幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

Robin Bunton and Alan Petersen, 1997, “Introduction: Foucault’s medicine,” Foucault, Health and Medicine, 1-11.

<書誌情報>
Alan Petersen and Robin Bunton eds. Foreword by Bryan S. Turner, 1997, Foucault, Health and Medicine, London: Routledge.

Foucault, Health and Medicine

Foucault, Health and Medicine

Contents

List of contributors

Bryan S. Turner, 1997, Foreword: From governmentality to risk, some reflections on Foucault’s contribution to medical sociology

Acknowledgement

Introduction: Foucault’s medicine Robin Bunton and Alan Petersen

Part Ⅰ Fabricating Foucault
1 Foucault and the sociology of health and illness: a prismatic reading
David Armstrong
2 Is there life after Foucault? Text, frames and differends
Nick J. Fox

Part Ⅱ Discourses of health and medicine
3 Mental health,criminality and the human sciences
David McCallum

4 At risk of maladjustment: the problem of child mental health
Deborah Tyler
5 Foucault and the medicalization critique
Deborah Lupton

Part Ⅲ The body, the self
6 Is health education good for you? Re-thinking health education through the concept of bio-power
Denise Gastaldo
7 Bodies at risk: sex, surveillance and hormone replacement therapy
Jennifer Harding
8 Foucault, embodiment and gendered subjectivities: the case of voluntary self-starvation
Liz Eckermann

Part Ⅳ Governmentality
9 Of health and statecraft
10 Risk, governance and the new public health
Alan Petersen
11 Governing the risky self: how to become healthy, wealthy and wise
Sarah Nettleton
12 Popular health, advanced liberalism and Good Housekeeping magazine
Robin Bunton

Index


1.本書の課題
・本書の計画としては,健康と医療の領域における近年のフーコー派の射程の広がりをまとめていくことである.
・本書の執筆陣が,現在,フーコーの仕事と彼が発展させた「健康の問題化(健康がどのようにして,そしてなぜ問題になったのかを問うこと)」にどのように取り組んでいるのかを素描する.そしてフーコーの仕事自体を問題化し,批判的にみる.

〇PartⅠ
・David ArmstrongとNick Foxの章では,フーコーの研究それ自体を問題提起と関連し,その図式を問題とする.両者は,フーコーの論点の範囲と異なる読解(もしくは対抗的な読み)に注目することで,われわれのフーコの方法論についての認識が間違っていることを気づかせてくれた.(3, 1 sta)

・第1章のアームストロングは,フーコーの作者の問題化をわれわれに注意させ,健康と病の社会学において明らかにされていた「フーコー」的なものを示した.フーコーの異なる読解によって,アームストロングは研究の執筆陣と領域へのフーコーの影響を記した.(3, 1,mid)

・第2章のニックは,フーコー存在論があいまいかつ矛盾しており,言説,身体,自己という概念を探索し,理論化し,分析するためのオルタナティブな資源を提示する.バルト,デリダ,リオタールからテクストやフレームの利用が出発点として役に立つとし,リオタールの「Differend/争異(抗争)」概念が,われわれがどのように間テクスト性と差異と抵抗のはたらきをうまく説明するのかを示すことに役立つ.

〇PartⅡ
ここでは,フーコーの研究の重要な遺産の1つである言説の概念を扱う.言説は,フーコーの主体の分析において,広く使われた.フーコーにとって,主体は前言説的な存在をもつというより言説を通じて構成されている.フーコーの目的は,「われわれの文化において,人間が主体を作り出されたそれぞれの方法の歴史を作り出すこと」であった.人間が人間自身を主体に変えることによってそうした諸実践に注目し始めた.

フーコーの系譜学や「現在の歴史」の方法は,思考の非連続性と断絶に注目し,多様な決定と機会の役割の認知に関連する.その方法は明示的な理論的かつ政治的目的を持っている.現在の当然性を打ち砕く,そしてどのように物事が異なるものになるのかを示すこと.

フーコーセクシュアリティへの系譜学的アプローチは,sexとsexualityの社会的構築に歴史的研究の領域を発展させることを奮い立たせることに役立ってきた.こうした歴史的分析は,言説実践の変化に位置付けることによって,現在の不安定さを示し,われわれがものごとをほかの状態になるように想像するようになる.

・マッカラムとテイラーはそれぞれのかたちで,メンタルヘルスと犯罪学,そして子供の成長についての言説におけるある種の主体化(=従属化)の出現を示す.

第3章において,マッカラムは,「個人の危機」の問題の概念的な地形を系譜学的に分析することで,個性と個性的病気のカテゴリーに関する確実性と真実性をかき乱す.個人の歴史てきた問題性の説明を受け入れるというよりは,現在のカテゴリーが多くの要素の組み合わせとして理解されうる.その一方で,19世紀後半では,統計学的な手続き,管理の再形成,社会衛生学の諸戦略の領域を通じて達成された増大した集団の個別化の発展がある.こうした発展は,個人の内側の作用を理解しようとする「psy-disciplines」の20世紀の増大と私的な生活の望ましさの助長によって市民を規制する試みの増大と結びついている. 人間の知が法,精神医学,そしてそれらが作動する制度的な空間の相互関係の複雑さの手段で可能とされている.

第4章で,テイラーはある疑似科学的「発見」(女の子以上に「悪い態度」を示すため男の子の生まれつきの性格)を検査し,かき乱す.彼女は,男の子と女の子の行動を「リスク」もしくは「不適合」として「認知」されるようになること許す可能性の状況を検査する.彼女は子供を統治するテクニック,そして幼稚園やほかの教育的環境における行動の修正のための戦略を説明する.人間の考えの内的な働きの「発見」ではなく,今世紀の初期を通じて発展した子供の集団を統治するテクニックに帰すべきである.子供の魂について知られていることは,それに対処することができることについて知られていることより重要ではない.

5章で,デボラ・ラプトンによって言説の支配は批判的に検討された.ㇻプトンはオーソドックスな医療化批判とフーコー派の生医療の批評の異同を比較した.「医療化」批判の支持者は権力を抑圧するものとして理解し,フーコーは「医療的まなざし」における規律的権力の生産的側面を認めていた.ところが,どちらも医療的遭遇の多くの特徴を無視していた.例えば,無意識と感情のような先の探索の必要性にある

〇Part3
・身体と自己,そしてそれらの関係性の分析.
規律訓練への注目として身体の視座は,身体の性質について,そして近代社会の権力の作動についての思考を書き直すことに役立つのは疑いようもない.

「生-権力」の分析は,権力が人間の身体に関連して作用することを通じて,われわれに2つの軸を与える.
①個別の身体に作用する1つ,いわゆる「身体の解剖-政治学」.もう一方は,人口を通じて作用する「人口の生-政治」.

フーコは,身体を本質的または中立的なものとしてではなく,特定の実践と言説において再生産されたものとして認識している.フーコーは,人口や社会的身体を管理するために利用されるテクニック,そして特定の「正常化の装置」に注目する.『臨床医学の誕生』では,19世紀を通じて,見られ,記述され,そして行われる方法を形成した「身体」の特異な言説をどのように出現させたのかが示される.

医療は,言説が患者の身体に位置づけられる病理解剖学への注目を通じて,「身体」の新たな視座においてカギ役割を果たした.この言説は,医療が正常性より健康に置き換えられたとき,18世紀末まで優勢だったものとは異なる.

第6章では,デニス・ガスタルドが,病気の予防と健康の促進と関連して,「生-権力」の作用において,保健教育がますます重要な役割を果たすようになってきた.
ブラジルの国家保健システムにおける保健教育の政策と実践の研究データを引用して,ガスタルドは,保健教育の言説が日常生活に新たな知識,監視,規律のテクニックを導入することによって,社会的かつ個別の身体の管理にどのように貢献してきたのかを示した.健康についての意思決定と,主体自身と主体のコミュニティのケアに関連して活動的になることに主体を誘い込み,保健教育は自己の解剖と自己の統治を引き起こす.

ガスタルドは,強制的な手段による主体の直接的な統制ではなく,むしろ主体の規制された自律性へ向かうひとつの面を作り出すことに依存する近代の権力諸関係の複雑性を強調しようとする.

フーコーは身体と自己の分析においてジェンダーの観点がないことを批判されてきた.しかし,フェミニズムに強い影響力を持っている.新しい生殖の医療技術は,生殖力のない母,代理母,遺伝的欠陥の母,身体が(生物学的または社会学的に)妊娠に当てはまらない母,繁殖力のある扱いへ心理学的に一致しない母,子宮が胎児に適さない環境である母として個人のカテゴリーを作り出す.同時に,不妊の扱いにアクセスすることを欲望することによって,そうした規範に挑戦する独身とレズビアンの事例のような,抵抗の新しい場所の可能性がつくられる.
フーコーの視座は,女性を特別に暴力や抑圧の犠牲者として仮定するフェミニスト的な視座に挑戦する.医療技術の領域において,例えば,それはなぜ多くの女性は新しい医療技術をできるようにするものとして認識するのか,そして発展と利用の最も強固な支持者の間に時々いるのかという問題を導く.しかしながら,より基本的には,フーコーは,フェミニスト的分析の多くの安定した対象として取り上げられるようになっている性的魅力のある身体を問題化する.

第7章では,ホルモン補充療法の分析において,ジェニファー・ハーディングは,フェミニストと医療言説がすでに性化された身体へ彼らの参照を集中すると主張した.医療とフェミニストの言説,そして主体とオーディエンスを比較し,両者がどのように身体を性化することに参加しているのかを検証した.フェミニスト女性の健康言説は医療言説のように「性」の存在を,閉経を定義し,個人を必要とするまたは待遇を必要としないことのどちらか一方として示すために固定されたカテゴリーと前提条件としてあらかじめ前提にする.
フェミニストの批判は,身体が文化的に説明できるようになること通じて生医療が言語を提供することへの拡大を的確に認識しそこなう.「リスク」の構築を展開することを通じて,医療とフェミニスト両方の健康言説は,女性に自分自身を自己監視の対象とするようにさせる.この帰結が,高齢女性の要求が自らの「老朽化」に抵抗することの責任によって周囲を囲まれることである.
身体と自己の支配的テクニックではなく,「非公式」または従属させられた知識を,両者が似たような自己のテクノロジーを産出するという事例を通じて,このように下線を引くことフーコーがすることを好んだように,「新しい社会運動」の政治の権力効果のアイロニー探求する.

第8章では,リズ・アッカーマンがフェミニズムへのフーコーの思考の妥当性を,拒食症を参照して,具体的かつジェンダー化された主体化の分析を通じて検証した.フーコーは身体と近代の拒食症の「流行」を形成する要因を社会学的に理解するために役に立つ概念道具を提供する.彼の監視と告白の概念は,例えば,処置で使われた行動の修正技術と観念的身体の出現を達成する試みにおいて果たされた自己規律化戦略の有効性を証明する.

〇Part4
フーコーの統治性の概念を健康政策,保健促進,健康消費の分析に適用することを検討する.(言説を含む)支配の技術と自己の技術の接点として示してきた.

第9章では,トマス・オズボーンは,かれが健康と政策の関連の「反射的」説明と呼ぶものの切断にフーコーの研究,カンギレムの研究を引き出した.そうした説明は健康政策を客観的な健康の必要性への反応としてみる傾向がある一方で,健康政策の作用の結果として健康を明言する.反射的な努力としてというより創造的努力として政策に注目する.

健康促進と自己の配慮の言説と関連する統治の技術.

共通のテーマはリスク文化の論点,リベラルな統治の技術における専門家の中心的な役割,冒険的自己の概念の出現である.能力と参加の技術はダブルエッジである.すなわち,「医療的まなざし」の拡大の一方で,人口の建設的管理.


第10章では,アラン・パターソンは,健康促進と新しい公共保健,つまりリスク管理という健康の性質より新しいアプローチの技術を同定する.統治へのリスクの分析と人口の管理の密接な関係を発展させた.「危険」から「リスク」への変化を引用して.専門家と主体の関係性に深い影響をもち,異なる介入戦略を必要とする.リスクはネオリベラル的な主体の自由が生成される技術として出現する.
織部的合理性は,事業家的自己,独自のリスクとリスク行動を管理する能力を引き出す.健康促進は,戦略である.ライフスタイルへの注目によるリスクの最小化とリスクの民営化を生じる.

第11章では,サラ・ネルトンはリスクな自己を統治することについて取り上げる.同時代の健康政策と健康促進の実践に言及して,どのように統治の現代的なスタイルが,自律的に,自主的な再帰的な自己,リスクの管理をする共同体を生みだすのかを検証する.確実性に依存する支配の一方的な関係ではなく,集合体と個人的行為の間の相互関係の結果である.主体が専門家の知識への反応できる理由で,権力は作動する.専門知への挑戦は,統治のスタイルに不可欠である.本章は,主体が単に政策や計画に従属するのではなく,参加を必要とされる.

第12章で,ロビン・バントンは1959年から『Good House Keeping』誌における健康と自己ケアの表象の変化の研究を通じて,進歩的リベラリズムと関連する統治の技術を分析する.バントンはこの時代の「健康関連グッズ」の増大を記し,健康へのますます市場に向けたアプローチとより大きな洞察力,健康意識の主体の出現で並んで.製品はますます彼らの表現と道具的機能への眼で販売されている.製品は消費者のアイデンティティについて示したもののために.「柔らかい」トイレットペーパーの販売にみられる.製品の純粋に衛生学の側面への注目から,製品の奢侈性を強調することへの変化を表象する.同時に新しさ,防止,「リスクに向かう」知識は,医療的権威が日常の仕事になっていることに挑戦する.どのように「psy」の専門技術は消費行動を統制することに採用されているのかに見なすことができる.製品,製品のデザイン,マーケティングの心理学的重要性を確立すること.進歩的リベラリズムの健康の消費は,受動的,文化的判断喪失者(cultural dope)としてではなく,行動的,として位置付けられる.健康製品を選択的に消費することと健康のメッセージを選択的に読むこと.