幸福なポジティヴィスト

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竹内洋『教養主義の没落』

<書誌>
竹内洋,2003,『教養主義の没落——変わりゆくエリート学生文化』中央公論新社

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)


目次
序章 教養主義が輝いたとき
1章 エリート学生文化のうねり
2章 50年代キャンパス文化と石原慎太郎
3章 帝大文学士とノルマリアン
4章 岩波書店という文化装置
5章 文化戦略と覇権
終章 アンティ・クライマックス
あとがき

主要参考文献
人名・事項索引


1.学生文化と教養主義
・ダンスや異性遊びが好きな「軟派」型、試験勉強にいそしむ「実利」型、運動部の学生のような「硬派」型などの学生下位文化と上位の支配的文化としての教養主義マルクス主義教養主義教養主義マルクス主義)が学生文化としてあった。
→こうした教養主義と言われた学生文化は、夏休みの必読書みたいな文学・哲学・歴史関係の古典だけではなく、「総合雑誌の購読を通じて存立していた面が大きい」と指摘される(13)。
→「昭和戦前期の旧制高校や大学生の教養は、学校の授業などの公式カリキュラムだけではなく、総合雑誌や単行本、つまりジャーナリズム市場を通じて得られていた。しかも総合雑誌の論文のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったと言われていることにも注意したい。」(14)
総合雑誌の読書率は学生の3割が読んでいた。もちろん一般庶民の多くは総合雑誌など読まない。『キング』に代表される大衆雑誌が読まれている。
・戦後の総合雑誌ブームは「常識」への欲求を満足させ、教養的なものを満足させていた。「人々は、総合雑誌を通じて教養主義者になったが、同時に総合雑誌の講読によって教養共同体を形成していたのである。」。「まさしく総合雑誌は知識人のきょう強権を形成する媒体であった。」(19)
・こうした読書を通じた人格形成や社会改良という意味での教養主義は、なぜかくも学生を魅了し、そしてその魅力は喪失してしまったのか?本書の対象は教養とは何かではなく、教養主義教養主義者の軌跡をたどり、エリート学生文化を記述していくことである。

終章 アンティ・クライマックス
教養主義の終わりは1960年代後半から始まる。
・マーチン・トロウ『高学歴社会の大学』は、高等教育は該当年齢人口の15パーセントをこえるとマス段階になるという説を出したが、1064年ないし1969年に日本の高等教育はエリートからマス段階に移行した。1970年代からは企業の大卒大量採用が始まる。大学生は専門からただの人になる。ただの学生に教養知はいらない。
教養主義は大衆文化との差異化をはかる特権的な学生文化であった。こうした教養主義の終わりは、反エリート主義文化を生み出したのではなく、大衆への同化をはかり大衆文化への適応戦略の文化を生みだした。それをサラリーマン文化と名付けている。(240)
→経済学者村上泰亮の「新中間大衆社会」。階級構造の溶解により、「伝統的な意味での中流階級の輪郭は消え去りつつあって、階層的に構造化されていない膨大な大衆が歴史の舞台に登場してきたように見える」のである。(234-235)。こうした膨大な大衆の中間意識は、大衆が正当な存在として感じられ、大衆からの逸脱は変人となる。これをオルテガは「凡俗の居直り」といった(オルテガ『大衆の反逆』)。
→サラリーマン文化は教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化である。(236)
・サラリーマン文化のこうした適応の機能は、理想(超越)や自省の文化ではなく、大衆文化と実用主義の文化の蔓延をもたらしたのではないか?(242)
※理想を掲げる左翼を鼻で笑い、自制を促す知識人を嫌い、ポピュリズムと無関心で出来上がっている現代社会を見据えているような。ニーチェのいう衆愚(畜群)の政治。