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ロジャース・ブルーベイカー「認知としてのエスニシティ」

<書誌情報>
Rogers Brubaker,2016,佐藤成基・髙橋 誠一 ・岩城 邦義・吉田 公記編訳『グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家明石書店

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

「第6章 認知としてのエスニシティ」(p.235-287)

◆ABSTRACT
 本章では、ブルーベイカーがエスニシティ、人種、ネーションに対する分析方法として提唱した「認知的視座」について論じられている。とりわけ強調しているのは、この方法がエスニック・人種・ネーションといった「集団」そのものを問題にするのではなく、それらの集団の観点から社会の視界と区分を維持する社会的・心的過程を検討する方法であるということだ。
 ブルーベイカーは認知的視座の可能性として以下の三点を挙げている。第一に、認知的視座は、分析的な「集団主義」を避けるための資源を提供すると同時に、実践的な「集団主義」の頑強さを説明してくれるものであるということ。また第二に認知的視座は、人種、エスニシティナショナリズムを別々の研究分野として扱うのではなく、一括りの研究対象として扱うべきであるということの強い理由を示し、ということ。最後に認知的視座は、エスニシティをめぐる原初主義的アプローチと状況主義的アプローチとの古くからの論争に対して新たな観点をもたらすものになるということだ。


◆本論の流れ
1.エスニシティ研究と「認知的転回」
〇問題意識と本章の課題
 構築主義的アプローチは、エスニシティを客観的な共通性によってではなく、当事者の信念、認知、理解、同一化(アイデンティフィケーション)などによって定義している。こうしたアプローチの転換によって、エスニシティ研究の領域におけるカテゴリー化と分類が主たるテーマとして浮上してきた。筆者はこれをエスニシティ研究における認知的転回(cognitive turn)の始まりであるとみなす。
 本章の目的は、この認知的転回を明示的なものにし、さらに認知心理学認知人類学での研究と関わらせることによって、エスニシティの理解をより深めることができると論じることである。これはすなわち、エスニシティという現象をめぐり、ほとんど認知されていない認知的次元への関心がいかにこの分野の研究をいかに活気づけるのかを指摘することになる。
 本章の構成は、第一にエスニシティ研究における分類とカテゴリー化の先行研究レビューし、なぜこれまで認知的視座が明示されないままであったのかを論じている。第二にステレオタイプ、社会的カテゴリー化、図式(スキーマ)についての認知的研究について考察し、とりわけ図式概念をエスニシティ研究においてどのように用いていくのかについて論じる。そして最後に、認知的視座のより広範な含意について考察している。


2.カテゴリーとカテゴリー化―認知的転回の始まり
エスニシティ研究における分類とカテゴリー化に関する先行研究のレビュー
 エスニシティにとっての分類とカテゴリー化の中心的意義は人類学が明らかにしてきた。例えば、ノルウェーの人類学者フレドリック・バルドのいわゆる「エスニック境界論」である。彼は、エスニシティは共有している中身が違うから違うのではなく、違う民族として境界線が引かれることで、違うものになると唱えた 。つまり、エスニシティは自己や他者による分類とカテゴリー化の実践の問題である。
 ブルーベイカーによれば、この議論は人種やネーションにもあてはまる。これらの研究領野においても客観主義的定義、すなわち、共通の言語、文化、領土、歴史、経済生活、政治組織などによる従来のネーションの定義から、ネーションの主観的意味やネーションへの主張を強調する定義へと変化している。例えば人種とは「従属させ、排除し、搾取するために選択された、具体的な属性に準拠して人間を区別し序列化する方法」として再定義されている。また、ネーションについてヒュー・シートン=ワトソンは次のように述べている。「ネーションは、ある共同体のメンバーの相当数が、自分たちがネーションを形成していると考えているとき、あるいはあたかも自分たちがネーションを形成しているかのように振る舞っているときに存在している」。つまり、人種、ネーションもまたエスニシティと同様に「実践のカテゴリー」であると概念化し直されてきたのである。

〇主観主義的アプローチによる二つの研究潮流
 第1の群は、強力な権威的制度(特に国家)によって用いられる公式的でコード化され、フォーマライズされた実践に関する歴史的・政治的・制度的な研究からなる。重要な基礎概念としてはM・フーコーの「統治性」 やP・ブルデューの「国家の象徴権力」 があげられる。これまで植民地社会や国勢調査を通じて、支配者の分類システムやカテゴリー化が、分類される側の自己理解にどのような影響を与えているのかについて明らかにしている。例えば国勢調査は、国民社会の境界をつくりだし、カテゴリー化された諸集団によって構成されているという考え方を浸透させ、自己同一化を促進する「統治の技術」であることが明らかにされてきているという。
第2の群は、普通の人びとによって用いられる非公式で、「日常的」な分類とカテゴリー化の実践に関する、エスノグラフィー的でミクロ相互行為的な研究から成り立っている。これまでフィールドワーク調査を中心に、現実に利用されているカテゴリーが複雑で、変化しやすいものであることを明らかにしている。
 しかしブルーベイカーによれば、これら二つの研究は、心理学や認知人類学における認知研究への明確な関わりを欠いているため、認知的転回の始まりであってもその視野は狭められているという。認知研究に関わりをもとうとしない理由は2つある。第一にエスニシティに関する社会学、人類学、歴史学での研究の大部分を特徴づけている人文学的・解釈学的・全体論的・反還元主義的志向が、認知科学の実証的・実験的・個人主義的・還元論的な思考と対立するからである。ただ、近年ではこの対立は見直されつつある。第二に、これまでの研究者は認知的アプローチと言論的アプローチを明確に区別してきたからである。認知的アプローチは「言論を知識の基底的過程と構造の現実化として」とらえ、「文化それ自身を社会的に共有された認知的組織化の一種として」とらえる。それに対して言論的アプローチは、「語り(ナラティブ)とテキストを社会的行為の形式として」とらえる。すなわち、社会を理解するために出現するものと捉えるか、社会的行為を営む作業のために形成されると捉えるか、という違いである。

〇認知的転回の展望
 最後にブルーベイカーは、エスニシティ研究における強力な認知的前提、すなわち日常的経験を説明するエスニシティの解釈図式について、認知的視座はそのメカニズムと過程が明らかにし、この分野におけるマクロ分析的研究のミクロな基礎が強化されることになるだろう、と展望を述べている。


3.認知的視座―カテゴリーから図式(スキーマ)へ
〇カテゴリー
 カテゴリー化はわれわれの政治経済的な社会的実践として理解されているが、むしろ基礎的かつ偏在的な心的過程でもある。ブルーベイカーはこの点について、次のように述べる.

   私たちは「何物かをある種の物(a kind of thing)と見なしたり、種々の物(kinds of things)について考えたりする」際、いつでもカテゴリー化を用いている。私たち
   (人々、諸組織、諸国家など)が種々のものについて語ったり、何らかのものをある種のものとして(ある種の人、ある種の行為、ある種の状況、等々)扱ったりする
  ときには、いつでもカテゴリー化を用いている。(p.246)

つまり、カテゴリーは認知機能の基底にあるだけではなく、行為の最も基本的形式を構成しているということになる。
 この点を踏まえて私たち自身の経験を理解する際、ブルーベイカーは、そこには単なる分類以上のものが意味されていることも指摘している。すなわち、「あるカテゴリーに属するメンバーが、いかにそれに相応しく振る舞うのかに関する期待や「知識」(時にはかなり洗練された知識の場合もある)もまた、カテゴリー化にはともなわれている」という指摘である(p.247)。これらの期待と知識は、われわれの知覚や判断、そしてそれらを基にした行動の仕方にも影響を与えている。

ステレオタイプ
 近年の研究は、従来のステレオタイプから個人の心理学的傾向を取り除き、「より中立的に、社会集団についての知識・認識・期待からなる認知構造」として定義しており、これはカテゴリー一般の理解と変わらない。(本書:247)。ブルーベイカーはこのような視座に立つことによって、ステレオタイプの研究とは以下の5点に関する説明として役立つと指摘している。
それらは第一に、カテゴリー的な思考全般に見られるステレオタイプ化の普遍性について。第二に、不都合な情報に対するステレオタイプの抵抗について。第三に、ステレオタイプが作動する際のダイナミズムについて。第四に、いったん作動したステレオタイプが、いかに当人の自覚なしにその知覚や判断に微妙な影響を与えるかについて。第五に、意図的でコントロールされた過程が、ステレオタイプが作動する際の自動的でほぼ無意識的な過程をどの程度、またどのような方法で乗り越えることができるのかについて。
 これらを総合すると、ステレオタイプについての研究は、社会的客体を理解するための標準化されたテンプレートの生産と作動において、個人的なものと社会的なものとがいかに関係するのか、その認知的基礎を明らかにすることができるのだ。

〇社会的カテゴリー化
 社会的カテゴリーの重要な側面の一つはステレオタイプ化であるが、ブルーベイカーは他の側面として、ヘンリー・タジフェルの「社会的アイデンティティ論」をあげている。彼は、「単に二つの区別された集団への帰属が知覚されるだけで、すなわち社会的カテゴリー化だけで、内集団を偏好する集団的差別を引き起こすのに十分なのである」と述べ、集団間コンフリクトにおける社会的カテゴリーの自律的な意義を明らかにした(p.250)。
また、もう一つの側面としてダジフェルの共同研究者によって示されたカテゴリー化の「強調化効果論」である。これは、人は一つのカテゴリー内での対象の類似性と、異なったカテゴリー間での対象の差異を強調しがちである、というものだ。
 ブルーベイカーは、これらの知見は社会的カテゴリーや集団の「実体性(entitativity)」(すなわち一体性と斉一性)の知覚の原因と結果に関する近年の研究と合わせて、社会的世界の「集団主義」的表象の根強さを説明するのに役立つと指摘している(p.251)。

〇図式(スキーマ)
 図式という概念は1970年代の認知心理学認知人類学において中心的テーマとして扱われたものである。この概念は、端的に言えば、「定型化された物語の筋書き」である(「翻訳者解説」本書:323)。さらにブルーベイカーによると、この概念は、「いかに人々が世界を知覚し、解釈しているのか、いかに知識が獲得され、保存され、想起され、活性化され、新たな領域へと拡張されるのかを示す事象(実験によるもの、観察によるもの、歴史的なものを含めて)を説明するために措定されたもの」であるという(p.251)。この概念の特徴は以下の4点である。
 第一に図式は、知覚や想起を誘導し、経験を解釈し、推測や期待をし、行為を組織化する。よって、最小限のインプットから複雑な解釈を生み出す情報「処理機」と言える。この心的構造によって、人は新しい情報を無意識的にすでに慣れ親しんだ図式に当てはめて、迅速に「処理」することができる。
 第二に図式は、この概念の中核にあたる不変的側面を最上位の次元、そしてより下位の次元にあらかじめ設定された「初期値」によって埋められるべき「枠」を置くヒエラルキー的な構造をもつ。
 また第三に図式は、手近で状況的に特定された暗示や誘因によって引き起こされる。構造的・文化的変動は作動の確率に影響を与えることはあっても、起因ではない。ブルーベイカーが指摘しているように、従来の研究の限界は人工的な実験室状況において図式の作動を研究していることであり、図式が実際に作用させられる相互行為文脈の高度な複雑さをとらえることができていなかった(p.253)。しかしブルーベイカーは、この点で研究が進めば、図式概念は「指摘と公的、心的と社会的、個人の心と超個人的な公共的表象世界とのあいだを架橋できる可能性をもっている」も指摘している。
 第四に図式は、カテゴリー研究とのあいだに重なり合う点があるが、一方で相違点もある。まず共通しているのは、私たちが手近かな情報から推論し、物事を解釈することを可能にしている知識の構造のあり方を考察する点である。しかし、図式はカテゴリーより複雑な知識の構造について考察をも可能にする。ブルーベイカーはエスニシティとのかかわりの中でこの点を論じている、すなわち、カテゴリー概念ではエスニックな社会的行為者の分類の仕方を考えがちであるが、図式概念は、エスニックな観点からの社会的世界の見方、社会的経験の解釈の仕方に関して明らかにし、具体化することができる。例えば、中東系の人間が人通りの多い交差点にいるという出来事は、この後自作した爆弾で自爆するという解釈を想起させる。これにはエスニックな知識(例えば9.11はイスラム原理主義者によって行われた)が出来事図式に組み込まれているといえる。


4.認知的視座がエスニシティ研究においてもつ含意
〇研究領域を概念化する―「世界のなかの事物」から「世界についての見方へ」
 まずブルーベイカーは、エスニシティ研究において構築主義的アプローチは広く浸透しているのに、依然として「集団主義」的思考の枠組みが力をもっていることを指摘する。そして「集団」を分析の基本的単位的とする方法ではなく、集団を基礎とする観点から社会の視界と区分を維持する社会的・心的過程を検討する方法として「認知的視座」を位置付ける。よって「集団」は常に優先されるものではなく、集団ごとに異なり状況において変化することから、ブルーベイカーは「集団性」のを変数として扱うことを提唱する。これによって、ある事件によってエスニックな「集団」が強調され、高い集団性にもとづく知覚や判断、行為が明らかになる。

〇一つの領域か複数の領域か
 人種、エスニシティナショナリズムは長らく別個の分析領域と考えられてきたが、近年これらが比較されることで境界線はあいまいなものになった。しかし、これら諸領域は様々な次元で分化していて、その分化はエスニシティというこれまでの慣習的な領域の定義の正確に一致するものではない。例えば、メンバーシップの基準や固定性/柔軟性などがあげられている。
 そして、認知的視座はさらにこれらが一つの統合された領域としてひとまとまりに取り扱うべき理由を示している。そもそも、エスニシティは「世界についての見方」であり、これを基礎づけている認知的過程やメカニズムは同じ形式で作動している。

〇原初主義と状況主義
 ここでブルーベイカーは認知的視座から「原初主義」のアプローチをとらえなおす。原初主義とは、エスニシティを深く根付いた「原初的」な愛着や感情として理解する立場である。このアプローチは、エスニシティを変化に適応するものとして理解する状況主義的アプローチと対立していたが、社会構築主義の台頭によって分が悪くなっていた。しかし、ブルーベイカーによると真の原初主義者は研究者ではなく当事者であり、その点からこのアプローチは簡単に排除できるものではなく、示唆に富むものであるとする。
 まず、彼は原初主義の代表的論者であるクリフォード・ギアーツの議論を取り上げる。ギアーツによると原初的愛着は「社会的実在の『所与』に由来する。その『所与』とは、より正確に言うならば、想定された『所与』のことであり、文化は不可避的にこの『所与』にかかわらざるをえない」。すなわち「知覚された『所与』」であり、「現実の『所与』」とは区別される。この分析を拡張したハーシュフェルドとギル=ホワイトは、人間には遺伝する不変の「本質」をもったものとして人間を認識する、根深い認知的性向があると考えている。認知的視座はこのような点もカバーする。
 一方で、ブルーベイカーは状況主義的アプローチも再評価し、強化する。これまで状況主義的アプローチは、エスニシティを状況に応じて変化するものとしながら、これがどう作用するものかを十分に明らかにしてきていなかった。しかしブルーベイカーによると、認知視座はエスニックな見方や語り方を基礎づける認知過程を明らかにすることで、状況主義的アプローチを強化するためのミクロな基礎を提供することができるという。すなわち、認知的視座は原初主義と構築主義論争にかわる新たな観点となりうることを示している。


5.結論
 これまでブルーベイカーは、エスニシティに対する分析の方法として「認知的視座」という方法論について論じてきた。繰り返し論じられているように、「認知的視座」とは、集団それ自体を問うのではなく、「人々がいかに、いつ、なぜ社会的経験を人種、エスニシティ、あるいはネーションの観点によって解釈するのかを問おうとする」社会学的方法論である(p.270)。認知的視座はまた、人種・エスニシティ・ネーションの関係論的なダイナミックな性質を把握しようという試みを手助けしてくれる。ただ「認知」を重視することで、この方法論が個人主義的アプローチとなる危険性はないのか。彼は本節でこの疑問を取り上げ、認知研究は本来的に個人主義的なものではないことを論じ、結びとしている。
 ブルーベイカーによると、エスニシティ研究への認知的アプローチは、「社会的対象についての社会的に共有された知識」を問うという点で、二重の意味で社会的であるという(p.269)。つまり、エスニシティ・人種・ネーションという社会的カテゴリーは、われわれが日常的に知覚し、判断し、行動する過程で日々生産されている。したがって認知研究は、構築主義が陥っているエリートバイアスを排し、「一般人」の構築を研究するための概念とツールでもあるだ。


参考文献
佐藤成基,2016,「訳者解説」Rogers Brubaker,2016,佐藤成基・髙橋 誠一 ・岩城 邦義・吉田 公記編訳『グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家