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P・ブルデュー「どのようにスポーツを楽しむのか?」『ディスタンクシオン』小論

<書誌情報>
"22 Pierre Bourdieu How can one be a sports fun?," Simon During ed.,The Cultural Studies Reader, London: Routledge, 339-356.

The Cultural Studies Reader

The Cultural Studies Reader

1.編者による導入

・このエッセイは,P・ブルデューのスポーツについての議論に関する考察と方法論を扱う.
→フランスのスポーツは,米英豪のそれとは異なる社会的機能を有していたために,後者の方法論は軽んじられている.
・スポーツを歴史的に分析した結果,イギリスの文脈において,エリートらがフォーク・ダンスを編制したとき,自律した場として「スポーツ」は出現した.
⇔「下からの」職業化と組織化への圧力を過小評価している.

ブルデューの概念
・階級と階級フラクションの概念*1を重視し,中産階級の支配集団(経済資本と象徴資本が豊富)と被支配集団(文化資本が豊富)といった具合に.
→階級および階級フラクションとスポーツの関係性を分析する.
Ex)労働者は身体の強さに依存するスポーツ,中産階級は身体と技術を発展させるスポーツそれ自体を目的として価値づける.
→性向(dispositions)と価値観(values)の相同性は,ブルデューが「ハビトゥス/habitus」と呼ぶ概念を構成している.
⇒階級フラクションは,経済資本,象徴資本,文化資本の多寡によって異なる.各フラクションには,利益を獲得したり,生活状況に満足したりするためのさまざまな戦略を通じて,「性向の体系にもとづく」特定の生活様式,すなわち「ハビトゥス」が現れる.
・様々な戦略は「象徴的暴力」と関連する.
ブルデューの仕事はマジで重要.

2.論点の提示

・社会的行為者 に提供されたスポーツ活動と娯楽の広い範囲全てを,社会的需要を満たすための1つの供給と考えることができる.
→こうしたモデルには,2つの問題系が生じる.
①「スポーツの産物」が産出されること,言い換えればスポーツ活動と娯楽の領域が特定の時点で社会的に出現し受容されるような,独自の論理と歴史的特性を持つ産出の領域があるのだろうか?
②ゴルフをしたり,ワールドカップをテレビで観戦したりするように,産出されたさまざまな「スポーツの産物」の領有*2可能性(possibility of appropriation) についてどんな社会的状況があるのか?
⇒産出された「スポーツの産物」にどのような需要があるのか?スポーツをめぐる様々な「好み」なるものを人々はどのように獲得するのか?
⇒行為者はどんな規則に従って,それぞれのスポーツ活動や娯楽から選択をしているのか?

3.供給の産出

(1)「近代スポーツ/modern sport」という社会現象の歴史的・社会的状況の検討
①スポーツ活動と娯楽のあり方に直接的・間接的に関係する諸制度と行為者のシステムを構成する社会的状況とは何か?
Ex)「スポーツ組織」の機能
→スポーツをする人たちの関心ごとを代表したり守ったり,スポーツ用品の生産者と販売者,スポーツする際に必要な様々なサービス,娯楽スポーツと関連商品の生産者と販売者といった諸活動を統制する標準なるものを課したりする.高野連を想像するとわかりやすい.
②スポーツを生業とする身体は,どのような過程で構築されるのか?
→行為者と制度のシステムが,場内の位置づけと関連した特定の関心をもつ様々な行為者のあいだの衝突を意味する「競合の場/field of competition」として機能し始めるのはいつなのか?
⇒スポーツの歴史は,経済的・社会的な歴史的出来事と関連して特徴づけられる場合でさえ,独自のテンポ,独自の法制,独自の危機,つまり独自の年代記をもつ自律した歴史である.
(2)社会科学の対象としてのスポーツ
・スポーツを「個別の科学的対象」として,社会科学という正当性の基礎の上に置く.
・特定の論理をもつ特定の社会的実践の場として,この領域をどのように構成されたのか?特定の歴史的経緯においてそれ自体を定義し,特定の歴史の観点からのみ理解される.

3-1.スポーツの産物を産出し流通させる相対的に自律的な場の創造.

〇ゲームからスポーツへの移行*3
・ゲームからスポーツへの変化は,ブルジョア社会のエリートのための教育的施設,パブリック・スクールにおいて生じた.
→英パブリック・スクールでは,貴族や上級ブルジョアが「ポピュラーな/大衆的な」ゲームを引き継ぎ,同時にスポーツの意味と機能を根本的に変化させた.
・ゲームの機能の変容
→エリートの身体運動は,フォーク・ゲームが農業の祝祭との関連を気づかせたこと,そして伝統的なゲームに結び付いていた社会的機能を脱色させたこととともに,ありふれた社会行事から切り離されたものである.
・学校という場所
→社会的な機能をもち,集合的な暦と結合した実践(フォーク・ゲーム)は,活動それ自体が目的であり,芸術のための身体的芸術,特定の規則で統一され,あらゆる機能的必要性がなくなり,特定の暦の中にいれられた「身体運動」へと移行した.
⇒学校の中で求められていることは,物質的な関心から離れたブルジョアエリートのエートスの基本的な側面,つまりなにも目的のない活動をする傾向にある.
・「フェア・プレイ」
→それがゲームであることを忘れて,夢中にならない人々,ゴッフマンのいう「役割距離」 *4を維持する人々という特徴のゲームのあり方.

〇場の自律性
・スポーツ場の自律性は合理化のプロセス(予測可能性と算定可能性)によって生じる.
→普遍的な明確なルールと特殊化された身体の統制*5コーパス(構造化されたまとまり)の構造のこと.スポーツ組織が行使を認められる歴史的伝統や国家による保証に基づく,自己管理とルール作りの権力においてはっきりと示されている.
・スポーツ場と哲学との結びつき
→スポーツ場の構造は,スポーツ哲学―スポーツの政治哲学―の発展と関連する.
→アマチュアリズムの理論は,無償の実践としてのスポーツの貴族哲学の一側面であり,スポーツが勇気や人格の訓練として認識されていた.
⇒スポーツの現代的定義は,「道徳的観念」のなくてはならない部分である.
・教授ではなく教育,知性ではなく個性と意思,文化ではなくスポーツを価値づけることは,学問的なヒエラルキーに単純化できないヒエラルキーの存在である教育的領域内で,はっきりと述べることである.
→支配階級での価値観を否定することを意味する.「学問的達成」に代わるものとしての正統的達成のための「達成」の基準と規則に向かうことを意味する.

2-2.大衆化の段階

(1)スポーツの大衆化に関する概観
・スポーツの貴族的イデオロギーの脱色
→もともとエリートのスポーツが大衆化していく.
・卓越化の過程
→大衆化のスポーツ実践の区別は,スポーツに参加することと,スポーツを娯楽として消費することとの間の対立によって際立つ.
→社会ヒエラルキーが下にいくほど,早いうちからスポーツをしなくなる,一方で社会ヒエラルキーが上にいくほど,テレビでスポーツを見ることはなくなる.

〇「spectacle/見世物」としてのポピュラースポーツ
・労働者階級とロー・ミドル階級は,壮大な見世物としての機能をもつポピュラースポーツに参加している側面がある.
→大量生産された物質的・文化的商品に当てはまるという意味で,「ポピュラー」である.
⇒もし,スポーツをすることへの集合的価値観が,実践と消費のあいだの分離とその結果生じる単純な受動的な消費の機能を覆い隠すことに役立っていないのなら,われわれは,「spectacle/見世物」としてのスポーツが,はっきりと大量生産物として,そしてほかの娯楽産業の一部と同様にスポーツ娯楽の組織として出現していることを考慮しなければならない.
〇見る(解読する)大衆の出現
・スポーツを見る大衆=実践者を組み込んだマス・スペクタクルとなったスポーツ
・鑑定家は知覚と評価の図式をもち,学識で,素人がわからないことをみることができる.
⇔うわべの知覚であれば,見世物における喜びも少なくする.
うわべの知覚であればあるほど,それ自体においてかつそれ自体のために熟考された見世物に喜びを感じることもなくなる.そして熱狂と名人芸を見るような「センセーショナル」を求めることを引き出せばだすほど,結果についてドキドキするといったスポーツのほかの側面が気になる.
⇒アマチュアの集団を超えた公衆の拡大は,純粋な専門家の支配を強化することに役立つということを示唆している.

(2)スポーツ娯楽産業界の分析
・リスクを減らし,効率を最大化することを目的とした場内のスポーツ娯楽産業界の発展.
〇スポーツ活動の発展史
・19世紀後半のイギリスのパブリック・スクールにおける「発明」をもとにした,ある機能を満たすことから生じた.
パブリック・スクール=「全制的施設」*6(E・Goffman)
パブリック・スクールは1週間7日間,一日24時間皆を監督しなければならず,思春期の子どもらを支配するために経済的な方法,つまり「時間を埋めるという意味」としてスポーツをみなした.「無償」のスポーツの基礎.
⇒われわれは,この思春期の子供らを組織すること,支配すること,制御することの極度の経済的意味が,大衆を結集し象徴的に征服するという見方をもって組織されたすべての制度間の闘争における手段と対象になってしまう可能性があることを認識していなければならず,徐々に受け入れられた認識と公的な権威からの補完の上に,組織されたスポーツの大衆化とスポーツ組織の発展を位置付けて理解する必要がある.

〇スポーツと政治的闘争
・スポーツは政治的闘争の対象である.
→闘争の側面とは,スポーツをするための,装備,道具,職員,サービスに付随して起こるすべての必要の発展において最も重要な要因の1つである.
Ex)田舎で押し付けられるスポーツの必要性
→田舎ではスポーツの必要性を押し付けられるが,それは,施設やチームが村のプチブルブルジョアのはたらきによるものだから.
→組織とリーダーの政治的サービス,そして常に政治的権力のなかに潜在的に変換できる名声と名誉の政治資本の蓄積や維持を課すための機会をそこに見出すことができる.

〇結論
・スポーツの大衆化は,スポーツマンとその組織がスポーツ実践に割り当てる機能の変化によって,そして見世物の自律性の増加との相関関係において,公衆の期待と要求の変容と一致するスポーツをすることの論理の変容という2つの側面によって,必然的に付随して発生したことは言うまでもない.
→「男らしさ」の賞賛と「チーム精神」の熱狂は,イギリスのパブリック・スクールブルジョアジーや貴族の青年とフランス南西部の農民や店主の子息にとって異なる意味と機能をもつ.
ブルジョアの期待:スポーツキャリアが,支配階級の子供たちに開かれた上昇する流動性の数少ない道の1つ.
労働者階級の熱狂:労働者階級出身のスポーツマンへの熱狂は,労働者階級のサクセスストーリーが,豊かさと名声への道を象徴するという事実.
⇒労働者,ロー・ミドル階級のスポーツに対する「関心」と価値観は,スポーツの職業化と比較の合理化の必要条件とが一致することと,特定の有能さ(勝利とかタイトル保持,記録)を最大限することを追及することを課せられたスポーツのパフォーマンスがリスクの最小限化と組み合わされる.これが,スポーツ産業の発展と結びつく.

3.需要の論理―生活様式のまとまりにおけるスポーツ実践と娯楽

・供給:スポーツ実践と娯楽を定義すること
・需要:主体がスポーツ実践と娯楽のあいだの対立と調整を行った結果,場に持ち込む期待や関心,価値意識.
→新規加入者は,スポーツ活動と娯楽の区別とそれ等の社会階級間における配分という確定状態を説明しなければならない.その状態とは,主体が変化させることはできず,「スポーツ場」の主体と制度間の闘争と競合の歴史の結果である.
⇔もし主体の「スポーツをしたい」という気持ちがなければ,スポーツ実践のあれやこれをしたいという主体のロジックは理解されない.スポーツはそれ自体,身体との特別な関連という側面をもち,傾向のシステムの単位,すなわち「ハビトゥス」に再び差しこまれる.

・スポーツ実践の分布を説明するモデル
→重要なのは余暇(経済資本の代替的形式),経済資本,そして文化資本
⇔多様な階級と階級フラクションによって様々な実践に与えられた意味と機能における多様性を説明しておらず,これらのモデルは最も重要なことを把握できていない.

〇身体運動の階級バリエーション
・個別の社会階級が身体の運動から期待される効果に関してすべてに同意していないことを示すことができる.
→身体の運動の階級のバリエーションは,経済的文化的コストを満足させることを可能不可能にする諸要因におけるバリエーションから生じるだけではなく,即座にまたは延期された異なるスポーツ実践から生じる利益の認識と批評からも生じる.
Ex)体操
→力を示すしるしをもつ頑丈な肉体をつくることは,労働者階級の需要でありボディビルがそれを満たす.健康的な身体を作ることはブルジョア階級の需要で,健康増進をするジムとかほかのスポーツので満たされる.

・階級ハビトゥスはスポーツ活動について話し合われた意味,それから期待される利益を定義する.すくなくともそれらの利益とは,それらが階級分布に由来する美徳によるスポーツの探求から生じる社会的価値観である.
→一方で身体へ向かうスポーツから期待される固有の利益もあり,社会的利益に加えなければならない.
・健康を与える機能は,実践が社会階級に分配された主体間での実践の分布から生じるという意味で,分布的意味を持つ.
・もしくは,ウェイトリフティングは,長らく労働者階級のスポーツで,オリンピックで公的な認知を承諾するために長い時間がかかり,貴族の目には,単に強さと野蛮さと貧困の象徴だった.

〇階級と階級フラクション間の実践の分布
・異なるスポーツを実践することの見込みは,主に経済資本で,第二に文化資本と余暇に依存する.これは各階級と階級フラクションの倫理的かつ美的性向と各スポーツにのもつ倫理と美の客観的成果とのあいだの強い好みに依存するということ.
・スポーツと年齢のあいだの関係性は,より複雑.
→「ポピュラー・スポーツ」の重要な性質は,暗黙の裡に若さと結びついており,体力的なエネルギーの過度な浪費をすることと表現される類として評価されている.そしてとても早くに放棄される.
⇔「ブルジョア・スポーツ」は,体力的メンテナンスの機能と社会的利益のために実践され,体力的な限界までが長く,一流的で排他的になる.
→「体力的」質と見習い期間の状態は公正平等に分配されるとみなされる適正能力が要求されるから,余暇の限界内で平等に利用できる.そして二次的に,ブルジョア・スポーツをすることの見込みは,卓越性の考慮と倫理的・美的「好み」の欠如が,ほかの場においてもみられる論理にしたがって,支配階級のメンバーを追い出すのであれば,社会的ヒエラルキーが上がるにつれて増加する.
・事務職員,技術者,小売店に一般的なチームスポーツとまた労働者階級に一般的な個人スポーツは,上流階級を追い払うためにあらゆる理由を組み合わせている.
→大衆化による品のなさ,要求される価値観と美徳,競合の賞賛と,コンテストなどなどを強化する公共の社会構造を含む.

・スポーツが,社会階級間,支配階級フラクション間にどのように分布されているのかを理解するために,経済的・文化的資本または余暇のバリエーションへ訴えることは難しい.
→①経済的な障害より隠れている要求―家族の伝統と初期の訓練―そしてまた義務付けられた服装,労働者階級とロー・ミドルやアッパー・ミドル階級から生じる個人に閉じ込められたこうしたスポーツを保つ社交性のふるまいと技術
→②経済的制約は可能性と不可能性の場を,主体のあれこれの特定の実践様式への積極的な方向性を決定づけることなく定義する.

・労働者階級が「身体に集中する実践」で「方法的関係」がある.
→栄養があるか美のケアかどうか,病気か医療かに関係する.
→努力,痛みや恐怖,ときに「身体をはる冒険」に投資することを要求するスポーツの選択において明示される.

・体操や健康志向のスポーツは,理性的で,合理化された活動である.
→①延期され,しばしば見ることもできない利益を強固な信用を前提としているから.
→②それ自体一連の抽象的な動きに縮減され,特定の技術的定義を参照することで腐敗し再組織される,毎日の状態の全体的な動きと異なり,実践的な目標に向かって,まるで行進のように,軍曹のハンドブックにおける初歩的な動きに分解された,一般的な散歩とは異なり,運動の効果の完全に理論的な抽象的な知識を参照することで意味を持つから.
⇒それらの行動は彼らの努力での満足と彼らの現在を犠牲にする報酬である延期された満足を受け入れるために準備をする上昇志向な動く個人という禁欲的性向に根付いているものと理解できる.

・健康の維持のためのスポーツ
→学校の先生の間で最も一般的な,登山やウォーキングのようなスポーツにおいて,体を維持するという健康的な機能は,特有の活動をすることと結合した象徴的な満足感を組み合わせる.これは,最も高い程度の自身の体を制御し,自由である感覚をあたえ,大衆にアクセスできない風景を独占的に横領している.

・健康の機能は,審美的機能とむすびつき,また社会的機能と組み合わされる.
→室内ゲームと社会的交流に加えて,社会資本の蓄積を可能にする「無償の」かつ「中立的な」活動のあいだの場にスポーツはある.
・スポーツ活動は,単なる出会いの選択肢や社交性の技術の単なる口実である
Ex)ゴルフ,狩猟,ポロなどなど
⇔ダンスは,社会化の機能から全く離れて,身体の社会的使用であり,身体を記号として扱う事,独特な気楽さ=独自の熟練さは,身体のブルジョア的使用の熟練した出現を表象することの1つである.
ブルジョア的言語使用を特徴づける自身のある緩慢さ,その独特のテンポによってみわけることができる身体のふるまい方.


[文献]
岩田若子,1988,「『役割』概念の再検討――E. Goffmanにおける"役割距離"の含意」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学心理学教育学』28: 11-21.
深澤建次,1982,「E・ゴフマンの「役割距離」についての一考察」『ソシオロジ』26(3): 27-42,138.
Erving Goffman,1961,Asylums: Essays on the Social Situation of Mental Patientsand Other Inmates, New York City: Doubleday.(=石黒毅訳,1984,『ゴッフマンの社会学 3 アサイラム――施設被収容者の日常世界』誠信書房.)

*1:ブルデューは,階級を所与のものとはみなさず関係概念として捉えるべきと主張し,差異の体系からなる社会を,資本の総量と構造の指標によって分布させた「社会的位置空間」と,具体的な慣習行動=実践から構成される「生活様式空間」との対応関係を分析した.そして「差異の体系によって分けられた諸々の集団」が階級フラクションとなる.Class and class fractionsを『ディスタンクシオン』の訳者石井洋二郎は「階級と階級内集団間」と訳しているが,本稿では階級フラクションと訳す.

*2:「Appropriation/領有」は,ブルデューの主要な使用概念の1つである.つまり,ハビトゥスとは主体が「所有」するものではない.石井はappropriationを「所有化」と訳しており,英和辞典でも占有,横領などと訳出されているが,「possession/所有」「property/性質」とは識別されて使われていることからも,この訳には若干の留保が必要である.

*3:現在eスポーツに関する議論の1つはスポーツか娯楽かという線引きの問題だが,現在スポーツとして認識されているものはフォーク・ゲームからの移行であるという歴史をふまえた場合,娯楽からスポーツへの移行は一般的ありうるんだと,広い視野を持った議論をしてほしい.

*4:ゴッフマンの「役割距離/role distance」概念とは,「個人とその個人が担っていると想定される役割との間の“効果的に”表現されている鋭い乖離」(岩田 1988: 17)を指す.

*5:Ex)足しか使ってはいけないサッカーは特殊化された身体の動きという点で最もわかりやすい.

*6:ゴフマンの定義は次の通り.「全制的施設 a total institution とは、多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所、と定義できよう。」(p.v).ゴフマンは、刑務所や精神病院など、多数の類似の境遇にある人々が、相当期間社会から隔離され、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る場所を「全制的施設」と名付けた.