幸福なポジティヴィスト

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林葉子「廃娼運動への女性の参加と周縁化」

<書誌情報>
林葉子,2007,「廃娼運動への女性の参加と周縁化――群馬の廃娼請願から全国廃娼同盟会設立期まで」『女性史学』17: 1-17.

本論文は前回の記事で参考文献として提示した論文である.
chanomasaki.hatenablog.com


はじめに
 林葉子は女性史・ジェンダー史を専攻し,主に公娼制度や廃娼運動の研究をしている.本論文の課題は,第1に,廃娼運動の言説にジェンダーという視座から「廃娼」及び「在娼」についての分析を行っている.第2に,廃娼論がどのように女性解放運動と結びつき,また乖離するのかという点について,「衛生」という概念を用いて廃娼論と女性解放論との関係を分析するものである.そこで,林は女性たちが廃娼運動に参加し,やがて周縁化していく過程を論じていくことで明らかにしていく.議論の前提として,筆者は廃娼運動史がこれまで「女性史」として記述されておきながらも,廃娼運動において,女性たちがどのように位置づけられていたのかいまだに十分に明らかされていないという指摘をしている.事実,対議会活動は思うように進まなかったが,政治的な面や女性自らが社会に問題意識を持って行動したという点からは廃娼運動が女性史の一部として記述されるのは妥当であると考える.しかし,現在,廃娼運動の研究氏は矯風会ブルジョア的活動への批判的な指摘が多く寄せられ,その活動の不十分さや限界を指摘する論文がほとんどである.活動の内容を論じる研究ももちろん必要ではあるが,それだけではこの活動の意義という面が不足しがちになるのではないかと考える.著者はこの課題に「衛生」という言葉を用いる.これは健康の保全や増進をはかり疾病の予防や治療に専念することを言うことから花柳病に対する「衛生」というのを想像しがちだが,わざわざかっこでくくっているのは娼妓をあたかも社会の疾病や病原菌であるかのようにとらえ,それらを排除することで社会をきれいにしていくという意味を持もたせているからである.そういう面があることを念頭に置きつつ,本論の検証に入っていく.

(1) 第1章
  筆者は群馬県の廃娼運動を例に挙げ,廃娼と在娼という一見正反対の立場をとっているかに見える主張の中に,共通しているのは排娼論であると指摘している.廃娼派は公娼制度の廃止を目的とし,売春行為や私娼の存在は黙認するというスタンスで,在娼派は,娼妓を一般社会から隔離したうえで身体を管理するというスタンスであり,これは相対するようで娼妓らを一般社会から排除するというのが根底にあり,対立は方法の違いでしかないと指摘する.
廃娼派のその建議とは「貸座敷ノ業を更ムルノ建議」であり,「娼妓ヲシテ来客二接シ,其情欲ヲ達スルノミニ止 メ,酒肴ヲ売リ,芸妓ヲ呼ビ歌舞管弦セシムルヲ禁ジ」ることを求めた.これは娼妓で性欲を発散させることに止めて,芸妓を呼んで金銭を浪費することを禁ずるという建議である.そして売買春自体は「一時閏房ノ便ヲ得テ欲火ノ発動ヲ薄」くすることに役立つとの認識がされており,売春行為自体を問題化しているのではないことが分かる.さらに「[娼妓廃絶の]嘆願書」(括弧内=筆者注)は娼妓が「父子夫婦ヲシテ離散ノ禍ヲ招カシム」ことと「資産ヲ失ヒ生業ヲ墜ス」ことが問題視されており,売買春行為の存在よりも家庭内秩序を乱すことや浪費によって没落しかねないということから娼妓の存在を問題視していることが分かる.加えて,群馬県内の温泉地として有名な伊香保温泉では群馬県内でも先駆けて廃娼運動を行っており,その「伊香保温泉廃娼ノ義二付建議」のなかには「妓楼の喧囂」「娼婦の不潔さ」「国の恥」という3つの観点から廃娼を訴えている.以上3つから見える群馬県の廃娼運動は,娼妓の存在を花柳病をもたらすもの,浪費を促すものとして捉え,「衛生」という観点から不潔であるとみなし,それの排除を目的しており,売買春行為自体は問題化されておらず,むしろ一時の欲望の発散には役に立つという認識がなされていた.
一方で在娼派同じ観点から全く逆の方法を提案している.「娼妓廃ス可カラザルノ建言」では公娼が廃止されると密売淫(私娼とみだらな行為)が盛んに行われるようになり,強姦や姦通が増えて「淫風」が甚だしくなり,梅毒が蔓延すると指摘し,これら「倫理」「風俗」「衛生」を守るために公娼は必要であるとする.一方で管理を逃れ売春行為を働く私娼は悪の権化のようにたとえられ,それらがはびこる社会を危険視している.
以上娼妓をめぐる廃娼派と在娼派の主張を照らし合わせると,社会からの排除というのは共通しており,その方法が廃娼派が公娼制度そのものの廃止であり,在娼派が一般社会から隔離したうえでの身体管理という方法上の対立であるという筆者の指摘は妥当といえる.
次に筆者は「廃娼運動そのもののジェンダー化」を指摘している.これは廃娼運動において性差が強調され,男性は運動の中心を担い,女性はその補佐に回るという事態が生まれたことを指す.上記でも述べたが「衛生」という概念は公娼制度を廃止する論理としても用いられるが,一方で公娼制度を正当化する論理としても用いられる.そして矯風会などの女性たちは,人権の観点から公娼制度が正当化される「衛生」の論理に反対する必要がでてきた.そのため矯風会風俗部(廃娼運動を中心的に担う部署)の部長である萩野吟子は「衛生上の働きに於て男女自ずから差異あるが如し,私共の考えには婦人は公衆衛生より自己の衛生即家庭内衛星(料理・育児)に主として関係あるが如し」と論じた.つまり,萩野は公衆衛生を男性に担わせ家庭内衛生については女性が管理すべきと説き,このように男女の差異を強調し,新しい婦人衛生という概念を作ることで,そこに女性の意見を反映させようと試みた.しかし,この後萩野が作り出した「婦人衛生」という概念は廃娼論でなく禁酒論や看護論の中で用いられてことになり,しだいに女性たちは廃娼運動から遠ざかることになる.さらに森林太郎ペンネームは森鴎外)は廃娼運動の担い手に女性がなることに対して,たとえそれが廃娼というスタンスであっても娼妓の「醜悪さ」によって女性たちがけがされてしまうと考え,恐れた.そしてこの様な恐れは女性を主要な運動から退け,男性の補佐に回し,あくまで家庭を治めることに専念すべきという発想に代わっていった.1890年に設立された全国廃娼同盟会が発行する『廃娼』には,廃娼運動を在娼派との戦争と捉え,廃娼運動の前線に位置する男性たちを銃後の女性たちが支えるというイメージを描き出している.これに反論し,女性自らの思いを訴えていくべきという女性もいたが,しかし,そのように男性たちに対する不信感をストレートに表現したことが男女双方の不信感を買うことになる.矯風会の『東京婦人矯風会雑誌』においてはかねてから女性の存在を廃娼運動において全面的に押し出す路線に対して,あくまでも女性は内を治めるべきだという主張が掲載されているように,矯風会内でも女性が社会運動に参加することに対する反対意見が根強かったことが分かる.さらには同じく『東京婦人矯風会雑誌』には,女性は男子の助け手であるという主張が載せられ,女性が男性と同じく政治活動することに対して忌まわしいという表現がなされている.女性と男性の差異を強調し,新しく女性の領域を作り出し,そこから意見を反映させていくという路線は,当時の女性が直接的な政治活動を行うことに対する忌避感があったという背景からだんだんと女性を遠ざけ,結果として女性のもとの領域である「家庭」に封じ込めるという役割を果たした.以上から組み上げられた筆者の指摘は,『東京婦人矯風会雑誌』の執筆者が女性からしだいに男性へと移行したことや,1890年に成立した集会及政社法によって女性の政治活動が全面的に禁じられた出来事などから,当時の社会が女性が社会活動に参加することを嫌う風潮があったことから妥当であると判断できる.


おわりに
 以上のように女性が廃娼運動に参加し,そしてしだいに周縁化されていく過程を見てきたが,本論文の成果は,1890年代において女性が廃娼運動内でどのような位置を占めていくかを解き明かしたことにある.女性たちははじめ「衛生」という観点から男女の差異を強調し自らの領域を作り出し,積極的に意見を反映させようと試みた.しかし,時代的背景という制約からその男女の差異があだとなり次第に「家庭」へと押し込まれていってしまった.女性たちが「衛生」を用いて自らの意見を廃娼運動に反映させようとした原因は『東京婦人矯風会雑誌』の創刊号に「矯風会之目的」という題で掲載されている.ここでは「生理の学,衛生の法」を知らなかった時代から名誉を重んじ衛生を尊ぶ「文運旺盛の域」に行ったという認識から,女たちが運動を起こす機が高まったと論じられている.「衛生」は「清潔」と同意で用いられ,矯風会は「清潔」こそが目的であるとし,以後の活動を展開していく.以上のように「衛生の法」が尊ばれる時代だから女性たちの廃娼運動が可能になったという認識が存在した.
 本論文は1880年代から1890年代にかけての女性の廃娼運動からの周縁化を述べてきたが,矯風会はこの後も廃娼運動への積極的な活動を続けていく.私の解釈ではこのころから女性は廃娼運動の表舞台から退けられていたという風に受け取るが,この後の矯風会の積極的な活動はどのように維持されていくのかについて興味がわいてきた.