幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

日仏会館にて 講演会「メディアと公共空間――メディアは誰のものか」(報告:シリル・ルミュー)に参加して

もう2週間ほど前の話になりますが,2019年2月27日(水)に東京恵比寿の日仏会館で行われた講演会に参加しました.
報告タイトルは「メディアと公共空間――メディアは誰のものか」で,
報告者は,基調講演をシリル・ルミュー(仏社会科学高等研究院)さん,報告を藤吉佳二(追手門学院大学)さん,金瑛(関西大学)さんの3にんでした(以下敬称略).

日仏会館HPの記事.
www.mfjtokyo.or.jp

PDF版はこちらから
「メディアと公共空間:メディアは誰のものか」「デュルケームとタルド:その現代的意義」(pdf)

初めての日仏会館でしたが,道に迷うことなくたどり着き.
会場のパワポ
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撮影者:chanomasaki,撮影日:2019年2月27日

報告レジュメ表紙
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撮影者:chanomasaki,撮影日:2019年2月27日

報告レジュメ目次
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撮影者:chanomasaki,撮影日:2019年2月27日

1.ルミューの報告について
 ルミューの報告タイトルは「フェイクニュース狩り:道徳パニック?」で,フェイクニュース現象をモラル・パニック論の系譜に位置付け,歴史的アプローチによって一般性と特殊性を明らかにしようとするものだった.つまり,印刷術の発展からインターネット黎明期までのエリートのメディア批判の系譜に,フェイクニュースを位置付けていく.したがって,エリートによって繰り返し唱えられてきた大衆の扇動,教養の崩壊,低俗な情報の氾濫と同じく,フェイクニュースもエリートが人々の素朴さ・信じやすさ・だまされやすさを懸念する動き,すなわちモラル・パニックであるという見立てである.
こうした特徴を持つフェイクニュース現象は,既存の対処①ジャーナリストによるエビデンスに基づくニュース,②啓蒙された世論,③説明責任(アカウンタビリティ)では抑え込むことができていない.
したがって,フェイクニュース現象は,モラル・パニックという一般性でありながら,モラル・パニックへの既存の対処方法が意味をなさないという特殊性を持っている.ルミューはこのように分析した.

そしてこうした分析をもとに,何か対処を考えるとすれば,私は「逆説明責任/逆アカウンタビリティ」が必要だと思う.このように自身の考えを提示した.
この逆アカウンタビリティという概念は,これまで民衆の側に適用されてこなかった説明責任という概念を逆転させ,一般の人々も説明責任が求められる時代になれば,ネットでフェイクニュースは流されにくくなるでしょうというものだった.
この新しい概念と法律の制定や市民による監視と合議を組み合わせ,今一度(楽観的な)民主主義的社会を取り戻す.

これがルミューの報告の要旨である.

2.藤吉の報告について
 藤吉の報告は「誰もが情報発信できる時代」に発信されないものというタイトルで,薬害訴訟を事例に,行政のアーカイブズ実践をこれまた「説明責任」という概念をもとに拡大していきましょうというものだった.藤吉の報告は,高校への出前授業をベースにしたもので,話のペース,テンポ,パワポの見やすさ,焦点を絞ったテーマなどもあいまって非常にわかりやすい報告だった.

 藤吉はアーカイブなるものを「活動の経過に沿って作成・蓄積される記録や資料の集積」として定義する.そして説明責任をデリダのような無限回責任としてではなく,行政の場合に限っては,その時の法律や規則に則っていることが,証拠をもとに説明することに限定し,それ以上は立法に任せるというところでいったん落ち着ける.そこでこうした挙証説明責任を果たすために,アーカイブズを使いましょうというものだ.

3.金(Kin)の報告
 金の報告は,「『ポスト真実』の時代における『記憶』と『記録』の関係」というタイトルだ.
金は,日比嘉高の「ポスト真実」時代論から引き出された,「客観的な情報と自らの感情や信条にあった物語を重視する傾向」を,政治学ハンナ・アーレントの論文「真理と政治」で論じられる大衆社会とウソの関係論をもとに分析する試みである.アーレントの議論を丁寧かつ簡潔に提示し,「ポスト真実」が歴史的にどのような位置づけにあるのか,アーレントの議論から何を学ぶことができるのかということを論じていた.古典を読むという形態上,一番地に足の着いた議論だったと思う.

アーレントは,現代のウソを次のように特徴づける.

これと対照的に現代の政治の嘘は,秘密でないどころか実際には誰の眼にも明らかな事柄を効果的に取り扱う.このことは,歴史を目撃している人々の眼の前で現代史の書き換えを行う場合にはっきりしている.(Arendt [1968]2006=1994: 343)

アーレントは,こうしたイメージの正しさが先行し,それがメディアでステレオタイプとして流通することで「事実の織物全体の編み直し」(同上: 345)が生じているとも指摘する.

こうした議論を土台に,金は現在の現象が必ずしも「新しい」現象ではないこと,大衆社会を生きるわれわれのメンタリティはアーレントの指摘と地続きであること,など現象の構造についての分析を提示した.

4.会場の皆さんの反応と私のコメント
 これらの報告に対し,会場からはいくつも質問が出たが,代表的な質問だけあげる.
フェイクニュースという言葉は2通りあるのではないか?すなわち,大衆が発信するネットに氾濫する嘘やデマと権力者が既存のメディアが発する自身の都合の悪いニュースを「フェイクニュース!」と指摘する現象である.これはどうかんがえればいいのか?
→確かにその通りだ.そのような区別は一面では有効だが,フェイクニュースを取り巻く環境はもう少し入り組んでいる.とりわけ大衆の発する嘘やデマが真実であるかのように出回っている現象も組み込んで考える必要がある.
これは大学の先生っぽい人が質問していた.最後に報告から彼らとの「ゲームの違い」を強く感じたと感想を漏らした.
まあ普通の質問.
②AI時代にはフェイクニュースが真実としてアーカイブされていくのではないか?
→それに関しての見立てはできませんが,楽観視できないことは確かです.
大学院生っぽい男性が緊張しながら質問.まあ普通.
③彼らに対してそれはちがうと指摘しているんだが,まったく聞き入れてもらえない.やはり彼らには無視が一番なのではないか?金さんの実践を聞きたい.
→答えにくい質問ですが,事実をしっかり提示していく地道なやり方が重要.
くそオブくそな質問.あんたが歴史修正主義に対抗していることは分かったけど,今回の発表とほとんど関係ないじゃん.
④日本の報道自由度ランキング,安倍政権,今の日本はやばい.どうしたいいでしょうか?
もうひとつくそオブくそな質問.典型的な今の日本の現状を憂うおばさん登場.質問なげーし,質問内容もほとんど関係ないじゃん.

以上の外在的質問に若干イライラしていたところ,最後の5分で質問を許されるも,時間の大幅なオーバーにより質問を辞退することにしました.
あの時の男の子は私です.

帰り際,ルミューさんに直接質問することができ,通訳の人が懇切丁寧に質問を訳し,ルミューさんの回答を伝えてくれました.
いろいろ言いたいことはあったけど,私の質問はルミューさんの報告に関する質問.

①コーエンのモラル・パニック論は,ある現象がAの集団の利益を害するものとして定義され,それがマス・メディアによってステレオタイプとして報じられることで,客観的事実より増幅された危険性に人々がパニックを起こす,というものだったはず.すなわち,客観的事実と人々の認識の間の乖離が問題となる.この系譜にフェイクニュースを位置付けることは,フェイクニュース現象の客観的事実がマスコミによって不当に増大された形でわれわれが認識しているということにならないか?これはフェイクニュースを矮小化することにならないか?
②このモラル・パニック論への位置づけが,なぜ逆アカウンタビリティという概念の誕生になるのか?論理的に説明が不足している.
③説明責任という概念は,情報の受け手である人びとが権力者に対して発する権利であり,権力と市民の情報の不均衡な関係性をもとにしているはず.逆アカウンタビリティはこうした意味で,権力関係が変わったことも意味するはずだが.そして市民側への抑圧の概念とならないのか?

これらの質問に対する明確な回答は残念ながらいただけなかった.やっぱりフランス語ができないことが大きな壁となってうまく伝わんなかったかもしれない.
翻訳の方には大変お世話になったので,そこは文句付ける意図はないので,不快になられたならすみません.

最後にルミューさんとは「メルシー!」と固い握手をしてわかれたのだった.