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久保田英助「安部磯雄の廓清会による廃娼運動の特質」

<書誌情報>
久保田英助,2008,「安部磯雄の廓清会による廃娼運動の特質――一九二〇年代における買売春をめぐる日本人の『男性性』」『アジア文化研究』15: 27-39.

1.はじめに

 久保田英助は近代日本の男性の性道徳について研究しており,本論文は廃娼運動を行った廓清会という団体の活動から,当時の日本人の「男性性」について明らかにしようとしたものである.近年,この領域は大きな方向転換を迫られている.従来の研究では,廃娼運動こそ女性の人権を擁護する明治最大の人権闘争であり,廃娼運動の女性開放的性格が強調されてきた.しかし,今日では廃娼運動を単純に女性解放運動とする議論は成立しない.多くの研究者によって,娼妓のスティグマ,廃娼運動内の性差,戦争協力といったこの運動をめぐる負の側面の検証が行われている.このような先行研究の成果を踏まえ,本稿では本論文を要約しながら,現在の議論の中での意義を考えていきたい.

2.論文の要約
2-1.論文の全体に関わるまとめ

 まずは本書の課題についてまとめる.著者はこれまでの廃娼運動の研究について,日本キリスト婦人矯風会(以下,矯風会と略記)を中心とした,女性運動としての廃娼運動との認識が一般的であると指摘している.つまり,女性運動としての廃娼運動は,女性であるがゆえに対議会活動において効力を発揮できず,参政権の獲得へと力を入れざるを得なくなり,次第に女権擁護を求める禁酒・禁煙運動,純潔教育運動に重心をシフトさせていく.その一方で,1910年代以後廓清会による運動が活発化し,1926年に矯風会と合併したのち,対議会活動において成果を発揮し,地方において廃娼決議を次々と獲得していく.廓清会について筆者は,矯風会が会員を女性限定にしたのに対し,主に男性を中心に組織されたものであり,さらに廃娼決議を獲得する対議会活動において活躍したのは多くの男性であり,廃娼運動を女性運動と捉えるのには限界があると指摘する.したがって廃娼運動の本質を見抜くためには,廃娼運動で活躍した男性たちの言動に注目しなければならないとした.以上から筆者は,世界的にも日本国内でも人権に対する意識が高まってきた1920年代に着目し,廓清会の活動とその理念から買売春をめぐる男性の視点を浮き彫りにすることを本論文の課題とした.
 この課題を受け,以下の3つから本論文は構成される.第1部では,この運動内で廓清会が公娼制度における諸問題をどのように解決していこうかと考えているかということが,「性欲自然主義」という観点から論じられる.第2部では,廓清会が女性の人権侵害というものから目をそらし,女性の不道徳性を強く批判する一方で,男性の不道徳性については深い追及を怠った理由を,性道徳の認識における性差に注目して論じている.第3部では,「娼妓の道徳問題は経済構造の改革無しには始まらない」と根本的な解決方法を見抜いた廓清会がとった戦略と,その戦略と現実との矛盾,さらに廓清会がとった戦略の根底にある格差観を浮き彫りにした.なお最後には「おわりに」が設けられ,廓清会が貧困層の女性の人権擁護のための本質的な対応を欠いてしまった原因を「性欲自然主義」によって結果的に本能を抑えられない「男性性」と,貧困層の男性は女性を買うものだという「男性性」という以上のように構築されたふたつの「男性性」に求めるという結論をだした.最後に植民地への視点の欠如を挙げ,国家の植民地収奪への差別に異を唱えない帝国主義的性格を持ち合わせていたことを指摘している.
 ここで主な史料として取り上げられているのは廓清会の機関誌である『廓清』や矯風会の機関誌『婦人新報』,さらに当時の性科学雑誌『性』に投稿された寄稿論文である.筆者はこれらをもとに,当時構築されていた「男性性」というものを浮き彫りにしていく.

2-2.事実解釈について

(1)課題
 本論文の課題は上記で述べたが,その課題の前提として「1920年代以降の矯風会の活動内容を見ると,女性という制約のもとで運動の実現を図るには婦人参政権の獲得が不可欠であるという難題を前にし,家庭内での女権擁護を求める禁酒運動・純潔教育運動に重心をシフトさせている.」とし,「1926年に廓清会婦人矯風会廃娼連盟(以後廃娼連盟)が成立すると,地方運動を中心に成果を上げ(中略)そこで活躍した人物は(中略)数多くの男性たちであった.したがってこの年代の廃娼運動を女性運動と限定して捉えることには無理」があり,「男性の言動に注目しないでは運動の本質を十分に明らか<に>することはできない」(<>内筆者)としている.いくつかに分類すると①矯風会参政権獲得のため,廃娼運動から女権擁護運動へと活動内容をシフトさせた.②廃娼連盟の発足後,地方運動を中心に廃娼運動は成果を上げ,そこで活躍したのは男性である.③以上踏まえて廃娼運動は女性運動と限定するのは無理があり,男性の言動に注目してこそ本質を見抜くことができる.という以上3つの指摘がある.
 まず①についてだが,まず,矯風会が本格的に廃娼運動に乗り出したのは1916年だといわれている.もちろん1886年発足当時から矯風会は売買春問題に取り組んできており,群馬県の廃娼運動を支援したり,娼婦の保護を目的とした施設の建設,運営をしたりするなど積極的かつ実践的な取り組みをしている.しかし,1916年に久布白落実が矯風会の総幹事に着任すると,中心問題を公娼廃止運動に置くことを提案し,1921年を期して公娼全廃の法令を獲得することを目標に活動が進められていくが,目標達成の見通しは立たなかった.田代美佐子は,久布白は1921年の矯風会の機関誌『婦人新報』において「公娼全廃運動を起こして満五ヶ年,私は,飛田の問題と云ひ,また三沢千代野の問題と云ひ,失敗に失敗を重ねて,真実学び得たことは力の必要と云ふことです.如何に正義であり人道で在っても,其処に力が伴はなければ,其正義も人道も実行することができませぬ」との認識から婦人参政権の必要を重視するようになり,矯風会の中心的活動が婦人参政権の獲得に移行すると述べている(田代 1997: 90-91).久布白は翌年の『婦人新報』の「公娼全廃教育運動の後を省みて」で来年からの活動の抱負が述べられているが,「唯一残念に思つた事は,最後に議会に対する現状の運動に力を入れることの出来なかつた事です」と1916年以降の活動をまとめている.加えて『婦人新報』における廃娼運動の大々的な記事も1923年以降見られなくなる.婦人参政権獲得の具体的な活動内容は,1921年に日本婦人参政権協会を設置,婦選獲得運動に会を挙げて取り組むことを決定している.また,1924年には市川房江らと婦人参政権獲得期成同盟会を結成し,久布白は総務理事に着任している .
 以上のように矯風会は会員が婦人に限定されていたため,その分男性が中心の団体と違い独自の活動ができたが,その反面,女性の参政権がないという時代的な制約のもと活動に限界が生じた.そのため矯風会やその理事らは活動の方針を廃娼運動から女権擁護運動変えたという筆者の指摘は妥当といえる.
 次に②についてだが,まず,廃娼連盟発足前と発足後での廃娼県の成立数をみていく.廃娼連盟が成立したのは1926年であるが,それ以前に県議会で公娼の廃止が決定したのは群馬県のみである.一方1926年以後の廃娼県は以下のとおりである.
年(西暦) 廃娼県名
1928年 埼玉県・福井県秋田県福島県
1929年 新潟県
1930年 神奈川県・沖縄県・長野県
1931年 茨城県山梨県
1932年 宮崎県・岩手県
1933年 青森県長崎県
1935年 高知県
1936年 愛媛県
1937年 宮城県・鹿児島県・富山県滋賀県広島県
以上のように廃娼連盟発足後22の県で廃娼決議が採択されている(今中保子 1986: 9図表10).
 ここから矯風会がネックとしていた対議会活動が廓清会と連携することで大いに進んだことが推測できる.
 次に男性の活躍についてだが,林葉子は廃娼運動のイメージが男性と女性の役割分業意識を高め,女性が運動の前面に出ることが憚られたという指摘をしている(林葉子 2007: 9-10).林氏によると,「廃娼運動は在娼派との『戦争』として描かれ,廃娼運動家は『勇壮なる義兵』にたとえられる.女性たちに向かっては『卿等が天使の如く優美なる至愛なる純潔なる慰撫奨励の援助を願ふのみ』と語りかけ,さらに,『卿等が優しき繊手もて鎧の紐を結ひくゝるならバ鬼をも攫むべき壮士は感泣奮進快く戦場に打死すべし』と論じて,『戦争』としての廃娼運動の前線に位置する男性たちを銃後の女性たちが支えるというイメージを描き出している」(林2007: 10-11)と,廃娼運動内でのジェンダーが強調されたという.しかし,この役割分業に異を唱えた女性もいた.しかし,矯風会内でも女性は男性の「助け手」論を持つ女性が多く,男女問わずこの時期の日本社会全体が,女性を政治的活動から排除する傾向にあった.加えて,廓清会との合併後,久布白は財政部長に就任し,矯風会は廃娼連盟内で軍隊でいう兵站を担うことなった事実からも,銃後の支えという女性の役割が廃娼運動内でも確立していくことになる.
 以上から1926年以後対議会活動において成果を上げた廃娼運動であるが,そこで活躍したのは女性ではなく,多くが男性であったという指摘は妥当であるといえる.
次に③についてだが,①,②で挙げたことから対議会活動において男性が主要な位置を占めたのは明らかになったが廃娼運動は対議会活動のみがピックアップされるものではない.廃業をし終えた娼妓らの保護や社会への啓もう活動など多岐にわたる.これらをはじめとする現在いる娼妓らを救う活動と,新たな娼妓を生まないための活動を広義の廃娼運動とし,議会において公娼制度の撤廃の建議を勝ち取る活動を狭義の廃娼運動とした場合,狭義の廃娼運動においては筆者の指摘は妥当であるといえるが,広義の廃娼運動においては矯風会も活動の中心にあったことから妥当ではないと判断できる.

(2)本論
 筆者は本論において,廓清会が女性の性に対して絶対的優位な男性の性という売買春問題の核となるテーマを見抜けなかった原因として,当時の一般人に浸透していた「男性性」を挙げている.1つは性欲は「本能」であり,それを抑えることはできないという認識.もう1つは貧困層の男性ならば女性の性を買うのも仕方がないというもので,以上2つの男性性を原因として挙げている.1つ目の性欲を本能として捉え,本能であるが故に抑えることはできないという人間観は「性欲自然主義」と呼ばれる.廓清会会頭の安部が「売淫は自然の欲」であるから,「男女間の不正なる関係と云ふ,道徳方面の問題は寛大に」すべきであると述べていることからも,廓清会のリーダーでも性欲をコントロールするという考えには至らず,コントロール不可能な性欲ありきで議論を展開させていたことがわかる.矯風会の久布白は売買春が一種の職業として認識されており,性欲がコントロール不可能であるという認識のもとに何らかの対策が必要であるという社会認識を強く批判しているし,加えて特に男子に関しては,「国民中,上下挙げつて,男子の性欲否獣欲は,これを制する必要なきもの,又制し能はざるものとの誤信を与ふる事」がないように教育すべきと強調した.安部や久布白といった廃娼運動のリーダー格の人間が共通の認識を持っているという点で筆者の「性欲自然主義」に基づいたコントロール不可能な性欲という社会の認識があったという指摘は妥当であると考える.
 もう1つの指摘についてだが,筆者はここには二段階の格差観が根底にあるとする.1つは女性に対する男性の道徳的優位性である.筆者は廓清会常任理事の高島が男性が女性より「本能」である性欲をコントローする道徳性が備わっていることを強調しているという点,当時の性科学雑誌『性』のなかで女性が感情的で弱い被刺激性を有しており,感覚的情緒的平衡を失い本能の赴くままに行動してしまうという認識を持たれていたことを挙げて説明している.そしてこのような認識が社会に根付いているため,性的に堕落した女性は男性を堕落させる加害者という構図が出来上がり,この男性及びその家族を守るのが廃娼の目的という論理が出来上がった.ここには性道徳レベルにおける「女性=弱者」,「男性=強者」という性差観を見ることができる.
 もう1つは,貧困層に対する富裕層の道徳的優位性である.安部は女性が売春婦となるのは経済的困窮であり,男性が遊郭へ赴くのは性的安寧が保証される結婚ができないような経済状況にあるからと貧困が根本的原因であるとし経済構造の改革を訴えた.早く結婚して妻を持ち,性的安寧を保証することで男性は遊郭に行かなくなり,女性も妻となれば娼妓へと身を落とす必要もなくなるという戦略である.そしてこの戦略から漏れた貧困層の男性の性は私娼を使って発散させるというものだ.そして安部は「下層社会ならば売淫婦を近づけてもやむを得ないとあきらめるが,上流社会にあっては天下の模範となるべき人々が」公娼を利用してはならないと述べていることから,筆者は「この戦略には『下層=道徳的弱者』に対する『上層=道徳的強者』と位置付けが,はっきりと見て取れる.」と指摘する.そしてこの二つを組み合わせると貧困層の女性の立場は非常に弱いものであり,これは貧困層の男性が女性の性を利用することを許容してしまっているとも考えられると筆者は指摘する.
 まず女性に対する男性の道徳的優位性についてだが,廃娼運動の論理でしばしばみられる男性は娼妓の犠牲者という論理から裏づけられると考える.これは性的に堕落した女性が男性を堕落させているから,この男性及び家族を守るために公娼は撤廃すべきであるというものだ.群馬県の廃娼論では売買春そのものではなく,娼妓がもたらす浪費やそれに伴う男性の堕落や家族関係の悪化を問題化している(林 2007: 2).つまり,先に堕落しているのは性道徳のない女性のほうであり,性道徳を有する男性はこれら娼妓に脅かされているという加害者が女性で,被害者は男性という構図である.以上からあくまで男性は性欲をコントロールしているが,それを貶めているのは女性であるという構図からわかるように,筆者の指摘は妥当であるといえる.
 次に貧困層に対する富裕層の道徳的優位性についてだが,安部が「下層社会ならば売淫婦を近づけてもやむを得ないとあきらめるが,上流社会にあっては天下の模範となるべき人々が」公娼を利用してはならないとはっきり述べていることから筆者の指摘は妥当であると考える.
 最後の指摘である二重の格差から貧困層の女性が性的にもっとも弱い立場として位置づけられているという指摘であるが,娼妓の主な供給先が貧困家庭の娘であることや,娼妓が男性を貶める加害者敵対場で認識されていたことなどを考慮すると筆者の指摘は妥当であると考える.

(3)おわりに
 最後に筆者は「おわりに」の中で廓清会が植民地の女性に対する性暴力に対しては全く論じていない㉒という指摘であるが,これについての具体的な史料はないため妥当か否かの判断はしにくいが,一応矯風会は植民地おいても支部をいくつか設立している.楊善英は朝鮮に公娼制が敷かれてまだ間もないため,日本より容易に廃止することができると考え,キリスト教系の団体が協力・連合したことに注目している(楊善英 2005: 103).その点,キリスト教団体ではない廓清会は無関心であった可能性はある.加えて,矯風会救世軍はそれぞれが日本支部というように東アジアにも矯風会支部や,救世軍支部が存在していたため,連携できる基盤があったが,廓清会にはそれがなかったことも遠因ではないかと推測できる.

3.本論文の位置づけ

 以上のように本論文の個々の指摘の妥当性を検証してきたが,本論文の研究の成果は,なにより,今まで廃娼運動は矯風会を中心とした女性運動としての位置づけられることがほとんどであったが,そこに廓清会という男性中心のメンバーで構成された団体を研究対象とすることで,男性運動家がこの廃娼運動をどういう回路で進めようとしていたかが分かるということだ.主な例は矯風会が男性にも貞操を求め一夫一婦制を強く主張したが,廓清会側は安部の発言からもわかるように「性欲自然主義」にのっとり,あくまで性欲ありきの議論であったことだ.さらに貧困層と富裕層,女性と男性の間の性道徳レベルにおける格差観があり,これらから構築された「男性性」が当時の人間観として普及しており,廓清会は根本的な問題点を認識できなかったことが分かった.
今後の課題としては,廓清会の運動が植民地の女性に対して何も行われなかった理由に,」3つ目の格差観(つまりは民族格差)というものがあるのではないかという推測のもとこの点の解明が求められる.

[文献]
田代三江子,1997,「廃娼運動と教育――1910~30年代の矯風会を中心に」『日本女子大学大学院文学研究科紀要』3: 87-96.
今中保子,1986,「1920年代〜1930年代の廃娼運動とその歴史的意義――広島県を中心にして」『歴史学研究』559: 1-15.
林葉子,2007,「廃娼運動への女性の参加と周縁化――群馬の廃娼請願から全国廃娼同盟会設立期まで」『女性史学』17: 1-17.
楊善英,2005,「関東大震災と廃娼運動――日本キリスト教婦人矯風会の活動を中心に」『国立女性教育会館研究紀要』9: 95-105.