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ロラン・バルト『明るい部屋』読書会①

 

ロラン・バルト『明るい部屋』読書会

 

<書誌情報>

Roland, Barthes, 1980, La chambre claire: Note sur la photographie, Paris: Galimard. (=花輪光訳, 1999, 『明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房)

 

 

1.はじめに――ロラン・バルトの基本情報

ロラン・バルトRoland Barthes19151112 - 1980326日)は、フランスの批評家・思想家。哲学、記号学、文学理論、認識論を研究分野とした。コレージュ・ド・フランス教授。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想に大きな影響を与え続けた。彼自身の分類によれば、以下の仕事をしている。

(1)演劇論、『現代社会の神話』

(2)ソシュールの読解を通じて生まれた『記号学の原理』『モードの体系』

(3)ソレルスクリステヴァデリダラカンの読解を通じて生まれた『S/Z』『サド,フーリエロヨラ』『記号の国』

(4)ニーチェの読解を通じて生まれた『テクストの快楽』『ロラン・バルトによるロラン・バルト

(5)後期の倫理や写真論『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』

 個人的エピソードとして有名なのは、第一に、若い時は病気がちであったため、正統なアカデミズムではなく、当初はジャーナリズムの現場にいたということ。第二に、彼は交通事故で亡くなっているということ。それも職場コレージュ・ド・フランスのすぐ前の交差点で。3日後の『ル・モンド』はこう伝えている。「ロラン・バルトが被害者となった事故の発生したのは、225日、1545分ごろ、パリ(5区)、デ・ゼコール街44番地であった。調査官たちによると、ロラン・バルトは横断歩道を渡っているときに、スデーヌ・クリーニング店の小型輸送車にはねられたのであった。」(『ル・モンド328日)。第三に幼くして父を亡くしたため、女手一つで育てられた。そのため、非常に母思いであり、今回取りあげる『明るい部屋』でも「形容しがたい生命」と言っている。本書はそんな母親へのレクイエムでもある。

 

 

2.バルトの仕事

2-1.記号学とは

 バルトの仕事は、一言でまとめると「記号学」である。すなわち、ソシュールが定義した「記号(signeシーニュ)」は「意味するもの(signifiantシニフィアン)」と「意味されるもの(signifié)」の結びつきによって成り立つという出発点に立つ学問領域である。「記号」とは、広義には「あるしるしが何かを意味すること」であるが、ソシュールの定義はもう少し厳密なものである。ソシュールは、記号を以下のように定義する。

 

 

そこで、社会のなかにおける記号の生活を研究するようなひとつの学を考えてみることができる;それは社会な心理学の・したがって一般な心理学の一部門をなすであろう;われわれはこれを記号学S émio logieギリシャ語の sem êion「記号」から)とよぼうとおもう。それは記号がなにから成り立ち、どんな法則がそれらを支配するかを教えるであろう。それはまだ存在しないのであるから、どんなものになるかはわからない;しかしそれは存在すべき権利を有し、その位置はあらかじめ決定されている。言語学はそうした一般学の一部門にほかならず、記号学が発見する法則は言語学にも適用されるにちがいなく、後者はかくして人間的事象の総体のうちで、はっきりと定義された領域に結びつけられることになる。(Saussure 1916=1972: 29

 

 

 例えば、「西の空が黒い雲で覆われる」ことは「雨・夕立」の「しるし」である。しかし、ソシュールの定義では、これは「徴候(indice)」と呼ばれる。「黒い雲」と「雨」との間の因果関係は自然的なもので、人間の介在する余地がないからである。

 また、「てんびん」は「公正な裁き」の「しるし」である。しかし、これもまた「記号」ではなく、「象徴(symbole)」と呼ばれるものである。これは、「てんびん」のもつ「重さを測定する」という機能が「裁き」を連想することで成り立つ結びつきである。「象徴」は、こうした何らかの現実的な結びつきで結ばれているため、「てんびん」が「えんぴつ」になることはない。「えんぴつ」と「さばき」の間には何らの結びつきもないからである。

 それでは、「記号」とはなんなのだろうか。トイレのドアに書いてある「紳士用」または「Men」これが「記号」である。これらの文字と、「男性はここで排泄を行う」という生活習慣の間には、「人為的取り決め」以外のいかなる自然的、現実的な結びつきも存在しないからだ。この記号は、言語共同体ごとに異なる。「紳士用」と「Men」の違いがその証左である。

 こうした意味で、「記号」というのは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことを指す。例えば、新婚ラブラブの夫婦の間で、りんごが「ウサギさん」で出てきたときは、「○○」という「取り決め」がされたとしよう。しかし、「ウサギさんカットのリンゴ」と「○○」の間には、いかなる自然的、社会的結びつきはない。こうしたでたらめさが「記号」の本質なのだ。そして、重要なのは「取り決め」、すなわち「集合的記号解読のルール」であり、それで十分である。

 したがって、記号は言語だけではなく、服装から食べ物、音楽、車、家もすべてが記号として機能するということになる。そうした点で、記号学という学問領域は、われわれの身の回りのどんなものが記号となるのか、それはどんなメッセージをどう発信し、どう解釈されるのかを明らかにする学問といえる。

 

2-2.テクスト

 前節で述べた記号学で多彩な文化現象を読み解いたのがロラン・バルトである。本節では、そのなかでももっとも有名な命題「読者の誕生と作者の死」について言及する。

 近代批評のあり方は、ヨーロッパの宗教的世界観と密接にかかわるものであった。つまり、作者は作品のゼロからの創造主であり、その意図・意味はすべて作者のみが知っているという前提である。したがって、作者は全知全能の神であり、神の声を聴く「技術」をもつ批評家らは、神の真意を読み解き、民衆に伝えるという仕事を担っていたということになる。言い換えれば、近代批評とは、作品の起源に作者がいて、その人には何か「言いたいこと」があって、それが物語や映像、音楽を「媒介」にして、オーディエンスに「伝達」される、という単線的な図式を前提にしていたということになる。

 したがって「あなたはいったい、この作品を通して、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのか?」という問いが、近代批評の基本的なスタイルとなる。そして、作品中にそうした真意が読み取れないとなると、作者の家庭環境、成長過程、政治的イデオロギー性的嗜好などの背景に注意し、作品を書くに至った動機づけの特定が試みられることになる。これが近代批評の伝統的なスタイルであり、これをバルトは退けたのだった。

 そして、バルトが着目したのは「テクスト」である。テクスト(texte(仏)/text(英)/言葉(和))の一般的意味は、「書かれ、語られたもの」である。しかし、バルトは子のテクストの本質的な意味を抽出し、一つの概念として練り上げていく。

 

「テクスト」は「織物」という意味だ。しかし、これまで、この織物は常に生産物として、背後に意味(真実)が多かれ少なかれ隠れて存在するヴェールとして考えられてきたけれど、われわれは、今、織物の中に、不断の編み合わせを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物――このテクステュール〔織物〕――の中に迷い込んで、主体は解体する。(Barthes 1973=1977: 120

 

 織物が縦糸横糸の絡み合いからできているように、「テクスト」もまた様々なところから寄せ集められた様々な要素から成り立っている。これは、われわれの操るテクストが、頭の中にあるストックフレーズからすべて成り立っているという意味、すなわち「引用の総体」ということではない。

ここでいわれている要素とは「エクリチュール」という概念と密接にかかわる。「エクリチュール」もバルトが提示した重要な概念の一つである。日本語とか英語といった「langue/ラング」でも、個人的な書き方の「style/スティル」でもない「ことば・からだづかい」のことである。ぼくではなく、おれ・わたしという一人称を選択すること、スーツではなく、ジャケット、Tシャツを選択すること、こうしたわれわれを統制する社会的集合体で採用されている覇権的な様式を選び取っている。したがって、言語やリズムだけではなく、いつどこでだれにどのようにという要素はテクストの生産に大きくかかわってくる。

こうした特質をもつテクストに対して、「作者は何を伝えたかったのか」という限定的な問いはもはや意味をなさなくなった。自律的な主体という存在は文字通り「解体」されたのだった。

 

 

一片のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらエクリチュールは、互いに対話を行い、他をパロディ化し、異議をとなえあう。しかし、この多源性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではなく、読者である。(中略)あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛先にある。(中略)読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわれなければならないのである。(Barthes 1968=1979:88-89

 

 

これが、読者の誕生と作者の死である。そして、テクストを読む最上の快楽を「読者や視聴における、組み立てられた、快適な、期待通りの快楽からの脱却」と定義しながら、「物語の累加的なストリップの快楽」については拒否している。そしてバルトは「読む」から「見る」ことに焦点を移していく。

 

 

 

 

 

参考文献

佐藤信夫1980,「ロラン・バルト――言葉の快楽へ」『現代思想8 (7): 56-62.

内田樹2002,『寝ながら学べる構造主義文藝春秋

丸山圭三郎1987,『言葉と無意識』講談社

Roland, Barthes, 1980, La chambre claire: Note sur la photographie, Paris: Galimard. (=花輪光訳, 1999, 『新装版 明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房)

Roland, Barthes, 1973, Le plaisir du texte, Paris: Seuil. (=沢崎浩平訳,1977,『テクストの快楽』みすず書房)

岡本裕一朗,2015,『フランス現代思想史』中央公論新社

Roger, Silverstone, 1999, Why Study the Media?, London: SAGE Publication. ( = 2003, 吉見俊哉・伊藤守・土橋臣吾訳, 『なぜメディア研究か?――経験・テクスト・他者』せりか書房)