に絡むソ連の国家行動と結びつく部分が大きい。ソ連が日ソ中立条約(一九四一―昭和十六―年四月調印。日ソいずれかが第三国からの攻撃の対象となった場合、一方の締約国は中立を守るとする条約)を一方的に破って対日戦争に参戦したこと、ソ連アメリカの「広島原爆投下」の翌日(昭和二十年八月七日)、すなわち日本敗戦決定的なるを見届けて参戦していること、しかもソ連がすでに半年前のヤルタ会談(一九四五年二月の米英ソ産国首脳会談)で「対日参戦」と引き換えに千島列島などを取得する事でアメリカと密約していたこと、そして対日参戦と同時にソ連満州樺太、千島に侵攻して日本軍民八十万人をシベリアに連行、抑留したこと等々は、岸氏の「反共」・「反ソ」を決定的にしたといってよい。
 しかし一方で、岸氏が敗戦後もなお「昨日の敵」アメリカに好ましからざる感情を抱いていたことは、また事実である。巣鴨の獄中にあって岸氏がアメリカ主導の極東裁判を厳しく糾弾していたことは前述のとおりだが、いま一つ、獄舎におけるアメリカ側の「暴虐」に対する岸氏の憤激には並々ならぬものがあった。獄中日記はいう。「表面民主主義の美名の下に此の人権蹂躙が行はれて然かも何ら抗議の方法も無きなり」(昭和二十一年十一月二十二の頃)。岸氏の「反米」がその「反共」と同様、幽囚の日々のなかでいよいよ確たるものになっていったことは間違いない。

p46
―横浜拘置所をめぐってどんなことが思い出されますか。
岸 太田という人は、今話したように、憲兵隊長だったんですが、間もなく横浜からかつての任地であったフィリピンに送られて、そこで処刑されました。横浜拘置所には、仲間である井野碩哉君(一八九一―一九八〇。東条内閣の農林大臣兼拓務大臣。戦後は参議院議員、第二次岸内閣の法務大臣)、賀屋興宣(一八八九―一九七七。東条内閣の大蔵大臣。戦後は衆議院議員、第二次池田内閣の法務大臣

p59
―ということは、岸さんが総理になる前後ということですか。
岸 私が政界に復帰したのは、昭和二十八(一九五三)年の総選挙ですからね。要するに、非常に大きなことは、サンフランシスコでの講和条約によって日本が国際社会に復帰したことですよ。占領下から解放されて国家として独立したことによって、国民のなかにみずからの道を決め理想を立てていくべきだという自覚がようやく出てきたわけです。

p68―69
岸 別段新党に関しては、特別なんもないんですがね。ただ戦後の保守合同に関していえば、議会制民主政治を進めていくには二大政党制がどうしても必要だという考えがその基礎にあったんです。保守党も革新政党もその裾野は富士山のように大きく広がっていてだね、しかもその裾野がどこかで交わっているということが必要なんだ。保守党の一番左の考えは、革新政党の一番右の考え方よりも左に位置するというぐらいが丁度いいんです。思想的に交わるような政党が二つできると、議会制民主政治を行っていくうえで僕は非常に望ましい姿だと思っているんです。政権が変わっても社会的に激変が生ずることのないのがいいのであって、二つの政党間に大きな距離があって相交わっていない場合には、一方が勝って一方が負ければ、社会革命ということになりますよ。
 だから、相交わることができる政党を何とか作りたいというのが、僕の一貫した狙いであった。いまあなたがいわれたように、私が巣鴨を出て再建連盟をつくったとき、三輪寿壮、西尾末広(一八九一―一九八一)、河野密(一八九七―一九八一)、三宅正一、川俣清音といったかつての無産政党の連中にも新党構想で呼びかけたわけだ。そもそも再建連盟というものには自由党だけではなしに、改進党的な考えを持っている者も、社会党的な考えを持っている者も入れてですよ、国民運動をやって、そしてある程度の基礎ができた上で国会に出ていくつもりでおったんですよ。
p73
――真剣に社会党にお入りになろうとしたのは、どういう狙いだったんですか。
岸 社会党というものを保守党に交差させても良いし、ある意味における捕獲連合の正当をつくるその基礎もできるということだ。両方の正当が、先ほど一体歌ように、裾野が交わるということが必要なんです。僕なんかのように国粋主義者あるいは自由主義者であり、資本主義の考えを持っているものも社会党に入ったらいいんです。社会党内における差異右派としてですよ。保守党の方には、かつての護国同志会をつくったときのように、社会主義の西尾とか川上丈太郎さんなんかを入れたらいいんじゃないか、というような気持ちが私にはあったわけだ。

p74
――社会主義協会などに対しては、これを支持する大衆はちっとも増えませんね。
岸 政治の社会においてはね、共産党は別にしても、その他の政党においては、現実的に高い理念があるわけじゃないですよ。学問的な、基礎的な考え方ということになれば、違いはあるかもしれないけれどもね。生活の面においては、現実の問題においては、もう少し共通の点が多いと思うんですよ。そこのところにことさら目をつぶってだな、それをみまいとする傾向があると思うんです。しかしそうじゃなしに、現実というものにもう少し手を触れてみることが重要なんだ。この間、日韓協力委員会(一九六九年二月設立)の総会を開いたんですが、今まではこれに出かけてくるものは、ほとんど自民党の人たちだけだったんです。今度は民社党春日一幸君だとか、公明党(委員長)の竹入義勝君とか、それから新自由クラブ山口敏夫君などがきて、祝辞をのべて、この会に協力してくれるというんだ。
 こうなるとね、物事は非常に現実的になってくる。韓国人を好かないとか、あるいは向こうからすれば日本人に対してナニがあるかもしらんけども、韓国と日本が仲良くしていかなければならないということは当然なんだ。隣が嫌だから引っ越すというわけにもいかないんだからね。結局、お互いに仲良くしていく以外に方法がないと思うんですよ。現実の政治から見て、特に野党だから韓国と話をしないというようなことは間違っていると思うんですよ。

p82

私はこのとき緒方さんにいったんだ。緒方さんは私が尊敬している先輩なので、将来必ず一緒に仕事をしなければいかんと思っているが、現在の状況ではあなたと吉田さんとは一体だ。

p87―88
――この選挙では、いわゆる岸派の勢力は、相当伸びたんじゃないでしょうか。
岸 あの時はまだ岸派なんていう考えはなかったがねえ。
――そうですか。当時の新聞は選挙で岸派が三十人ぐらいになったというふうに書いていました。それから、旧改進党の芦田派とか大麻唯男さん(一八八九―一九五七。衆議院議員鳩山内閣国務大臣)のグループなどが岸さんに近づいてきたということで、後々の岸派の予備軍のような人たちがこの選挙で増えたように思いますが。
岸 まあねえ。僕は幹事長として、とにかく目標の保守大同合を完成するという一念に燃えていました。あの選挙の時点でホッとしたという状況ではなかった。したがって、岸派をどうする、こうするという考え方は当時なかったですね。岸派について考えるようになったのは、自分が鳩山さんの後、(自民党第二代)総裁選挙(一九五六年十二月)に臨むとか、自分が政権を握るとかという状況になってからですよ。

p91

緒方さんはこうもいっていた。ついてはその場合、今日の一番大事な問題は外交だ。自分が首相になったときの外務大臣のことをいろいろ考えているんだが、自分が岸君、君にやってもらうのが一番いいと思う、とね。緒方さんは自分が組閣にあたる場合には、外務大臣の岸にするつもりであったと思うんです。
p91
――岸さんはそのとき、緒方内閣になれば外相を引き受けてもよいとお考えになっていたんですか。
岸 そうです。私もこれを引き受けてもいいと思っていた。緒方さんには、「確かに外交が大事だ」という話をしたことを覚えています。

p95
――岸さん個人としては、この日ソ問題についてはどんなふうにお考えでしたか。
岸 私が日ソ交渉を成立させなきゃいかんと思った一番の理由は、日本が国際社会に復帰するということにあったんです。何としても国連に入らなければいかん、ということだ。日ソの国交がないあの状況ではソ連が日本の国連加盟を拒否権でもって邪魔をし阻止しているわけだから、日本はいつまでも国際社会の一員になれないんだ。日ソ交渉によって両国の戦争状態をなくして、ソ連が日本の国連加盟に拒否権を行使しないようにする必要がある。しかし、その時に分かっていたことは、ソ連がなかなか北方領土を返さないということだ。領土問題を将来の懸案にしておいて、第一歩としてはとにかく日本が国連に加盟して国際社会の一員になるということが重要だった。
――当時の自由党の吉田派といいますか、池田勇人さんたちのグループは日ソ交渉には強く反対しましたね。
岸 そりゃあ反対だった。
――吉田さんや池田さんたちは領土問題については絶対に譲れないということでした。それから、対米関係というものを非常に気にされておりましたね。
岸 そうでした。池田君も日ソ交渉には反対したけれども、吉田さんや池田君に近い小坂君あたりが特に強く反対していたんですよ。
――小坂善太郎さんですか。
岸 ああ、善太郎さんです。なにせ吉田さんと鳩山さんの関係は非常に悪かったからね。政策問題の前に、人間的、感情的に関係が悪かった。


p98
――吉田茂という人物は、一口でいえばどういう方なんですか。
岸 一面においては、皇室に対して「臣茂」なんていうぐらいに、陛下に対する臣下としての……したがって、物事の考え方は徹底している。人の好き嫌いがなかなか激しかったしね。河野一郎なんて言うのは大嫌いだった。それから政治的には吉田さん自身が駐英大使をやられていたためか、英米的な考え方ではあった。だから東条内閣の末期においては、戦争を早くやめなければいかんというので、いろいろな動きをしたために憲兵隊に捕まって監獄へ入れられた。人間としてはなかなかユーモアがあってねえ。

p100
――鳩山さんは総理大臣になってからは、お体が悪いということもあって、こんなことをいっては悪いけれども、いわば象徴的な趣があったんではないでしょうか。実際の舞台回しは岸さん、三木武吉さん、河野一郎さんといった面々がおやりになった……。
岸 やらざるを得なかった。それにしても、あの日ソ問題で一番苦労されたのは、僕は総務会長の石井(光次郎)さんだったと思うんだ。鳩山さんとは親戚だし、(石井・鳩山両家の共通の姻戚がブリヂストンタイヤの石橋家である)、しかし吉田さんとは非常に近い人だからね。吉田さんは日ソ交渉に反対であったし、鳩山さんはまた執念として日ソ国交を実現したいというわけだ。その間に立って、石井さんは総務会長として党内の取りまとめをする立場だったからね。ずいぶん苦労したと思う。
――そうですか。やはり石井さんは板挟みになった……。
岸 そうなんだ。私は幹事長であったわけだから、もちろん党内の調整にあたったんだが、私以上に苦労したのが石井君だ。吉田派の池田君や小坂善太郎君などとの関係は私より深いからね。彼らを少し押さえて下さいよ、ということを石井君に私自身頼んだ覚えはある。

p116
――岸さんは石橋内閣の外相に就任されて早々に(一九五六年十二月二十三日)記者会見をなさいますが、その時日本外交に関する「五つの原則」なるものを示されましたね。すなわち、「自由主義国としての立場の堅持」、「対米外交の強化」、「経済外交の推進」、「国内政治に根差す外交」、「貿易中心の対中国関係」というものでした。これは、後の岸政権の外交政策を知るうえで重要であったと思うんです。この後原則のうちの「対米外交の強化」は、(一九五七年)二月四日の衆議院本会議での外交演説で「日米関係の合理化」という言葉でいい直されております。このときすでに「安保改定」ということは、岸さんの中である種の位置を占めていたということでしょうか。
岸 その通りです。「日米関係の合理化」といったのは、旧安保条約の改定ということが頭にあったからです。旧安保なるものは、あまりにもアメリカに一方的に有利なものでした。というのは、日本が防衛に関して何ら努力をしないために、形式として連合軍の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領しているような状態である。そういう状態を続けていくのでは、日米関係が本当に合理的な基礎に立っているとはいえない。したがって、これをどうしても改めていく必要があったんです。日米関係を強化する意味での、本当の同盟関係を作り上げることが、(石橋内閣における)私の外相就任の第一義的な目的でした。他にテーマはいろいろあったがね。

p119
――先ほど、岸外交の「五つの原則」に触れましたが、そのうちの一つに「国内政治に根差す外交」というものがあります。これは、後に岸さんが展開する安保改定作業に絡めても、外交原則としては大変興味深いものだと思うのですが。
岸 従来外交というものは、何か特殊な政策のごとく考えられていたと思うんです。内政との関連、噛み合いというものが外交にはなかったわけです。だから、外交に当たるものは、何か国内政治における自分の地位とか力関係というものから離れて、外交というものを特別なものとする傾向があったんです。
――それではいけませんか
岸 それじゃいけない。本当に強力な政治を行おうとすれば、内政の上にその外交政策というものが置かれて、内政との関連において組み立てていくということが重要なんです。そうすることによって外交が十分に各方面に理解されるんです。
――具体的にはどういうことでしょうか。
岸 例えば、日米関係を重視するという外交政策は、日本国内の経済政策とか、あるいは日本の文化の面との絡みあい、関連を以て樹立されなければいかんのです。外交政策だけを切り離して考えるということは問題です。外交官というものは一種特殊な立場であって、専門的な傾向を持つのだけれど、それでは駄目なんです。国内における政治との噛み合い、国内的な根っこと絡み合わせて外交政策というものを立案し施行していかなければなければないというのが、私の考えです。
――「五つの原則」のなかに「経済外交の推進」という項目がありますが、これは当時のインドネシア、(南)ベトナムの賠償問題との絡みでもあったのですか。
岸 日本としては、軍事大国をいかなる意味においても目指すわけでもないし、政治的に開発途上国を支配していこうという考えでもないんです。純粋に経済的な立場に立って、そして日本の経済力拡大とともに、開発途上国の繁栄と経済発展のために協力すべきだという考え方なんです。

p127―128
――岸内閣実現にあたって、岸さんの最大の協力者であった河野さんが、「大野副総裁」、「河野幹事長」でもって党内の主導権を取り、内閣の方は岸総理、石井国務省に任せるという構想をもっていたというふうにいわれていますが。
岸 私としても、大体党の方は大野君と河野君に任せようと思っていたことは事実だ。もっとも、訪米後の人事(一九五七年)で河野君は閣内に入ったけれどね。ともかく自分としては、総理の仕事に専念しようと思ったからです。特に外交です。最近は年中行事みたいになってますが、総理が各国を歴訪して、日本の政策なり基本(姿勢)を話し合うことが重要だと思ったんです。当時は総理大臣が東南アジアだとかアメリカその他の国を歴訪することがなかなかなかったですからね。飛行機もいあのようにジェット機じゃなしに、プロペラ機の時代だから、外国を回るということはなかなかできない状態でした。私は日本が敗戦から立ち直っていろいろなものを肌で感じてくる必要があると思ったんです。

p132―133
――アメリカにいらっしゃる前に、東南アジア六カ国(ビルマ―現在のミャンマー―、インド、パキスタン、セイロン―現在のスリランカ―、タイ、台湾)を訪問されたのはなぜですか。
岸 私がアメリカに行くには、非常に準備したんですけども、現職の総理がアメリカへ行くその前に、東南アジアを回って、とにかく「アジアの日本」というものをバックにしたいという考えがあったんです。
――「東南アジア開発基金」構想(コロンボ計画加盟十八カ国に台湾を加えて基本構成メンバーとし、これらに長短期融資をするなどして自由主義陣営の強化を目的とする)と「アジア技術研修センター」設立の構想というものを、ご訪米前マッカーサー大使に打診しておられますね。結局これらの構想は、アメリカから色よい返答はなかったといわれておりますが、これもまた岸さんの「安保改定」と関係があるのですか。
岸 安保改定とは直接の関係はないが、訪米するについては、日本が「アジアの日本」であって、アジア諸国の開発と繁栄のために日本が経済外交を推進していくつもりであること、したがってアメリカがこれに協力してくれなければ困る、ということでした。
――そのための東南アジア訪問でもあったのですか。
岸 そうです。これらの地域を私は現実に回ってその実情を見ることと、そしてこれらの国々の首脳と会談しなければならないと思ったんです。「アジアの日本」、いわばアジアの発展のための指導役として日本の使命を尽くすという考え方で、これらの構想をアジアの首脳と話し合ってる程度これを握ってアメリカに行くという考え方でした。私のアメリカ外交においては、アジアの発展、安定が日本の発展と安全の基礎であるわけだから、それには、これらの地域を本当に日本が掴んでいかなければいかん、ということでした。
――東南アジア外交は、岸政権の政策としては一つの要石であったということですね。
岸 そうです。これらの国々から日本が信頼されなければならないという意味において、アメリカに行く前に東南アジアを回る、ということでした。時間の関係で全部を一度に渡ることはできなかったんだが、まずは半分だけ回ったんです。訪米から帰ってきて、秋にはまた東南アジア(南ベトナムカンボジアなど九カ国)に行ったんです。

p150―151
――藤山さんのどういうところを評価されて外相になさったのですか。
岸 日本は軍事大国ではないのだから、軍事力をもってこれを外交の基礎にするわけにはいかない。やはり経済を基礎にした経済外交というものを日本外交の根底にしなければならない。それには経済人としての藤山君を政界に引っぱり出したい。また日米関係からしても、藤山君は従来民間人としてアメリカとの関係も深い。さらに私と藤山君との従来の付き合いからいって、将来、総理総裁になるかならないかはいろんな関係で分からんけれども、自民党内における新しい人物として養成したいという気持ちも私のなかにはありました。新しい人物をつくり上げるという意味において、藤山君をただ外務大臣にするということじゃなしに、将来の自民党内における重要な政治家にしなければいかんという考えが根底にあったんです。

p158―161
――話は変わりますが、中国の問題についてお聞きします。総理の安保改定作業を鳥瞰しますと、当然といえば当然ですが、中国、ソ連による執拗なまでの「安保反対」論に注目せざるをえないのです。特に中国の岸首相に対する攻撃というのは、安保改定交渉が本決まりになる前からかなりはっきり出てまいります。例えば五十七年七月(二十五日)、周恩来首相の東南アジア訪問における岸・蒋介石台湾総統)会談を取り上げて、岸さんが対中敵視政策をとっていると厳しく非難しています。翌五八年二月には第四次貿易協定の再開交渉でいわゆる国旗掲揚問題(一九五七年一二月以来中断されていた第四次貿易協定交渉は翌五十八年二月で北京で開催され、三月五日調印された。しかしここに至るまでには日中両国は、駐日通商代表部の建物の中に中華人民共和国の国旗を掲揚する権利をめぐって対立し、結局「国旗掲揚」を主張する中国側の主張を日本が受け入れた)が起こります。また同年五月二日、すなわち、さきほど話題になりました「話し合い解散」に続く総選挙公示直後のことですが、いわゆる長崎国旗事件(五月二日長崎市のデパートで催された中国切手・切り紙展示会場で中国国旗を一青年が引きずりおろした事件。警察が犯人を簡単に取り調べて釈放したことについて中国は日本政府を激しく非難した)が起こります。そこでお尋ねですが、岸さんはそもそもこの頃の中国にどういうイメージをお持ちだったのですか。
岸 中国に対する私の基本的な考え方は、「政経分離」です。経済的な分野、例えば貿易関係は積み重ねてくけれども、政治的な関係は持たないというものでした。しかし、経済関係を重ねていくうちに世の中が変わってきて、政治的な関係が生まれてくるかもしれない。しかし、当時としては政経分離の形にしておこうというのが私の考えでした。
――こうした政策が相当中国の癇に触ったわけですよね。癇に触ったといえば、あの当時岸・蒋介石会談で蒋介石総統の大陸離反政策(中国共産党政府に反抗して、台湾の国民党政権を大陸に復帰させるための政策)を総理が支持されたというというようなことがいわれていましたが……。
岸 私は蒋介石さんには数回お目にかかっていろいろな話をしているんだが、その中で大陸反攻ということを企てても、軍事的にこれを実現することはほとんど不可能に近い、ということを彼には話しました。それよりは、この台湾で理想的な国家をつくって、大陸の大衆の生活と台湾における大衆の生活を比較して、台湾こそ王道楽土だというところを示せばよいのです。つまり蒋介石総統の政治が台湾の大衆に豊かな生活をもたらし、北京政府のやり方が国民大衆をいかにひどい目に遭わせているかということを示せばいいんです。彼我の差がはっきりすれば、蒋介石の政治が宣伝になって、大陸をさらに追い詰めていくだろうと、いうことを私は蒋介石にいったことがあるんです。
――蒋介石の反応はいかがでしたか。
岸 蒋介石は非常に不満の様子でした。つまり蒋介石は私の主張に対して、「君の言うことは非常に穏やかな方法だけれども、そうはいかんのだ」といって非常に反対の気持ちを露わにしていたことを覚えています。しかし、台湾が大陸に対して軍事的な反攻をするといっても、これは大変なことで実際にできるものではないですよ。大変な犠牲が出るんですから。
――当時の新聞報道などでは、岸総理は蒋介石の大陸反攻政策を支持したのではないかといわれていましたね。
岸 蒋介石としては確かに無理もないことなんです。自分が中国大陸を支配していたのに、そこを追い払われたんだからね(一九四九年十二月、毛沢東率いる共産党の内戦に敗れた蒋介石は、多数の官民の他におよそ「五十万人」に及んだといわれる軍隊とともに台湾に亡命した)。しかし、私が蒋介石の「大陸反攻」を支持したわけではない。支持したからといって、何になるわけでもないんだ。とにかく当時の周恩来首相などは岸が台湾と仲良くすることに対して、もう怪しからんというナニがあったわけです。だから中共におもねた人も日本にはおりましたよ。池田君はとうとう台湾には行かなかった。彼は何遍か台湾の上空は通っているんだが、実際には訪問しなかった。これがまた蒋介石としては非常に不満だったんだよ。
――池田内閣の時には台湾との間でいろいろぎくしゃくした問題がりましたね。
岸 そうです。プラント輸出の問題(一九六三年八月二十三日池田内閣は、倉敷レイヨン㈱のビニロンプラントの中国向け延払い輸出を承認)などがあったね。この問題で台湾が怒ってしまって、吉田さんが池田首相の親書を台湾に携行していったんです(一九六四年二月)。吉田さんとしては、可愛い池田を何とか助けてやろうというナニもあったんでしょう。

p184
――藤山訪米がいよいよ具体化しようとしていた五十八年七月中旬(十七日)のことですが、自民党総務会(河野一郎会長)では、それまで廃止されていた外交調査会の再発足が決まりまして、船田中さんが会長になります。また同じ日、政府与党連絡会議なるものが新設されます。これは総理のほかに、佐藤蔵相、池田国務省、三木経企庁長官、赤木官房長官、河野総務会長などが出席して(藤山外相は欠席)、今後外交の重要案件は外務省のみに任せずにこの政府与党連絡会議で話し合うことを決めましたね。つまり、外交問題に関しては外務大臣の責任とは別に、これら二つの機関の新設を機に、河野、佐藤、池田といった実力者の発言が急速かつ公然と重みを増すという状況になるわけです。したがって、安保改定の問題にしましても、実力者たちからの介入が、いわゆる岸・藤山外交に手枷足枷をはめていったようにも思うのですが。
岸 いや、足枷にはならなかった、ちっとも。党内をまとめていく上において、ある程度河野君の意見を聞かなければならないが、外交の基本に関して彼らの発言によって動揺するなどということはないですよ。われわれの考え方をスムーズに推進していくためには、言葉は悪いが、彼らに“餌”を与えたような格好なんです。彼らの発言権が大きくなって、我々の政策がそのために妨害されるというのではなしに、むしろその政策遂行において、党内をいわば手なずける必要があったんです。

p218-219
――石橋さんという方は、中国に関しては相当はっきりした意見をお持ちだったと思うのですが。
岸 あの当時、中国やソ連に対して日本は関係改善をしていかなければいかんということを主張した人では、石橋君、北村徳太郎(一八八六―一九六八。芦田内閣の大蔵大臣)のような人がいました。北村君はどっちかというとソ連の近かったけれどもね。私はいつまでも思ってることがあるんです。中国は台湾と中国本土に分かれているし、韓(朝鮮)半島は韓国と北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)に分かれておる。この分離の問題が日本と密接に関係しているわけだから、日本がこれら関係国と一切交渉しないというわけにはいかないんだ。大陸と台湾の対立、韓国と北朝鮮の対立についても、我々はゆとりをもってこれら四つの当事者と仲良くしていかなければならないんだが、そうかといって、一人の人間が中国本土にも行き台湾にも行き、韓国にも北朝鮮にもいってナニすることができるかというと、そうはいかない。
 だから、日本の政治家の間で北朝鮮、中国大陸、台湾、韓国とそれぞれパイプを持つグループができるのは、これはやむをえないと思うんですよ。また、そうであってもいいと思うんだ。そういう意味で石橋君が中国大陸に行くことも、別に私は反対というわけではなかった。ただ、いろいろな関係であまりに急激に日中関係を進めるようでは、日本全体としての政策の上から困る。だけれども、いまいうように、中国大陸とも仲のいい、信頼し合える政治家がおっていいし、北朝鮮、あるいは台湾とそういう関係の政治家がいてもいいんです。

p222―223
岸 賀屋さんは役人時代には私よりちょっと先輩であったけれども、二人とも革新官僚といわれていました。大蔵省では賀屋、青木和夫(一八八九―一九七七。東条内閣の大東亜相。戦後は参議院議員)、石渡荘太郎(一八九一―一九五〇。東条内閣および小磯内閣の蔵相)、農林省では井野碩哉だとか、商工省の私だとか、重要な者はその当時革新官僚といわれていたんだ。別に何か申合せて行動したというわけではありませんけれども、親しく知りあっていたのは事実です。賀屋君は広島の出身ということになってますが、本当の生まれは私と同じ山口県の熊毛郡で上関という島の宮司の息子ですよ。生まれるとすぐ、広島の賀屋家に引き取られたんです。私が満州を去る頃、先生は北支(一九三九―昭和十四―年、北支那開発株式会社総裁に就任)にいっておられた。それから東条内閣では大蔵大臣、私は商工大臣、さらには一緒に巣鴨に入ったというナニで、巣鴨を出てからも親しくしておったわけです。賀屋君は財政の専門家であるが、同時に教育、安全保障のような国の基本に関する事柄についても、私とほぼ意見を同じくしておった。安保改定についても賀屋君とはいろいろなことを相談しているし、党内調整において賀屋君の力を借りたことは事実だ。
――賀屋さんは、池田さんにも睨みをきかせていたのではありませんか。
岸 そうです。池田君と賀屋君は同じ広島の出身だからね。私が総理を辞めて池田内閣をつくることについても、賀屋君が非常に骨を折っている。
――岸さんが安保改定などで池田さんに働きかけようとする場合、賀屋さんは相当頼りになりましたか。
岸 それは頼りになった。あの二人は大蔵省の先輩、後輩の間柄でもあったからね。

p261
また外国の問題なんですが、日本の政情がいわゆる「中間報告」問題を巡っていろいろ揺れていたころ、隣の韓国でも四月二十六日、李承晩大統領(一八七五―一九六五。一九四八年大韓民国成立とともに大統領になる)がソウルにおける五十万人デモによって、ついに翌二十七日辞意を表明しました。李承晩政権の終幕でした(一九六〇年三月の大統領・副大統領選挙で李承晩政権が不当な選挙干渉を行い、これがきっかけになって暴動が続発し、四月二十七日辞意表明。五月二十九日アメリカに亡命した)。この巨大なデモは、折からの日本の反安保闘争にかなり大きな影響を与えたように思うのですが、総理はこのような状況をどう受け止められましたか。
岸 私は、日本の国内における安保反対運動は一部の勢力がつくっていたナニであって、決して国民的な反対運動じゃないと思っていたんです。しかし、李承晩を倒す運動は本当の国民運動として起こったものであって、ごく一部の意図をもっている人々の力だけでああしたことが起こるということはありえない。

p262―263
――話は少しずれますが、李承晩大統領とは当時あるいはそれ以前に何か接触はなかったんですか。
岸 それはなかった。しかし私の政権のときにね、矢次(一夫)君を私の特使として李承晩に会わせたことはあります(一九五八年五月)。国交正常化と漁業の問題で打診させるためでした。李承晩ライン(韓国が一九五二年一月、「海洋主権宣言」によって朝鮮半島周辺の公海上に一方的に引いた同国主権の線)で当時日本の漁民が拿捕されて、釜山に抑留されていたんです。私の地元の山口県とか九州には拿捕された者がたくさんおった。韓国に近いからね。山口県では漁民が非常にやかましく圧力をかけてくるもんだから、解決の糸口を掴もうという気持ちもあった。つまり日韓問題の妥結のきっかけをつかみ出そうというつもりで矢次君を派遣したんです。だから矢次君が李承晩と会ってきたけれでも、私は李承晩に会ってはいない。まあ李承晩自身とすれば、やっぱりなんでしょう。日本が朝鮮を併合したことに対する多年のナニがあったと思うんだ。韓国の独立を回復するために彼は苦労したわけだからね。天下を取ってから、相当排日的な政策を採ったというのも、やむを得なかったと思うんです。だけども、非常に独裁的なもんだから、韓国における民主主義は漸次失われていった。それであの革命が起こったということでしょうね。

p355
 ――大川周明の大アジア主義は、おそらく岸さんにおける戦後の政治活動の原点にもなっているのではございませんか。
岸 確かにそうです。私のアジア諸国に対する関心は、大川さんの(大)アジア主義と結びつきますよ。もちろん、私が戦前満州国に行ったこととも結びついてます。一貫しとるですよ。
――なるほど、満州国にいらっしゃったことと結びつく……。
岸 うん。根底においてはね。
――そうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。例えば戦後、アジア諸国に対する岸さんのアプローチと戦前のそれとの間には……。
岸 おそらく断絶はない。
――そうしますと、日本があくまでもアジアの中で指導国にならなければならないという考えになりますか。これはともすると、アジア諸国から反発を招きませんか。
岸 いやそれはね、指導国になるということは、我々の態度なり実際の行動次第だと思うんですよ。アジア諸国に対して脅威を与えないためには、これら諸国を威圧するような軍事力を日本はもたないということも必要でしょう。それから、我々の経済外交というものも、独善的な考え方に立つことのないようにするのは当然です。たとえば福田(赳夫)君が福田ドクトリン(一九七七年八月福田首相がマニラで発表した東南アジア外交三原則)で唱えたように、アジアにおける人材養成に日本が貢献するなどということは非常に重要です。
――具体的にいいますと……。
岸 たとえば戦前の日本が、その武士道的な態度でもってアジアの人々に感化を与えたことは、非常に大きな意味をもっていると思うんです。ごく小さな一つの例を挙げると、私は蒋介石に何度か会いましたが、彼は毎朝正座する習慣をもっているというんです。それは日本に留学したときに正座させられましてね。それ以来正座というものが自分の精神を統一し、肉体的にも非常に健康のもとになっているというんです。だから毎朝やるんだということをいっていました。まあ、こういうように日本に留学したり日本で生活した人々が、日本の生活様式に影響されて人物形成の上で大きな力となっているんです。将来外国で中心となるべき若い人々を日本で教育することはやはり必要ですよ。大アジア主義の考え方そのものではなくても、さらにもう一歩進んで、人間としてのあり方に感銘を与えるようなアジアの団結とか理想というものが実現されてしかるべきだと思うんです。やはり若い人たちの養成というものが一番必要なことじゃないかなあ。

ロー・ダニエル『竹島密約』

<書誌>
ロー・ダニエル,2008,『竹島密約』草思社

竹島密約 (草思社文庫)

竹島密約 (草思社文庫)


本書において李ライン及び日韓漁業問題についてどのような指摘あるかをまとめていきたい。本書の主張は竹島(韓国名独島)を対象とした日韓間での密約(竹島密約)があったことをリポートし、加えて、対日講和条約作成過程では日本による竹島領有権が認められ、韓国政府の主張は米国によって退けられたことも示している。


 本書における李ライン及び日韓漁業問題は以下の指摘がなされている。
1、李承晩ライン作成の理由。
①対日講和条約において敗北を喫した韓国外交 p.20~31
 米国政府は竹島を日本領と見なすことを決定
1946年1月29日付SCAPIN677号「日本の範囲から除かれる地域」
鬱陵島竹島、そして済州島
→1947年3月20日第一次対日講和条約草案~第五次草案まで竹島は留保付きで韓国領とされていた。
「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地域に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」
シーボルト駐日大使、国務省への講和条約第五次草案についての逐条意見書
領土条項「竹島が日本領土である旨を条約に明記するべきである。同島を朝鮮沿岸島と見なすのは困難である」
→1949年12月29日の米国第6次草案では竹島は日本領となる。最終草案も同様。
ディーン・ラスク国務省極東担当次官補から梁裕燦駐米大使宛の書簡
「独島、他の名で竹島もしくはリアンクル岩礁と呼ばれるものに関連したわが方の情報によると、ふだんは人が住まないこの岩の塊は韓国の一部として扱われたことがなく、一九〇五年以降、日本の島根県隠岐島司の管轄下に置かれていた。韓国はかつてこの島に対して権利を主張していなかった。波浪島講和条約のなかで日本から分離されるべき島の一つとして指定すべきだとの韓国政府の要求は棄却されるものと理解する。」
⇒領土争いの対象とならない「対馬」について領有権を主張する大統領、存在が確定できない「波浪島」の領有権を主張する韓国政府の準備不足と軽率な態度は、韓国の主張自体の信憑性を疑わせることにつながった。これは、首相をはじめ外務省が一体になって「理論武装」していた日本とはあまりにも対照的な風景だった。
⇒外交的敗北を喫した李承晩政権の「自らの手で正義を」実現しようとした形が「李承晩ライン」

②李承晩大統領個人の性格 p.32
連合国軍太平洋総司令官マーク・クラーク回想
「李は自身を韓国だけではなくアジアのリーダーと認識していた」
⇒国際社会が裁定した領有権を無視して、海の上に警戒線を引くことが可能だったといえるかもしれない。

③「自救策」としての李ライン p.32~34
 1945年9月27日、マッカーサーライン:漁業資源の乱獲を防ぐという目的で、日本列島の周りに漁業が可能な限定線を引いた。
→韓国政府は対日講和条約以降もマッカーサーライン存続を希望するも拒否。それに対する自救策。
・画定の手順
A、商工部:純粋に漁業資源のみを考慮した線(竹島は入っていない)
B、外務部:竹島編入を強く提示
C、大統領府において修正の後、決定

外務部政務局長金東祚
「こういう画線による排他的管理は、当時の領海三海里、公海での漁業の自由といった国際海洋秩序に背馳することで、国際社社会から多くの非難と反発を受けることを十分に認識していた。しかし……当時混乱に陥っていた海洋法の沿岸管理問題に乗じて反対の論理に対抗できると判断し、押し切ったのである……画線と関連し、私が将来の領土問題を考慮し、特別に漁業保護水域に入れたのが独島だった……私は、これから韓日間に起こりうる独島領土紛争に備え、主権行使の前例が絶対に必要であると思った。」


2、請求権と李ライン p114~121
朴・池田会談
「日本が請求権問題に誠意を見せるのであれば、韓国は平和線問題に柔軟に対応する」
請求権問題の解決=平和線問題の解決:「金・大平メモ」=平和線撤廃

1962年10月16日、朴将軍は、金鍾泌中央情報部長宛に出した「対日折衝に関連する訓令」
「韓日問題を大局的見地から解決するために、請求権問題で日本側が誠意を示せば、わが方は平和線問題に柔軟な態度で臨む」と指示。

1962年4月30日、韓国首席代表裵義煥報告書
参議院選挙までは日本を刺激する措置をとらない方が良いと判断される。特に、漁期が近づいてくると、日本の漁船が平和線を侵犯するケースが増えるが、拿捕は避けること、同時にこれが日本に対するプレッシャーになることも考慮して、柔軟に処理すべきである」

1963年以降李承晩ライン侵犯を黙認

大平外相との会談後の金鍾泌
「現実的にみて、平和線を永久不変の生命線のように思うのは無意味である。(それに譲歩することは、韓国の)漁民の利益をさほど損なうものではない。逆賊という辱めを受けてでも、祖国の近代化という大局的見地に立って、平和線にたいする官民の旧態依然たる考えを払拭したい」


3、漁業問題 p.191~
1965年2月椎名外相訪韓
「韓国沿岸十二カイリを、韓国の漁業専管水域とし、その外側に、共同規制区域を設けて、出漁制限を行い、日本は、漁業経済協力を行う」

○対立点
平和線:日本―撤廃、韓国―存続
12カイリ沿岸の基線の線引き:日本―済州島を本土とは切り離して基線を引くべき、韓国―朝鮮本土と済州島を直接基線で結び、広大な内水をつくる。
⇒第六次会談赤城・元農相会談は基線の線引きにより膠着

○韓国側の認識
1964年10月14日、外務部内「韓日会談代表者懇談会」
亜州局長
 日本側は漁業のみやりたがる。その他のことは、日本側は全然急がない。反面、われわれは漁業交渉をしながらわれわれの(他の)要求を全面的に貫徹すべきだ。
崔奎夏(全韓日会談代表)
 漁業において(日本側)は速戦即決を望むが、おそらく、日本にとって痛い問題は平和線だろう。日本には絶対賛成と絶対反対の両方の意見があるが、漁業問題においては、社会党も政府の方針に賛成している……(したがって)平和線のみを議論したらわれわれは取るべきものを取れずに、渡すもののみ渡すという非難を回避できない……平和線を撤廃すべきか否かは、トップの政治家が決めるべきだ……会談を中止し、一方的にわが沿岸の基線から十二マイル(一マイル=約一・六キロメートル)にして引く構想も可能である……これは長期戦だ。
崔世璜韓日会談代表
 基線が第一の基本である。日本側は(韓国の専管水域に)済州基線について合意できれば、船舶数など難しい問題ではない。
→日本の執着を利用する

○基線40マイル→12マイルへの後退
第五次日韓会談:40マイル
1963年6月漁業会談での合意
日本の提案:日韓が漁業問題で協力する見返り(のちの「漁業協力借款」)を五億ドル以内にする、その条件として十二マイル専管水域への合意および李承晩ライン=平和線の撤廃を求めるというもの。
五億ドル=請求権全般、後に「金・大平合意」のなかの有償三億ドルのなかの九千万ドルに当たる
外務部と中央情報部が農林部と国防部の反対を押し切った。1963年5月10日「平和線に関する広報策建議」
 「国内世論は、韓日の懸案事項のなかでも漁業、平和線問題には必ずしも同調的とは判断しがたい。この機会にとりあえず広報案を実行し、政府の立場に対する国民の理解ないし支持を促すことが必要である。有力紙の記者を平和線海域および南海岸の漁村に派遣してもらい、「平和線を完璧に守ることはもともと不可能で、経済的観点から見ても平和線の存続は必ずしも有利ではない。農漁村の発展は、平和線の維持を前提とするのではなく、農漁村の近代化と市場開拓が前提となる」という趣旨の結論を書いてもらう、またはそういう結論に誘導する記事を数回にわたって書いてもらう。また、時期を見て、学会の著名人士に、平和線は国際法上、難点が多いとの趣旨の文章を発表してもらう」
⇒12マイルと平和線撤廃は既定路線に

○共同規制水域の誕生
第7次日韓会談、漁業および李承晩ライン=平和線委員会
1965年3月3日第1回農相会談で「共同漁労区域」を設定し、李承晩ライン撤廃を合意
「共同漁労区域」として想定される水域、すなわち韓国側の専管水域と旧平和線=李ラインの間の水域を「共同漁業資源調査水域」と命名する。
李東元


力尽きた

東洋経済オンラインの日韓漁業協定に関する記事

<書誌>
山田吉彦,2019,「日韓漁業協定の日本にはどうにも不平等な現実——成り立ちから追ってみればカラクリがわかる」東洋経済オンライン(最終確認日2019年9月10日)
toyokeizai.net

ここで取り上げられている日韓漁業協定は、李承晩ラインなど竹島/独島の領有権問題と密接にかかわる。
久しぶりに日韓漁業協定に関する記事を見たので、本ブログでも日韓漁業協定に関する文献取り上げてみようかと思った。

以下は各記事に関するリンクとし、そのまま参考文献リストにできるように工夫していきたい。

『世界』『新東亜』共同企画「日本軍『「慰安婦」』問題をどう考えるか」

<書誌情報>
大鷹淑子下村満子野中邦子、和田春樹,1995.11「なぜ『国民基金』を呼びかけるか」

問題は、日本政府にとって、「従軍慰安婦」問題は国家が犯した戦争犯罪であると法的に認めることは難しいということです。日本国家にそのことを認定させ、裁きをうけるように、あるいは自らを裁くようにさせる方向に国際的なキャンペーンが行われていますが、これを達成するのは難しいと考えます。
(中略)
このような日本国家にいま戦争犯罪を認め、法的責任を取るように求めても難しいと思います。それをうけ入れるには戦後日本の歩みの全面的な見直しが必要になるでしょう。そのような主張はすでに久しくなされていますが、合意にはほど遠いのが現実です。現在できるのは、過去の反省を深め、政治的、道徳的責任を認め、被害者に謝罪する方向での前進です。
(中略)
このような日本国家として謝罪するということは、国家、国民としての連続性にもとづいて謝罪することです。自分たちがしたこと、自分たちに直接的に責任があることではないが、自分たちの国家がかつてしたこと、自分たちの祖父がしたことだから、道義的責任を感じて、謝罪するということです。
(中略)
謝罪は、補償、償いによって形を与えられなければなりません。私たちは「従軍慰安婦」にされた人々に対して、国民の支持をえて、国家が補償するのが望ましいと考えてきました。
(中略)
日本政府は、日本と関係各国との賠償や請求権問題などはサンフランシスコ条約やその他の戦後処理のための二国間条約ですでに処理ずみであるとしています。したがって、「従軍慰安婦」への補償問題も、これまでの条約で解決されているのかのような説明もしばしばなされました。これには私たちは納得できません。
(中略)
にもかかわらず、ひとたび国家間の戦後処理が決着したあとで、国家による補償をはじめれば、混乱がおこると日本政府は主張してきました。これに対して、国家が賠償請求を放棄して、国家間の関係が決着したとしても、個人の補償要求は可能であり、国家は正当な要求には応えて、個人補償すべきであるという考えが存在します。
(中略)
政府部内の議論の様子を見ていると、個人補償するという方向に方針を転換させることは、現状では相当に難しいということがわかります。被害者が原告になった戦後補償裁判も多くおこなわれていますが、多くの時間を要し、結果は楽観を許しません。(中略)他方で犠牲になられた方々はみな高齢でおられます。謝罪と償いの政策をとるための時間はもうあまりのこっていないのです。犠牲者たちがこの世にいなくなってから、正しい解決が出るということでは、恨をとくことは永久に不可能になってしまうと私たちは恐れました。
(中略)
構想されたのは、政府が組織し、政府の予算で運営活動する公的な基金、準国家機関です。運営費は予算から四億九千万円以上が計上されています。この基金が、政府の謝罪とともに、国民から拠出された資金を源泉として、国民の名において償いを行います。
(中略)
国民から拠金をえるという提案された方式は、強制力はありませんが、自発性に基づくだけに、安全に支出目的への支持と結びついた財源がえられます。これは、「従軍慰安婦」とされた人々に償いをするさいにもっとも必要な国民の謝罪の意思、償いへの国民的支持がもっともよく担保される方式だと言えます。ですから、私たちは基金方式は国家国民の謝罪と償いという原則にそうものと考えて、これを支持したのです。

ラトゥール『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』

<書誌情報>
ブリュノ・ラトゥール,伊藤嘉高訳,2019,『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)



序章——連関をたどる務めに立ち帰るには
〇本書の目的
・社会科学者が何らかの事象に「社会的」という形容詞を加えるとき、「一方で、〔さまざまな人や事物〕が、1つに組み合わさる動きを指し示しているにもかかわらず、他方で、他の素材と異なるとされる種差的な成分を指し示してしまう」のである(8)。
→「本書のねらいは、社会的なものを素材や領域の一種と見なせない理由を示すことにあり、さらには、他の何かしらの事態に対して「社会的説明」を行おうとすることに異を唱えることにある。」(8)。
〇手続き
・社会的という概念をその原義に立ち返って定義し直し、社会科学者には思いもよらなかった諸要素の結びつきをたどり直せるようにしたい。
→社会と科学の定義を再構成する。
→従来のアプローチは、社会、社会的秩序、社会的営為、社会的次元、社会構造など種差的な事象の存在を措定すること。具体的には8つの点を指摘している。
①社会的でない活動の背景には社会的なコンテクストがある。②社会的コンテクストは種差的な実在領域である。③社会的コンテクストは固有の因果を有し、他の領域では扱いきれない点を説明する。④社会的コンテクストは専門家が分析する。⑤社会的世界の中にいる人は、この社会的世界に気づかず、専門家によって記述される。⑥定量的かつ客観的な科学的手法を用いる。⑦⑥ができなければ、人間的、意図的、解釈学的側面を導入した新し方法論を提示する。⑧政治的な意義を有する
⇔もう1つのアプローチが訴えるのは、①社会的な秩序に種差的なものは何もない。②社会的というラベルがはられる明確な実在領域はない。③ほかの学問領域が説明できないことを説明するために社会を持ち出さない。④社会の構成員たちは自分が何をしているんかわかっていること。⑤アクターは社会的コンテクストに埋め込まれなず、単なるアクターではない。⑥ほかの専門領域に社会的と付ける意味がないこと。⑦社会科学を通じて得られる政治的な意義は必ずしも望ましくない。⑧社会はコンテクストではなく、狭い導管を循環している数々の連結装置の1つとして解釈されなければならない。
社会学を「社会的なものの科学」と定義するのではなく、「つながりをたどること/tracing of association」と定義し直す。



・アプローチの命名
①社会定なものの科学⇒社会的なもの(ザ・ソーシャル)の社会学
→あらゆる活動の背後に社会的なまとまりを想定する。

②「つながりをたどること」⇒連関の社会学
→社会を生みだす活動の背後に何の存在も想定しない。
⇒「社会的なもの」は、それ自体は社会的ではない諸要素の間で新たな連関が生み出されているときに残される痕跡/traceによってのみ見ることができる
⇒アクター・ネットワーク・理論=actor-network-theory

・「アクター自身に従うこと」
社会科学がアクターの役割をインフォーマントに限定してきたが、社会的なものを作り上げているものについて自前の理論を作り上げる能力をアクターの手に戻さなければならない。


〇連関の社会学の先駆者
ガブリエル・タルド(、ハロルド・ガーフィンケル
⇔のちに覇権を握るデュルケームとの論争が想起される。
→社会的なものの社会学者が示してきた社会の見方は、主として、近代化が進む中で文明の秩序を確保するための手段であった、とすれば、近代化が疑問に附されるようになる一方で、共生の道を探る務めがかつてなく重要になっている今日において、連関の社会学者は、どんな種類の集合的な生活とどんな知識を得ることができるだろうか。


・社会的なものを狭く定義することで示される社会学の先行研究らは、社会学の建設的、科学的な面を劣化させている。

社会的領域を、すでに社会的領域の一員であるとされているアクター、方法、分野のリストに切り分ける代わりに、相対性の原則を守り、この世界が何でできているかをめぐる種々の論争で構成する。
①グループの性質に関する不確定性
②行為の性質に関する不確定性
③モノ(object)の性質に関する不確定性
④事実の性質に関する不確定性
⑤社会的なものの科学というラベルの下でなされる研究に関する不確定性



ANTによる社会理論の抽象度の深化の意味
・1つの参照フレームを安定したままにするよりも、むしろ不安定で移ろう参照フレーム同士の結びつきを記録する方法を見つけ出すことで、もっと堅固な関係をたどることができ、もっと多くのことを伝えてくれるパタンが発見できる。
社会は「個人」や「文化」や「国民国家」で「おおむね」でできているのではない。




Qアクターに語らせるというが、それはアクターの踏襲にならないか?
・客観的に観察できる研究者が彼らを分析するのではなく、「やってることを観察する」(ルーマン
・現場に入って記述して終わり?

中山元『フーコー――思想の考古学』書誌情報と目次

<書誌情報>
中山元,2010,『フーコー――思想の考古学』新曜社

フーコー思想の考古学

フーコー思想の考古学

目次

第一章 フーコーの初期――『精神疾患とパーソナリティ』
第二章 狂気の経験――『狂気の歴史』
第三章 狂気と文学――『レイモン・ルセール』
第四章 死と科学——『臨床医学の誕生』
第五章 考古学の方法――『知の考古学』
第六章 思想の考古学――『言葉と物』
第七章 人間学の「罠」と現代哲学の課題――「カント『人間学』の序」

あとがき
索引