幸福なポジティヴィスト

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吉見義明,1995,『従軍慰安婦』

<書誌情報>
吉見義明,1995,『従軍慰安婦岩波書店

従軍慰安婦 (岩波新書)

従軍慰安婦 (岩波新書)

目次

第1章 設置の経過と実体
第2章 東南アジア・太平洋地域への拡大―アジア太平洋戦争期―
第3章 女性たちはどのように徴集されたか―慰安婦たちの証言と軍人の回想―
第4章 慰安婦たちが強いられた生活
第5章 国際法違反と戦犯裁判
終章

第1章 設置の経過と実体

○確認される最初の慰安所
 現在、確実な資料によって確認できる最初の「軍慰安所」は、1932年1月の第1次上海事変のときに、日本海軍によって上海でつくられた。上海では、中国政府が公娼廃止に取り組んでいたため、体面上は協力し貸座敷制度を廃止していた。しかし、実際には抜け道として料理店酌婦制度をつくり、維持していた。
 一方陸軍は、上記の慰安所を参考にして同年3月から設置が始まった。設置の理由は、日本軍兵士による強姦事件が発生し、その抑止のためであった。しかし、その設置の手際の良さから、ある程度慰安所の設置が考えられていたと推測される。この根拠は、シベリア出兵の際、日本軍兵士による強姦が多発し、作戦行動に支障が出たこと、さらに、性病感染者が多数出ており、軍部は芸妓・酌婦を憲兵隊の許可制にしなければならなかったという経験があったからだ。
○大量設置の時代へ
 中国との全面戦争に突入後、中国大陸には常時100万以上の軍隊が駐屯する事態になった。これにともない各地に慰安所が建設されていくことになる。日本軍は南京占領時に掠奪・虐殺・放火・強姦など不法行為の限りを尽くした。強姦以外も重大な戦争犯罪ではあるが、特に強姦は中国人から厳しい態度で臨まれたため、軍首脳部にとって強姦の発生は、統治上都合の悪いことであった。そのため、上海派遣軍では、司令部の指導の下、準備が進められた。
慰安所の拡大は長江流域のから徐々に華中の都市、華北、華南と広まり、1938年代に入ってから慰安所は上海などの大都市のほかに地方にも次々と建てられた。設置理由は先に述べたように、日本軍兵士による現地住民への強姦が多発し、それが住民の憤激を呼び、統治に支障をきたし始めたからである。慰安婦も続々と到着しており、日本人女性より朝鮮出身の女性のほうが比率は高くなっている。
○陸軍中央と国家の関与をめぐって
陸軍の指揮系統を確認すると、各派遣軍は天皇の命令で出動し、参謀総長の助言に基づく天皇の命令で作戦行動を行った。各派遣軍に対する指揮権は天皇が持っていたが、軍令権は参謀総長に、軍政権は陸軍大臣に委任していた。これを区処といい、朝鮮軍司令官・台湾軍司令官も各派遣軍と同じ指揮系統のもとで活動した。憲兵については陸軍大臣が大本である。
慰安所の設置に陸軍のエリート層(方面軍司令官や参謀長)が関わっている点から、組織的なものであったことは間違いない。さらに陸軍省は軍人の指揮の進行、軍紀の維持、掠奪、強姦、放火、捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために軍慰安所は必要だとして、その果たす役割を積極的に認めている。さらに慰安婦を船で移送する際に、日本陸軍が管理する日本船籍の軍用船を利用しているたが、これは陸軍中央の了解なしには不可能なことである。慰安婦の輸送は船のほかにも飛行機、鉄道、トラックが使用されている。
しかし、陸軍だけで運営するのには無理があり、内務省には慰安婦輸送の件で朝鮮・台湾総督府は輸送と徴集の件で、拓務省・内務省は台湾の統治の件で、大きく関与している。外務省は慰安婦設置時には関係したが、展開に伴い、民間の性風俗店の取り締まりのみ行った。
慰安婦の集め方は主に二通りある。1つ目は、派遣軍が、占領地で慰安婦にする女性の徴集で、2つ目は、日本・朝鮮・台湾での徴集である。2つ目をもう2つに分けると、1つ目は、戦地に派遣された軍が、自分で選んだ業者または担当者を日本・朝鮮・台湾に送りこみ、徴集するやり方である。統制は主に各方面の司令部が行うのが普通であったが、その指揮下にある師団、旅団が行う場合もあった。2つ目は、派遣軍から要請を受けて、日本の内地部隊や台湾軍・朝鮮軍が業者を選び、その業者が徴収するやり方である。どちらにせよ、この方法では憲兵や警察は表に出てこない。しかし、業者の支援(渡航証の発行など)をしていたことは間違いなく、日本軍はもちろん、国家ぐるみで関わっていたことは明らかだ。
○どのような結果をもたらしたか
 軍が慰安所の設置の理由として占領地での戦争犯罪(主に強姦)の防止、性病予防が挙げられた。しかし、実際には強姦事件はなくなるどころでなかった。そもそも、慰安所とは性的に女性を使役することを公認する場所であり、一方でそれを認め、もう一方でそれを禁止するといったことは不可能であり、強姦防止の根本的解決に結びつくはずがないのだ。本来、強姦事件は厳罰をもって対処することが一番である。しかし、現在も強姦罪は申告制であり、当時も被害者の申告がなければ成立しないことになっていた。そのため、被害者側の女性が申告しなければ、和姦と解釈され、立件は不可能であった。さらに、強姦を犯した兵士の多くは、追及を恐れて強姦した女性を殺害することも少なくなかった。
 続いて性病の予防についてだ。日本軍は、性病の蔓延を防ぐため、民間の売春宿を利用させず、軍が管理した慰安所をつくるのが適当と考えていたのである。しかし、あいかわらず患者は多く、性病専門病院が必要なほどの状況だった。このため軍当局は、占領地で民間の売春宿の利用を禁止するとともに、軍医に定期的に慰安婦の性病検査を行わせ、兵士にはコンドームの使用などの予防策を講じさせていた。しかし、このように管理されているはずの軍慰安所でも性病の蔓延を防ぐことができなった。慰安婦となっている女性が性病を蔓延させた可能性もなくはないが、むしろ彼女は移された側といってもいい。なぜなら軍医は慰安婦の性病検査は行っていたものの、兵士の性病検査はあまり厳密に行われなかった。性病に感染するということは不名誉なことであり、多くはそれを隠そうとしたため、兵士が感染源になることが多かったのだ。軍慰安所は性病を防ぐどころか、むしろ性病蔓延の原因になっていることが分かる。
 慰安所設置の目的は、強姦防止・性病防止にとどまらない要素が含まれていた。将兵への「慰安」の提供、およびスパイ防止である。大義名分のない侵略戦争のなかで、勝利の見通しもなく、休暇制度もなく、長期間戦場に将兵をくぎ付けしておくために、性的な慰安が必要だと考えた。性的慰安施設を除いて、日本軍は慰安と呼べるものをほとんど提供していなかった。軍医たちはしばしば音楽、映画、図書、スポーツなど娯楽施設の設置を提案していたが、これはほとんど実現しなかった。生活の利便施設の設置が行われないなか、上官による厳しい監視と私的制裁が行われていた。このような劣悪な環境の中、戦場に拘束され、いつ帰還できるかわからない状況におかれた将兵たちの不満が募るのは当然だった。将兵の不満を爆発させず、かつ戦闘意欲向上のために軍は性的慰安施設を増やしていったのだ。
陸軍省も依然として減らない強姦事件と性病患者への対策として軍慰安所だけを考えていたわけではなかった。将兵への「慰安」の提供と、スパイ防止である。
 前者からふれる。日本軍は性的な慰安以外の音楽、読書、映画、スポーツといったものがなく、休暇制度も存在していなかった。そのため、長引く中国との戦争の中で、いつ終わるかの見通しもなく、さらには日常的に受ける上官からの私的制裁などによって将兵の不満は募る一方であった。このような不満を爆発させず、士気を維持していくために性的な慰安所がつくられていた。強姦事件や性病が罹患しない前線の兵士にも慰安所があったことからも慰安所はまさに「慰安」のために存在していたと言える。
 次にスパイ防止であるが、将兵が占領地の民間の売春宿を使うことによって軍事上の機密が漏れるおそれがおおきくなる。そこで日本軍は自ら慰安所をつくり、それを常時監視、統率する方が得策と考えた。日本軍は将兵の民間の売春宿の使用を禁止し、軍慰安所憲兵が定期的に立ち寄り、将兵慰安婦の関係などを調べた。

第2章 東南アジア・太平洋地域への拡大―アジア太平洋戦争期―

○南方地域の状況
 対米英戦がされると、占領地に次々と慰安所が設置されていった。その設置理由は強姦事件の予防であったが、案の定占領地での強姦が多発した。現地の司令官は陸軍省慰安婦の派遣を要請し、渡航許可証の発行を求めた。1938年以降、慰安婦や業者が東南アジア・太平洋地域に渡航する場合の管轄を外務省は失った。1942年には陸軍の身分証明書を持たないものは渡航させられなくなる。つまり陸軍中央が慰安婦を管理していた実態があるのだ。
 陸軍省は性病予防の点からも管理を厳しくしている。1942年陸軍省は改めて全軍に性病の蔓延防止を指示し、軍慰安所の衛生管理を徹底させていた。しかし、性病の広がりは依然として深刻な問題であり、軍慰安所の拡張がいそがれた。
 
第2章 東南アジア・太平洋地域への拡大―アジア太平洋戦争期―
○南方地域の状況
 1941年12月、日本は連合国に対し戦争を起こした。東南アジアの広大な地域を占領し、これらの地域に軍慰安所が次々に設置されていった。軍首脳部はイスラム教徒の貞操観の強さを事前に調べていたため、強姦防止のために軍慰安所の設置を考えていた。
 そしてやはり占領と同時に各地で強姦が発生した。特に中国戦線からの転用部隊に顕著だった。中国で同様の事件を多くしてきたためだろう。
 慰安所の開設とともに多くの女性が移送された。この時の渡航許可証は陸軍省が発行している。外務省は1938年以降、軍関係の慰安婦についての管轄権は失っており、アジア・太平洋戦争開始以降も引き続き管轄権は軍に属していた。であるから、陸軍省渡航許可なくして、慰安婦が東南アジア地域に赴くことは不可能なのだ。
 陸軍省は性病予防の面からも慰安所の管理を厳しくしている。陸軍の医務局も性病の防止策として慰安所を積極的に認めている。しかし、現状では兵士の性病防止という名目のもとに、軍幹部が自身の性欲を満たしているのだった。
 なかなかなくならない強姦・性病に関して陸軍省慰安所以外の方法も打ち出してははいる。戦後の人口不足を解決する方法の一環としてだが、いわゆる「子づくり休暇」なるものを実施し、短期間ではあるが兵士を家に帰らせ、未婚兵士は結婚できるように、既婚兵士は新しい子を産めるようにしている。しかし、全般的な休暇制度とは程遠く、結局手っ取り早い慰安婦所設置を推し進めることになった。林博史の研究によれば兵士一人あたり月一個で、一個師団5万個のコンドームが陣中に送られた。
 海軍の場合慰安婦は「特要員」と呼ばれていた。海軍では海軍省慰安婦の運営を決定していた。特に海軍は陸軍以上に中央統制が強く、慰安所も直轄的な性格であった。
○軍慰安所の配置と慰安婦の総数
慰安所には経営形態の違いから大まかに分けて三つのタイプがある。第一は、軍直営の軍人・軍属専用の慰安所、第二は、形式上民間業者が経営するが、軍が管理・統制する軍人・軍属専用の慰安所、第三は、軍が指定した慰安所で、一般人も利用するが、軍が特別の便宜を求める慰安所である。
 次に設置された場所によっての違いもある。一つは大都市などにあって、駐屯部隊だけでなく、様々な通過部隊が利用する軍慰安所である。もうひとつは、特別の部隊に専属する慰安所である。部隊専属慰安所はその部隊の分屯中隊に派遣されたり、舞台と行動を共にすることもあった。
第三に、利用者によっても性格は違っていた。将校が利用する慰安所は基本的に日本人慰安婦だった。下士官・兵用の慰安所にも日本人がいなことはなかったが、多くの場合、朝鮮人・台湾人・中国人や東南アジア・太平洋地域の住民が慰安婦とされていた。ほかにも、商社員など軍のために活動する在留日本人に軍慰安所利用が認められる場合があったし、日本軍のための地元出身の兵用に慰安所がつくられていた場合もあった。
 現在、日本・アメリカ・オランダの公文書によって、軍慰安所の存在が確認されている地域は中国、香港、マカオ、フランス領インドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネオ、オランダ領東インドビルマ、タイ、太平洋地域の東部ニューギニア地区、日本の沖縄諸島小笠原諸島、北海道、千島列島、樺太である。このほかに旧日本軍の回顧録によれば、トラック島・コロール島サイパン島アメリカ領グアム、インド領のニコバル諸島にも軍慰安所が設置されたという。北は千島列島北端の占守島や中国東北の孫呉などから南はインドシナのスンバ島まで、東はトラック島やニューブリテンラバウルから西はビルマのアキャブ(シットウェ)まで慰安所があった。日本国内では本土決戦に備えて大量の兵員が配置された九州や千葉県にも設置されている。
 慰安婦の総数は、8万とも、朝鮮人だけで20万ともいわれるが実数ははっきりしない。推計によると下限は5万人で上限は20万人といわれているが、あくまで推計の域を出ない。慰安婦は死亡、逃亡、契約満了による帰国によって交代があるので、すべてがずっと慰安婦をしていたわけではない。
 公文書によれば慰安婦として、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人ビルマ人・オーストラリア人・オランダ人が徴集されていた記録がある。旧軍人の回顧録によると、このほかにインド人やシンガポール・マレーの華人慰安婦にされている。民族別比率は朝鮮人、中国人、日本人の順に比率が高く、残りの少数派は、主に現地調達されたとみていい。

第三章 女性たちはどのように徴集されたか―慰安婦たちの証言と軍人の回想―

○日本からの場合
日本内地から慰安婦を送る場合、二一歳以上の売春婦の中から集めるほかなった。日本は婦人・児童の人身売買を禁止する国際条約に加盟していたためそれを意識する必要があったからだ。しかし、それは厳密に守られていたわけではない、未成年であっても警察の裁量次第で黙認されたし、売春婦以外の女性も要求されたこともある。在日朝鮮人の場合特にこの基準が守られることはなかった。
○朝鮮からの場合
朝鮮からの徴集でもっと多いのは、だまされて連れて行かれたケースだった。少女たちの家は貧しく、十分な学校教育を受けることもできなかった。そのような状況で、周旋業者の甘い言葉に騙されて連行された。次は身売りである。親には年齢・容貌・性格に見合った金を払い、女性を買ったり、借金を抱えた親や当人に前渡し金を支払い、経済的拘束を得たうえで慰安婦にしたりした。三つ目は暴力連行のケースだ。民間人や軍人による誘拐や脅しにより捕えられ慰安婦にされたのだ。
 慰安婦の徴集には陸軍が憲兵・警察と連携をとるように指示しており、経済面や輸送手段などあらゆる面で支援するように各部隊宛に通達している。
 1943年以降、朝鮮人の戦争への動員は激増し、労働力が減ったため、女子の動員が始まった。この動員令によって女子挺身隊に入るよりは就職した方がいいと考えた女子が、だまされて慰安所に“就職”することになった例もある。
 自由意思による応募者の可能性もあるがあまり多くはないと思われる。公娼制が存在していたので売春婦はいたが、彼女らは業者の有力な稼ぎ手であるから手放すとは考えられない。私娼もいるが、彼女たちは必ずといっていいほど性病に罹患しているので、多くはない。自由意思による女性が仮に存在していたとしても、そのような状況にならざるを得なかったという点を重視しなければならない。
 このような慰安婦徴集の際の違法行為について警察は本気を出せば見逃すはずはなかった。警察は戦争を利用して大儲けしようとする不良分子が中国にわたることを阻止するために、渡航証明書の発給を厳重なものとしている。もちろん慰安婦一人ひとり調査を受けているから、警察は違法行為を承知の上で身分証明書を発行したことになる。
 警察の取り締まりは甘く、若い婦女子の多くが誘拐犯に娼妓として売り飛ばされていたことや役人の必要書類の偽装などもよっぽど悪質でない限り黙認されることが多かったのだ。軍の要請を最優先にしているためだった。朝鮮の役所の連絡系統はまず、現地の軍の要請を領事館が受け取り、外務省に知らせる。外務省は拓務省に通知し、拓務省はこれを朝鮮総督府に知らせる。総督府は警務局から道知事―警察署長といった具合だ。
○台湾の場合
 台湾も女性の多くが未成年者であり、やはりだまされて連れて慰安婦にされたケースが多い。特徴的なのは前借金を貰っている人が多いことだ。
○中国の場合
中国は日本の植民地ではなく占領地であったので、現地の軍が直接の指揮を執った。慰安婦の徴集の際には村の有力者の協力を得ることが多く、有力者が性病を持っていないであろう売春婦でない女性を村内から提供したり、慰安所の開設にも協力することがあった。村の安全を守るためということで、なかば女性が強制的に集められた可能性は高い。
 ほかの徴集の仕方は軍が討伐の際に直接集める場合である。襲った基地にいた女性などを戦利品として監禁し輪姦すといったことが行われた。
○東南アジアの場合
東南アジアでの慰安婦徴集の特徴は中国と同じく、軍が前面に出ていることだ。シンガポールでは、占領後それまでイギリス軍を相手にしていた女性が慰安婦の募集に応募した。しかし、彼女らの予想をはるかに上回るほど酷使され、断ろうが押さえつけられて相手をさせられた。
 地元の有力者に命じて集めるケースは東南アジアの各地で見られた。集落のリーダーは命令に背いて殺されることを恐れて、半ば無理やり女子を提供した。
 詐欺も横行した。性的奉仕をすることを伏せ、言葉巧みに婦女子を集めた。
 フィリピンでは多くの慰安婦が名乗りを上げているが、彼女たちの多くが暴力によって連行されたと言っている。インドネシアも同様に暴力によって連行されている。
 彼女らは現地で将兵の相手をさせられたり、船で運ばれ、ビルマやフィリピンなどに連れて行かれることもあった。

第4章 慰安婦たちが強いられた生活

慰安所に対する監督・統制は、現地軍司令部の管理部や後方参謀、兵站の慰安係、師団・連隊などの副官や主計将校、憲兵隊などが担当した。直営の軍慰安所は軍が全面的に管理した。民営の形式をとった軍慰安所の経営についても、軍は厳しく監督・統制している。
 軍慰安所を設置する決定を下すのは部隊長が行い、副官が主計将校などに指示して設置にあたった。最初に軍が用意したのは建物である。家屋は多くの場合、ホテル・食堂・商店や大きな屋敷など、軍が接収した部屋数の多い建物が当てられた。また、部屋数が多いという理由で学校や寺院なども使われた。立地は将校が通うのに便が良いところにあるのが条件だった。
 適当な建物がない場合は、新しく建てた。建物を確保すると、軍慰安所として使えるように、小さく間切りをし、便所・洗滌所・受付などおつくり、各部屋にベッド・毛布・消毒液を入れるなど、大工・左官などの技能を持つ兵士が改造・設営した。
 軍慰安所の部屋の内部は様々だった。後方の基地の軍慰安所ではアンペラで部屋を仕切り、調度品は現地で掠奪したものを使用した。前線の軍慰安所は土間に布団を敷いただけの粗末なもので、部屋も4畳程度だった。
 慰安婦の登録には必要書類をもって兵站慰安係に出頭する必要があった。そこで次のような登録が行われる。
1 係の下士官が、慰安婦の写真・戸籍謄本・誓約書、親の承諾書、警察の許可書、市町村長の身分証明書を調べる。
2 所定の身上調書用紙に、前歴、父兄の住所・職業・家族構成・前借金の金額などを書き入れる。これには、後で、営業停止や病気入院などの事項を追加していき、(酒癖あり)などといった本人の特徴も分かり次第、追加していく。
3 身上調書の写しを憲兵隊に回す。
このように慰安婦のことをこと細かく記録している。業者が慰安所を経営する際には、このほかに開業許可申請書・営業計画書・宣誓書などの提出を求められた。
 軍慰安所の利用にあたり、軍は細かい利用規定を作っていた。業者が行っている場合であっても、軍が完全にコントロールしており、利用規則・利用料金・利用時間、各部隊への割り当て、衛生管理の内容から経理にまで軍が関与していた。さらに利用者に関する詳細な報告を業者に提出させている。
 これまで問題点として連行時の強制が主にあげられてきたが、それより重要なのは慰安所における処遇である。彼女らは性交を強要されてきた。多い時では60人という人数を相手にせねばならず、大変な苦痛であった。拒めば、ひどい暴力を振るわれるため、性交の拒否をすることができなった。
 酒飲みは特に危ない客が多く、断ったりすれば軍刀を振り回して暴れたりした。このような危ない場合は事件になったが、個室で行われる慰安婦への暴行は多くの場合事件として認識されることはなかった。
 利用時間は、兵士が朝9時半から午後3時半まで、下士官が午後4時から8時まで、将校が午後8時半から翌朝までとされた。将校は終夜利用し、泊まることもできたわけである。料金は、持ち時間30分の場合、中国円で兵士6円・下士官9円・将校11円だった。階級が進むほど利用しやすくなっており、また異なる階級が鉢合わせしないようになっていた。これとは別に将校専属の慰安所、部隊長専用の慰安所があった。民族によって料金も異なり、中国人女性は日本円で1円、朝鮮女性は1円50銭、日本人女性は2円となっていた部隊もあった。
 これを見て分かるように慰安婦はほぼ一日中軍人の性交の相手をしなければならなかった。慰安婦の休みは月1、2回程度だったといわれている。慰安婦に入る給料についてだが、軍は収入の配分割合を規定している。前借金が1500円以上の場合は4割以上、1500円未満の場合は5割以上、無借金の場合は6割以上としていた。さらに配分金の100分の3を強制貯金とし、慰安婦配当の3ぶんの2以上を前金返済に充てることとし、稼業上の妊娠・病気などは本人の半額負担、そうでない場合は全額負担となった。
 しかしこの規定は最も良い条件であって、多くの場合衣服代、化粧品代など日用品が法外な値段で借金に繰り入れられ、取り分のほとんどすべてが借金返済に充てられた。また、借金が無くなった場合でも、強制貯金や国防献金などの名目で差し引かれ、お金がほとんど手に入らない場合も多かった。たとえお金をもらっていても軍票であったため敗戦と同時に紙くずと化したり、貯金をしていた場合は、戦後のインフレと新円切り替えで大損したり、植民地出身者であったため引き出せなくなっていたりする。
 慰安婦慰安所から逃亡することは困難だった。業者や軍が厳重な監視をしていた。出入り口はもちろんのこと、場外に出る門にも歩哨が立っており、外出は時間と地域が制限された。たとえ逃亡できたとしても、言葉も話せず、風俗・習慣も異なるのですぐ見つかった。また、中国やフィリピンなどの占領地では朝鮮人慰安婦は原住民に殺される可能性もあった。またたとえ殺されなくとも、故郷に帰る手段も金もなかった。
 植民地出身の慰安婦の場合、前借金で債務奴隷状態にされていることも逃亡ができない理由の一つだった。慰安婦にかける借金の利子、病気など休んだ時の稼ぎの欠損を借金に繰り入れたり、衣服・毛用品などを法外な値段で貸し付けたりして借金はどんどん膨れ上がっていった。
 軍慰安所の異常な生活の中で、肉体的な苦痛や精神的な苦しみから逃れるために、麻薬に頼るようになる慰安婦も少なくなかった。
 定期的な性病検査にもかかわらず、慰安婦が性病になる可能性は高かった。合格した慰安婦の中には実は軽傷であった者もいたり、婦人科のいない部隊では性病かどうかの判断ができず、そのまま営業させたりしたため、コンドームを着けずに性交した将兵たちから蔓延したと考えられる。
 兵士の性病検査はあっても月1回程度だったし、性病は不名誉であったため隠す将兵が多かった。こうして軍慰安所を介して性病が広がっていった。
 軍慰安所での生活のために、命を落とす慰安婦も少なくなかった。病気やアヘンの中毒や自殺、心中の強要が主なものだった。
 以上のような環境下で彼女たちは将兵への性的奉仕を強要されていたのだ。このような女性を多く抱え込んでいるのに、彼女らを保護する法律を何一つつくらなかった。以上から従軍慰安婦は日本軍の性奴隷でしかなかった。

第5章 国際法違反と戦犯裁判

○植民地・占領地の女性が慰安婦にされた理由
 従軍慰安婦別にみると、植民地・占領地の女性の比率が非常に高かった。その理由の一つとして金一勉は民族性の抹殺を上げている。確かに、日本は皇民化政策のもとに民族性を抹殺していく政策をとっている。これと慰安婦が結びつくかは疑問であるが、根底に民族差別があることは確かであろう。この民族差別を国際法上から検討する。
 内務省から各都道府県に出されたものなかに、慰安婦として日本人女性がいくことにより、考えられる弊害(親族、知人が慰安婦だったなど)を上げており、慰安婦が日本人以外であれば、このようなことを気にしなくて済む、つまり朝鮮人や台湾人であればかまわないということだ。
 婦女子売買に関する国際条約に日本は批准しているが、この国際条約は植民地を適用外とすることができる。日本はこの抜け道を利用し、朝鮮・台湾を慰安婦の供給源としたのだ。
 しかし従軍慰安婦制度が抵触する国際法は少なくない。先ほど上げた婦女子売買に関する国際条約は抜け道を利用している。しかしこの植民地を適用外とするという条文が盛り込まれた理由は、持参金や花嫁料などの慣習を直ちに撤廃することは難しいため設けられたものであり、条約の適用外ということも考えられる。
 慰安婦の輸送に使われる艦船・航空機は国際法上日本の本土とみなされるので、誘拐などの機転が植民地であったとしても、適用される。
 慰安婦を「労務」ととらえれば、強制労働に関する条約にも違反している。ここでいう強制労働とは「処罰の脅威のもとに強要せられ」た一切の労働を指しており、従軍慰安婦はこれに違反しており、さらには相当な報酬も、労災補償も、健康面でのサービスも提供せず、関係者の処罰を行わないこともまた、条約違反である。
 1926年に締結された奴隷条約には日本は批准していない。しかし、当時文明国である日本は、締結していなくても、この条約によって拘束を受けるとICJは考えている。そうであれば、身売り等前借金によって縛るケースも条約違反であると言える。
 1907年に締結された陸戦の法規慣例に関する条約(以下ハーグ条約)を日本は191年に批准している。これは総加入条項があるので、直接には適用されないが、46条の条文は慣習国際法を反映したもので、日本は守る義務があったとしている。
 人道に対する罪という概念は、第一次世界大戦後のドイツとの講和条約の締結の中にすでに表れている。そしてこれは極東軍事裁判でもとりいれられている。人道に対する罪を「戦前または戦時中なされたる殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為」あるいは、「政治的または人種的理由基づく迫害行為」と定義している。
○オランダ人慰安婦問題―スマラン慰安所事件の顛末
 日本軍がオランダ人女性を抑留所から強制的に連れ出し、慰安婦として扱った問題は、敗戦後にバタビアで開かれたオランダの軍事法廷で裁かれた。最高刑は死刑で1名、最も軽い刑は無罪で2名であった。他には懲役20年などがおり、有罪となったのは11名であった。これはオランダ政府の公式文書として発表され、スマラン慰安所以外にもこのような事例を数多く列挙している。
 この裁判で明らかになったことの1つは、日本司令部が、売春のための強制徴集は戦争犯罪であるという国際法をよく承知していたということである。なぜなら日本軍は設置の際に自主的な者のみという注意をだし、また事件が発覚すると慰安所を閉鎖しているからである。2つ目はヨーロッパ系の女性に対しては売春を強制してはならないという指示が出されたが、アジア系の女性には出されなかったという事実である。これは戦後に問題になることを恐れたからであった。
第6章 敗戦後の状況
○敗戦直後の連合国軍用慰安所
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国軍に降伏した。日本政府は連合国軍による大規模な強姦事件が起きることを恐れ、8月18日に日本政府は連合国軍用の慰安所の設置を指示している。これを受けて全国で連合国軍用の慰安所が設置されていく。政府は特殊慰安施設協会(RAA)をつくり1360人の慰安婦を動員した。この資金源として右翼の積極的介入が注目される。
連合国軍による強姦事件は、日本軍ほどひどくなかったが、それでも相当数おきている。しかし、強姦を防ぐために性的慰安施設を設置するという考えは戦後も変わっていなかった。アメリカ側からの要求も存在した。
だが46年3月25日、アメリカ軍第8司令部はアメリカ軍将校の性的慰安施設の使用を禁じる布告を出した。その理由は性病の蔓延である。
こうして日本政府と業者によって設置された慰安施設は消滅した。しかし日本政府も連合国軍も従軍慰安婦を人権侵害として捉えていないことが分かった。
○軍隊に慰安婦はつきものか―各国軍の場合
第二次世界大戦中に日本軍以外の軍でも性的慰安施設の設置が明らかになっている。アメリカ・イギリスの場合、短期間で閉鎖されたものの、それは本国の反発を恐れたためで、社会によって女性を擁護する声がない限り、軍隊は性的慰安質を欲する傾向にある。日本軍と連合国軍との違いは軍規の厳しさと軍の中央が計画したかということである。軍紀を厳しくできた背景には休暇制度の充実にあった。大きな作戦に参加した後には、長期の休暇を取り、家族や恋人に会うことができたのである。
 ソ連軍の場合、軍専用の慰安所を持っていたかはわからないが、ソ連兵は多くの強姦事件を起こしている。中国東北部では侵入してきたソ連兵によって女性は白昼であっても見つかったら強姦されることが続いた。そのためある開拓団では女性をソ連兵に差し出したことが分かっている。
 ドイツ軍の場合、多数の慰安所が占領地に存在している。その数は500か所にもおよび、施設の設備・監督・物資供給は現地軍司令官が担当し、占領地の全ての兵站に軍付属としておかれた。設置の動機としては性病が蔓延しそうになったからであった。
 慰安所に関する各国軍の共通性と差異は、それぞれの軍隊の構造・性格と深く関係性がある。日本軍が軍慰安施設としたのは軍規維持の問題と関わっている。
 大正デモクラシー以後、日本軍兵士も、権利意識に目覚め、知的・文化的に成長していった。そこで兵士の内面からの忠誠心を獲得しようとするも得られず、兵士の人権も認めることができず、ふたたび厳しい統制による軍規維持を目指したのだった。戦争が本格的になるにつれ、動員数が膨れ上がり、上官が部下を十分掌握できなくなった。それにつれて軍内部への秩序批判が生まれ、上官に対する反抗や暴行が増えていった。また、兵士の抑圧された不満は占領地の住民に向けられた。このような中で、占領地の住民に対する不法行為は大目に見られるようになった。これが強姦事件を呼び、その多発が軍制に使用をきたすようになり、性的慰安施設の設置という循環をもたらしたのだった。
 そのうち慰安婦制度をやむを得ないものとする必要悪論が出てきて、慰安婦の実態が見えなくなっていったのだった。
従軍慰安婦たちの戦後
 慰安婦たちは戦後連合国軍の手によって本国に送還されている。しかし、この送還から漏れて、取り残された慰安婦も少なかった。
 慰安婦にされた女性たちは、戦後、後遺症、トラウマに悩み、社会的差別に苦しまなければならなかった。目立つ病気としては性病・子宮疾患・子宮摘出・不妊などの身体的病気と、神経症うつ病言語障害などの心病気である。
 このほかにも結婚や恋愛が困難になったり、運良く結婚できても別れるケースや妾となるケースがある。
 社会的差別も彼女たちを押しつぶした。まるで「汚いものを見るような目」で見下されることが家族、親せき、知り合いから向けられたという。
 このような抑圧状況の中で過去を隠すことを止め、名乗り出ること自体が、精神的抑圧から一定の解放につながることになった。日本政府が責任を明確に認め、謝罪し、賠償し、被害者の名誉を回復することなしには、彼女たちの苦痛は終わらないのだ。

終章

 最後に女性差別の問題を考え、従軍慰安婦制度を支えた日本社会の問題を見ていく。慰安婦とされた女性は、将兵の性欲処理の道具としか見られておらず、その人権はおろか人格さえ無視されていた。「女を知らない男は男でない」といった男性本位の論理が国内や植民地では公娼制を支え、戦地では軍慰安所を支えたのである。
 この女性差別意識はどこから来るのだろうか。1898年に民法では戸主の権利を定めており、それは家の全財産を支配し、家族のことに関する多くのことに大きな権利を持っていた。家督は原則長男が継ぎ、妻は無能力者とされ、夫は妾を持つことが公認され、夫は妻の同意を得ることなく、他の女性に産ませた子供を認知することができた。また、1908年に施工された刑法では姦通罪があり、妻が不倫した場合は、夫の告訴によって妻と相手の男性が処罰されたが、夫が行った場合は、その相手が人妻でなければ許された。男に性的放銃を認め、女に貞淑を求める性の二重基準は、それを保証する女性の性的役割分担を生み出す。こうして女性は産むものとしての妻と、快楽を満たす売春婦、その中間形態といての妾というように役割を分担されたのである。
 公娼制度の歴史を見ていく。徳川幕府が市中に散在していた遊女を一角に集め、外界隔離し管理しようとした吉原がある。これは治安維持、武家社会の綱紀粛正という狙いもあったが、特定区画での性的放縦を認めることで、厳しい身分秩序からの一時的な「解放」感を保証するとともに、体制にとっての危険な情報を、遊郭制度を通じて捉えるためであった。明治維新後も公娼制は存続したが、1872年のマリア・ルス号事件で、問題として浮かび上がった。これにより、日本政府は人身売買の禁止を確認するとともに、芸娼妓を解放し、その借金問題は裁判で取り上げないことを決める。
 しかし、日本政府は公娼制を廃止する意図はなかった。形式や名前を変えただけで、依然として、娼妓に自由はなかった。廃娼運動の高まりの中で、ようやく1900年に娼妓取締規則が出され、自由廃業の規定ができたが、事実上自由廃業は困難であった。
 公娼制度はまさに人身売買、性の売買と自由拘束を内容とする事実上の性的奴隷制度だったのである。そして日本はこの制度を植民地にも導入していく。
公娼制度に対する民衆の意識はおおむね肯定的であった。廃娼運動の参加者は一部の女性解放かとキリスト教・仏教関係者に限られていたことが証拠である。主要都市にあった軍本部の近くにはたいてい貸座敷があったし、大正デモクラシー運動と同時期に「中流階級」以下への買春を保証せよという動きもあった。このように公娼制度のある社会では、慰安所の設置を思いつくのは自然なことであり、その分慰安婦に対する人権侵害が見えなくなっていったのだった。
 従軍慰安婦問題の本質とは少なくとも4つある。1つは、軍隊が女性を継続的に拘束し、輪姦するという、女性に対する暴力の組織化であり、重大な人権侵害であった。しかし、料金を払うという行為のために、内地の公娼を利用するのと同じ感覚で、慰安所に通い、意識することなく女性たちを傷つけたのである。
 2つ目は、人種差別・民族差別であった。日本やヨーロッパの慰安婦より他のアジア人の慰安婦の大多数がより劣悪な状況におかれていたのだ。この背景として他のアジア人を蔑視する意識が広くあったことが挙げられる。
 3つ目は経済的階層差別であった。慰安婦として徴集された女性の多くは、いずれも経済的に貧しく、学校教育を満足に受けていない女性たちであった。親に売られ、または親を助けるために苦界に身を沈めていったのだ。その貧困に付け込んで、性的慰安を強制したのだ。
 4つ目は国際法違反行為であり、戦争犯罪であった。未成年者を連行したり、債務奴隷にしたり、だましたり、強制的に連行した事例が多かった。
このような複合的かつ重大な人権侵害を解決するために以下のことをやる必要がある。
1、 従軍慰安婦に関する政府所管資料の全面公開と、すべての被害国の証人からのヒアリングによる真相解明
2、 国際法違反行為・戦争犯罪を日本国家が行ったことの証人と謝罪
3、 責任者を処罰してこなかった責任の証人
4、 被害者の更生の実行
5、 被害者の名誉回復と個人賠償
6、 何が過ちであったのかを明確にとらえ、過ちを繰り返さないための歴史教育、人権教育の実施、被害者を追悼するための記念碑の設置、史実を明らかにするための資料センターの設置、歴史を記憶する記念館の設置、あるいはそれへの援助など、再発防止措置の実行
これらがなされなければ重大な人権侵害を覆い隠してきた日本の文化や人権意識・たいた民族意識が革新されることはない。