幸福なポジティヴィスト

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原彬久編『岸信介証言録』

<書誌情報>
原彬久編,2003,『岸信介証言録』毎日新聞社

岸信介証言録 (中公文庫)

岸信介証言録 (中公文庫)


p31
岸氏が「反共」・「反ソ」であることはいまさらいうまでもない。しかし岸氏における「反共」・「反ソ」は、日本敗戦に絡むソ連の国家行動と結びつく部分が大きい。ソ連が日ソ中立条約(一九四一―昭和十六―年四月調印。日ソいずれかが第三国からの攻撃の対象となった場合、一方の締約国は中立を守るとする条約)を一方的に破って対日戦争に参戦したこと、ソ連アメリカの「広島原爆投下」の翌日(昭和二十年八月七日)、すなわち日本敗戦決定的なるを見届けて参戦していること、しかもソ連がすでに半年前のヤルタ会談(一九四五年二月の米英ソ産国首脳会談)で「対日参戦」と引き換えに千島列島などを取得する事でアメリカと密約していたこと、そして対日参戦と同時にソ連満州樺太、千島に侵攻して日本軍民八十万人をシベリアに連行、抑留したこと等々は、岸氏の「反共」・「反ソ」を決定的にしたといってよい。
 しかし一方で、岸氏が敗戦後もなお「昨日の敵」アメリカに好ましからざる感情を抱いていたことは、また事実である。巣鴨の獄中にあって岸氏がアメリカ主導の極東裁判を厳しく糾弾していたことは前述のとおりだが、いま一つ、獄舎におけるアメリカ側の「暴虐」に対する岸氏の憤激には並々ならぬものがあった。獄中日記はいう。「表面民主主義の美名の下に此の人権蹂躙が行はれて然かも何ら抗議の方法も無きなり」(昭和二十一年十一月二十二の頃)。岸氏の「反米」がその「反共」と同様、幽囚の日々のなかでいよいよ確たるものになっていったことは間違いない。

p46
―横浜拘置所をめぐってどんなことが思い出されますか。
岸 太田という人は、今話したように、憲兵隊長だったんですが、間もなく横浜からかつての任地であったフィリピンに送られて、そこで処刑されました。横浜拘置所には、仲間である井野碩哉君(一八九一―一九八〇。東条内閣の農林大臣兼拓務大臣。戦後は参議院議員、第二次岸内閣の法務大臣)、賀屋興宣(一八八九―一九七七。東条内閣の大蔵大臣。戦後は衆議院議員、第二次池田内閣の法務大臣

p59
―ということは、岸さんが総理になる前後ということですか。
岸 私が政界に復帰したのは、昭和二十八(一九五三)年の総選挙ですからね。要するに、非常に大きなことは、サンフランシスコでの講和条約によって日本が国際社会に復帰したことですよ。占領下から解放されて国家として独立したことによって、国民のなかにみずからの道を決め理想を立てていくべきだという自覚がようやく出てきたわけです。

p68―69
岸 別段新党に関しては、特別なんもないんですがね。ただ戦後の保守合同に関していえば、議会制民主政治を進めていくには二大政党制がどうしても必要だという考えがその基礎にあったんです。保守党も革新政党もその裾野は富士山のように大きく広がっていてだね、しかもその裾野がどこかで交わっているということが必要なんだ。保守党の一番左の考えは、革新政党の一番右の考え方よりも左に位置するというぐらいが丁度いいんです。思想的に交わるような政党が二つできると、議会制民主政治を行っていくうえで僕は非常に望ましい姿だと思っているんです。政権が変わっても社会的に激変が生ずることのないのがいいのであって、二つの政党間に大きな距離があって相交わっていない場合には、一方が勝って一方が負ければ、社会革命ということになりますよ。
 だから、相交わることができる政党を何とか作りたいというのが、僕の一貫した狙いであった。いまあなたがいわれたように、私が巣鴨を出て再建連盟をつくったとき、三輪寿壮、西尾末広(一八九一―一九八一)、河野密(一八九七―一九八一)、三宅正一、川俣清音といったかつての無産政党の連中にも新党構想で呼びかけたわけだ。そもそも再建連盟というものには自由党だけではなしに、改進党的な考えを持っている者も、社会党的な考えを持っている者も入れてですよ、国民運動をやって、そしてある程度の基礎ができた上で国会に出ていくつもりでおったんですよ。
p73
――真剣に社会党にお入りになろうとしたのは、どういう狙いだったんですか。
岸 社会党というものを保守党に交差させても良いし、ある意味における捕獲連合の正当をつくるその基礎もできるということだ。両方の正当が、先ほど一体歌ように、裾野が交わるということが必要なんです。僕なんかのように国粋主義者あるいは自由主義者であり、資本主義の考えを持っているものも社会党に入ったらいいんです。社会党内における差異右派としてですよ。保守党の方には、かつての護国同志会をつくったときのように、社会主義の西尾とか川上丈太郎さんなんかを入れたらいいんじゃないか、というような気持ちが私にはあったわけだ。

p74
――社会主義協会などに対しては、これを支持する大衆はちっとも増えませんね。
岸 政治の社会においてはね、共産党は別にしても、その他の政党においては、現実的に高い理念があるわけじゃないですよ。学問的な、基礎的な考え方ということになれば、違いはあるかもしれないけれどもね。生活の面においては、現実の問題においては、もう少し共通の点が多いと思うんですよ。そこのところにことさら目をつぶってだな、それをみまいとする傾向があると思うんです。しかしそうじゃなしに、現実というものにもう少し手を触れてみることが重要なんだ。この間、日韓協力委員会(一九六九年二月設立)の総会を開いたんですが、今まではこれに出かけてくるものは、ほとんど自民党の人たちだけだったんです。今度は民社党春日一幸君だとか、公明党(委員長)の竹入義勝君とか、それから新自由クラブ山口敏夫君などがきて、祝辞をのべて、この会に協力してくれるというんだ。
 こうなるとね、物事は非常に現実的になってくる。韓国人を好かないとか、あるいは向こうからすれば日本人に対してナニがあるかもしらんけども、韓国と日本が仲良くしていかなければならないということは当然なんだ。隣が嫌だから引っ越すというわけにもいかないんだからね。結局、お互いに仲良くしていく以外に方法がないと思うんですよ。現実の政治から見て、特に野党だから韓国と話をしないというようなことは間違っていると思うんですよ。

p82

私はこのとき緒方さんにいったんだ。緒方さんは私が尊敬している先輩なので、将来必ず一緒に仕事をしなければいかんと思っているが、現在の状況ではあなたと吉田さんとは一体だ。

p87―88
――この選挙では、いわゆる岸派の勢力は、相当伸びたんじゃないでしょうか。
岸 あの時はまだ岸派なんていう考えはなかったがねえ。
――そうですか。当時の新聞は選挙で岸派が三十人ぐらいになったというふうに書いていました。それから、旧改進党の芦田派とか大麻唯男さん(一八八九―一九五七。衆議院議員鳩山内閣国務大臣)のグループなどが岸さんに近づいてきたということで、後々の岸派の予備軍のような人たちがこの選挙で増えたように思いますが。
岸 まあねえ。僕は幹事長として、とにかく目標の保守大同合を完成するという一念に燃えていました。あの選挙の時点でホッとしたという状況ではなかった。したがって、岸派をどうする、こうするという考え方は当時なかったですね。岸派について考えるようになったのは、自分が鳩山さんの後、(自民党第二代)総裁選挙(一九五六年十二月)に臨むとか、自分が政権を握るとかという状況になってからですよ。

p91

緒方さんはこうもいっていた。ついてはその場合、今日の一番大事な問題は外交だ。自分が首相になったときの外務大臣のことをいろいろ考えているんだが、自分が岸君、君にやってもらうのが一番いいと思う、とね。緒方さんは自分が組閣にあたる場合には、外務大臣の岸にするつもりであったと思うんです。
p91
――岸さんはそのとき、緒方内閣になれば外相を引き受けてもよいとお考えになっていたんですか。
岸 そうです。私もこれを引き受けてもいいと思っていた。緒方さんには、「確かに外交が大事だ」という話をしたことを覚えています。

p95
――岸さん個人としては、この日ソ問題についてはどんなふうにお考えでしたか。
岸 私が日ソ交渉を成立させなきゃいかんと思った一番の理由は、日本が国際社会に復帰するということにあったんです。何としても国連に入らなければいかん、ということだ。日ソの国交がないあの状況ではソ連が日本の国連加盟を拒否権でもって邪魔をし阻止しているわけだから、日本はいつまでも国際社会の一員になれないんだ。日ソ交渉によって両国の戦争状態をなくして、ソ連が日本の国連加盟に拒否権を行使しないようにする必要がある。しかし、その時に分かっていたことは、ソ連がなかなか北方領土を返さないということだ。領土問題を将来の懸案にしておいて、第一歩としてはとにかく日本が国連に加盟して国際社会の一員になるということが重要だった。
――当時の自由党の吉田派といいますか、池田勇人さんたちのグループは日ソ交渉には強く反対しましたね。
岸 そりゃあ反対だった。
――吉田さんや池田さんたちは領土問題については絶対に譲れないということでした。それから、対米関係というものを非常に気にされておりましたね。
岸 そうでした。池田君も日ソ交渉には反対したけれども、吉田さんや池田君に近い小坂君あたりが特に強く反対していたんですよ。
――小坂善太郎さんですか。
岸 ああ、善太郎さんです。なにせ吉田さんと鳩山さんの関係は非常に悪かったからね。政策問題の前に、人間的、感情的に関係が悪かった。


p98
――吉田茂という人物は、一口でいえばどういう方なんですか。
岸 一面においては、皇室に対して「臣茂」なんていうぐらいに、陛下に対する臣下としての……したがって、物事の考え方は徹底している。人の好き嫌いがなかなか激しかったしね。河野一郎なんて言うのは大嫌いだった。それから政治的には吉田さん自身が駐英大使をやられていたためか、英米的な考え方ではあった。だから東条内閣の末期においては、戦争を早くやめなければいかんというので、いろいろな動きをしたために憲兵隊に捕まって監獄へ入れられた。人間としてはなかなかユーモアがあってねえ。

p100
――鳩山さんは総理大臣になってからは、お体が悪いということもあって、こんなことをいっては悪いけれども、いわば象徴的な趣があったんではないでしょうか。実際の舞台回しは岸さん、三木武吉さん、河野一郎さんといった面々がおやりになった……。
岸 やらざるを得なかった。それにしても、あの日ソ問題で一番苦労されたのは、僕は総務会長の石井(光次郎)さんだったと思うんだ。鳩山さんとは親戚だし、(石井・鳩山両家の共通の姻戚がブリヂストンタイヤの石橋家である)、しかし吉田さんとは非常に近い人だからね。吉田さんは日ソ交渉に反対であったし、鳩山さんはまた執念として日ソ国交を実現したいというわけだ。その間に立って、石井さんは総務会長として党内の取りまとめをする立場だったからね。ずいぶん苦労したと思う。
――そうですか。やはり石井さんは板挟みになった……。
岸 そうなんだ。私は幹事長であったわけだから、もちろん党内の調整にあたったんだが、私以上に苦労したのが石井君だ。吉田派の池田君や小坂善太郎君などとの関係は私より深いからね。彼らを少し押さえて下さいよ、ということを石井君に私自身頼んだ覚えはある。

p116
――岸さんは石橋内閣の外相に就任されて早々に(一九五六年十二月二十三日)記者会見をなさいますが、その時日本外交に関する「五つの原則」なるものを示されましたね。すなわち、「自由主義国としての立場の堅持」、「対米外交の強化」、「経済外交の推進」、「国内政治に根差す外交」、「貿易中心の対中国関係」というものでした。これは、後の岸政権の外交政策を知るうえで重要であったと思うんです。この後原則のうちの「対米外交の強化」は、(一九五七年)二月四日の衆議院本会議での外交演説で「日米関係の合理化」という言葉でいい直されております。このときすでに「安保改定」ということは、岸さんの中である種の位置を占めていたということでしょうか。
岸 その通りです。「日米関係の合理化」といったのは、旧安保条約の改定ということが頭にあったからです。旧安保なるものは、あまりにもアメリカに一方的に有利なものでした。というのは、日本が防衛に関して何ら努力をしないために、形式として連合軍の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領しているような状態である。そういう状態を続けていくのでは、日米関係が本当に合理的な基礎に立っているとはいえない。したがって、これをどうしても改めていく必要があったんです。日米関係を強化する意味での、本当の同盟関係を作り上げることが、(石橋内閣における)私の外相就任の第一義的な目的でした。他にテーマはいろいろあったがね。

p119
――先ほど、岸外交の「五つの原則」に触れましたが、そのうちの一つに「国内政治に根差す外交」というものがあります。これは、後に岸さんが展開する安保改定作業に絡めても、外交原則としては大変興味深いものだと思うのですが。
岸 従来外交というものは、何か特殊な政策のごとく考えられていたと思うんです。内政との関連、噛み合いというものが外交にはなかったわけです。だから、外交に当たるものは、何か国内政治における自分の地位とか力関係というものから離れて、外交というものを特別なものとする傾向があったんです。
――それではいけませんか
岸 それじゃいけない。本当に強力な政治を行おうとすれば、内政の上にその外交政策というものが置かれて、内政との関連において組み立てていくということが重要なんです。そうすることによって外交が十分に各方面に理解されるんです。
――具体的にはどういうことでしょうか。
岸 例えば、日米関係を重視するという外交政策は、日本国内の経済政策とか、あるいは日本の文化の面との絡みあい、関連を以て樹立されなければいかんのです。外交政策だけを切り離して考えるということは問題です。外交官というものは一種特殊な立場であって、専門的な傾向を持つのだけれど、それでは駄目なんです。国内における政治との噛み合い、国内的な根っこと絡み合わせて外交政策というものを立案し施行していかなければなければないというのが、私の考えです。
――「五つの原則」のなかに「経済外交の推進」という項目がありますが、これは当時のインドネシア、(南)ベトナムの賠償問題との絡みでもあったのですか。
岸 日本としては、軍事大国をいかなる意味においても目指すわけでもないし、政治的に開発途上国を支配していこうという考えでもないんです。純粋に経済的な立場に立って、そして日本の経済力拡大とともに、開発途上国の繁栄と経済発展のために協力すべきだという考え方なんです。

p127―128
――岸内閣実現にあたって、岸さんの最大の協力者であった河野さんが、「大野副総裁」、「河野幹事長」でもって党内の主導権を取り、内閣の方は岸総理、石井国務省に任せるという構想をもっていたというふうにいわれていますが。
岸 私としても、大体党の方は大野君と河野君に任せようと思っていたことは事実だ。もっとも、訪米後の人事(一九五七年)で河野君は閣内に入ったけれどね。ともかく自分としては、総理の仕事に専念しようと思ったからです。特に外交です。最近は年中行事みたいになってますが、総理が各国を歴訪して、日本の政策なり基本(姿勢)を話し合うことが重要だと思ったんです。当時は総理大臣が東南アジアだとかアメリカその他の国を歴訪することがなかなかなかったですからね。飛行機もいあのようにジェット機じゃなしに、プロペラ機の時代だから、外国を回るということはなかなかできない状態でした。私は日本が敗戦から立ち直っていろいろなものを肌で感じてくる必要があると思ったんです。

p132―133
――アメリカにいらっしゃる前に、東南アジア六カ国(ビルマ―現在のミャンマー―、インド、パキスタン、セイロン―現在のスリランカ―、タイ、台湾)を訪問されたのはなぜですか。
岸 私がアメリカに行くには、非常に準備したんですけども、現職の総理がアメリカへ行くその前に、東南アジアを回って、とにかく「アジアの日本」というものをバックにしたいという考えがあったんです。
――「東南アジア開発基金」構想(コロンボ計画加盟十八カ国に台湾を加えて基本構成メンバーとし、これらに長短期融資をするなどして自由主義陣営の強化を目的とする)と「アジア技術研修センター」設立の構想というものを、ご訪米前マッカーサー大使に打診しておられますね。結局これらの構想は、アメリカから色よい返答はなかったといわれておりますが、これもまた岸さんの「安保改定」と関係があるのですか。
岸 安保改定とは直接の関係はないが、訪米するについては、日本が「アジアの日本」であって、アジア諸国の開発と繁栄のために日本が経済外交を推進していくつもりであること、したがってアメリカがこれに協力してくれなければ困る、ということでした。
――そのための東南アジア訪問でもあったのですか。
岸 そうです。これらの地域を私は現実に回ってその実情を見ることと、そしてこれらの国々の首脳と会談しなければならないと思ったんです。「アジアの日本」、いわばアジアの発展のための指導役として日本の使命を尽くすという考え方で、これらの構想をアジアの首脳と話し合ってる程度これを握ってアメリカに行くという考え方でした。私のアメリカ外交においては、アジアの発展、安定が日本の発展と安全の基礎であるわけだから、それには、これらの地域を本当に日本が掴んでいかなければいかん、ということでした。
――東南アジア外交は、岸政権の政策としては一つの要石であったということですね。
岸 そうです。これらの国々から日本が信頼されなければならないという意味において、アメリカに行く前に東南アジアを回る、ということでした。時間の関係で全部を一度に渡ることはできなかったんだが、まずは半分だけ回ったんです。訪米から帰ってきて、秋にはまた東南アジア(南ベトナムカンボジアなど九カ国)に行ったんです。

p150―151
――藤山さんのどういうところを評価されて外相になさったのですか。
岸 日本は軍事大国ではないのだから、軍事力をもってこれを外交の基礎にするわけにはいかない。やはり経済を基礎にした経済外交というものを日本外交の根底にしなければならない。それには経済人としての藤山君を政界に引っぱり出したい。また日米関係からしても、藤山君は従来民間人としてアメリカとの関係も深い。さらに私と藤山君との従来の付き合いからいって、将来、総理総裁になるかならないかはいろんな関係で分からんけれども、自民党内における新しい人物として養成したいという気持ちも私のなかにはありました。新しい人物をつくり上げるという意味において、藤山君をただ外務大臣にするということじゃなしに、将来の自民党内における重要な政治家にしなければいかんという考えが根底にあったんです。

p158―161
――話は変わりますが、中国の問題についてお聞きします。総理の安保改定作業を鳥瞰しますと、当然といえば当然ですが、中国、ソ連による執拗なまでの「安保反対」論に注目せざるをえないのです。特に中国の岸首相に対する攻撃というのは、安保改定交渉が本決まりになる前からかなりはっきり出てまいります。例えば五十七年七月(二十五日)、周恩来首相の東南アジア訪問における岸・蒋介石台湾総統)会談を取り上げて、岸さんが対中敵視政策をとっていると厳しく非難しています。翌五八年二月には第四次貿易協定の再開交渉でいわゆる国旗掲揚問題(一九五七年一二月以来中断されていた第四次貿易協定交渉は翌五十八年二月で北京で開催され、三月五日調印された。しかしここに至るまでには日中両国は、駐日通商代表部の建物の中に中華人民共和国の国旗を掲揚する権利をめぐって対立し、結局「国旗掲揚」を主張する中国側の主張を日本が受け入れた)が起こります。また同年五月二日、すなわち、さきほど話題になりました「話し合い解散」に続く総選挙公示直後のことですが、いわゆる長崎国旗事件(五月二日長崎市のデパートで催された中国切手・切り紙展示会場で中国国旗を一青年が引きずりおろした事件。警察が犯人を簡単に取り調べて釈放したことについて中国は日本政府を激しく非難した)が起こります。そこでお尋ねですが、岸さんはそもそもこの頃の中国にどういうイメージをお持ちだったのですか。
岸 中国に対する私の基本的な考え方は、「政経分離」です。経済的な分野、例えば貿易関係は積み重ねてくけれども、政治的な関係は持たないというものでした。しかし、経済関係を重ねていくうちに世の中が変わってきて、政治的な関係が生まれてくるかもしれない。しかし、当時としては政経分離の形にしておこうというのが私の考えでした。
――こうした政策が相当中国の癇に触ったわけですよね。癇に触ったといえば、あの当時岸・蒋介石会談で蒋介石総統の大陸離反政策(中国共産党政府に反抗して、台湾の国民党政権を大陸に復帰させるための政策)を総理が支持されたというというようなことがいわれていましたが……。
岸 私は蒋介石さんには数回お目にかかっていろいろな話をしているんだが、その中で大陸反攻ということを企てても、軍事的にこれを実現することはほとんど不可能に近い、ということを彼には話しました。それよりは、この台湾で理想的な国家をつくって、大陸の大衆の生活と台湾における大衆の生活を比較して、台湾こそ王道楽土だというところを示せばよいのです。つまり蒋介石総統の政治が台湾の大衆に豊かな生活をもたらし、北京政府のやり方が国民大衆をいかにひどい目に遭わせているかということを示せばいいんです。彼我の差がはっきりすれば、蒋介石の政治が宣伝になって、大陸をさらに追い詰めていくだろうと、いうことを私は蒋介石にいったことがあるんです。
――蒋介石の反応はいかがでしたか。
岸 蒋介石は非常に不満の様子でした。つまり蒋介石は私の主張に対して、「君の言うことは非常に穏やかな方法だけれども、そうはいかんのだ」といって非常に反対の気持ちを露わにしていたことを覚えています。しかし、台湾が大陸に対して軍事的な反攻をするといっても、これは大変なことで実際にできるものではないですよ。大変な犠牲が出るんですから。
――当時の新聞報道などでは、岸総理は蒋介石の大陸反攻政策を支持したのではないかといわれていましたね。
岸 蒋介石としては確かに無理もないことなんです。自分が中国大陸を支配していたのに、そこを追い払われたんだからね(一九四九年十二月、毛沢東率いる共産党の内戦に敗れた蒋介石は、多数の官民の他におよそ「五十万人」に及んだといわれる軍隊とともに台湾に亡命した)。しかし、私が蒋介石の「大陸反攻」を支持したわけではない。支持したからといって、何になるわけでもないんだ。とにかく当時の周恩来首相などは岸が台湾と仲良くすることに対して、もう怪しからんというナニがあったわけです。だから中共におもねた人も日本にはおりましたよ。池田君はとうとう台湾には行かなかった。彼は何遍か台湾の上空は通っているんだが、実際には訪問しなかった。これがまた蒋介石としては非常に不満だったんだよ。
――池田内閣の時には台湾との間でいろいろぎくしゃくした問題がりましたね。
岸 そうです。プラント輸出の問題(一九六三年八月二十三日池田内閣は、倉敷レイヨン㈱のビニロンプラントの中国向け延払い輸出を承認)などがあったね。この問題で台湾が怒ってしまって、吉田さんが池田首相の親書を台湾に携行していったんです(一九六四年二月)。吉田さんとしては、可愛い池田を何とか助けてやろうというナニもあったんでしょう。

p184
――藤山訪米がいよいよ具体化しようとしていた五十八年七月中旬(十七日)のことですが、自民党総務会(河野一郎会長)では、それまで廃止されていた外交調査会の再発足が決まりまして、船田中さんが会長になります。また同じ日、政府与党連絡会議なるものが新設されます。これは総理のほかに、佐藤蔵相、池田国務省、三木経企庁長官、赤木官房長官、河野総務会長などが出席して(藤山外相は欠席)、今後外交の重要案件は外務省のみに任せずにこの政府与党連絡会議で話し合うことを決めましたね。つまり、外交問題に関しては外務大臣の責任とは別に、これら二つの機関の新設を機に、河野、佐藤、池田といった実力者の発言が急速かつ公然と重みを増すという状況になるわけです。したがって、安保改定の問題にしましても、実力者たちからの介入が、いわゆる岸・藤山外交に手枷足枷をはめていったようにも思うのですが。
岸 いや、足枷にはならなかった、ちっとも。党内をまとめていく上において、ある程度河野君の意見を聞かなければならないが、外交の基本に関して彼らの発言によって動揺するなどということはないですよ。われわれの考え方をスムーズに推進していくためには、言葉は悪いが、彼らに“餌”を与えたような格好なんです。彼らの発言権が大きくなって、我々の政策がそのために妨害されるというのではなしに、むしろその政策遂行において、党内をいわば手なずける必要があったんです。

p218-219
――石橋さんという方は、中国に関しては相当はっきりした意見をお持ちだったと思うのですが。
岸 あの当時、中国やソ連に対して日本は関係改善をしていかなければいかんということを主張した人では、石橋君、北村徳太郎(一八八六―一九六八。芦田内閣の大蔵大臣)のような人がいました。北村君はどっちかというとソ連の近かったけれどもね。私はいつまでも思ってることがあるんです。中国は台湾と中国本土に分かれているし、韓(朝鮮)半島は韓国と北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)に分かれておる。この分離の問題が日本と密接に関係しているわけだから、日本がこれら関係国と一切交渉しないというわけにはいかないんだ。大陸と台湾の対立、韓国と北朝鮮の対立についても、我々はゆとりをもってこれら四つの当事者と仲良くしていかなければならないんだが、そうかといって、一人の人間が中国本土にも行き台湾にも行き、韓国にも北朝鮮にもいってナニすることができるかというと、そうはいかない。
 だから、日本の政治家の間で北朝鮮、中国大陸、台湾、韓国とそれぞれパイプを持つグループができるのは、これはやむをえないと思うんですよ。また、そうであってもいいと思うんだ。そういう意味で石橋君が中国大陸に行くことも、別に私は反対というわけではなかった。ただ、いろいろな関係であまりに急激に日中関係を進めるようでは、日本全体としての政策の上から困る。だけれども、いまいうように、中国大陸とも仲のいい、信頼し合える政治家がおっていいし、北朝鮮、あるいは台湾とそういう関係の政治家がいてもいいんです。

p222―223
岸 賀屋さんは役人時代には私よりちょっと先輩であったけれども、二人とも革新官僚といわれていました。大蔵省では賀屋、青木和夫(一八八九―一九七七。東条内閣の大東亜相。戦後は参議院議員)、石渡荘太郎(一八九一―一九五〇。東条内閣および小磯内閣の蔵相)、農林省では井野碩哉だとか、商工省の私だとか、重要な者はその当時革新官僚といわれていたんだ。別に何か申合せて行動したというわけではありませんけれども、親しく知りあっていたのは事実です。賀屋君は広島の出身ということになってますが、本当の生まれは私と同じ山口県の熊毛郡で上関という島の宮司の息子ですよ。生まれるとすぐ、広島の賀屋家に引き取られたんです。私が満州を去る頃、先生は北支(一九三九―昭和十四―年、北支那開発株式会社総裁に就任)にいっておられた。それから東条内閣では大蔵大臣、私は商工大臣、さらには一緒に巣鴨に入ったというナニで、巣鴨を出てからも親しくしておったわけです。賀屋君は財政の専門家であるが、同時に教育、安全保障のような国の基本に関する事柄についても、私とほぼ意見を同じくしておった。安保改定についても賀屋君とはいろいろなことを相談しているし、党内調整において賀屋君の力を借りたことは事実だ。
――賀屋さんは、池田さんにも睨みをきかせていたのではありませんか。
岸 そうです。池田君と賀屋君は同じ広島の出身だからね。私が総理を辞めて池田内閣をつくることについても、賀屋君が非常に骨を折っている。
――岸さんが安保改定などで池田さんに働きかけようとする場合、賀屋さんは相当頼りになりましたか。
岸 それは頼りになった。あの二人は大蔵省の先輩、後輩の間柄でもあったからね。

p261
また外国の問題なんですが、日本の政情がいわゆる「中間報告」問題を巡っていろいろ揺れていたころ、隣の韓国でも四月二十六日、李承晩大統領(一八七五―一九六五。一九四八年大韓民国成立とともに大統領になる)がソウルにおける五十万人デモによって、ついに翌二十七日辞意を表明しました。李承晩政権の終幕でした(一九六〇年三月の大統領・副大統領選挙で李承晩政権が不当な選挙干渉を行い、これがきっかけになって暴動が続発し、四月二十七日辞意表明。五月二十九日アメリカに亡命した)。この巨大なデモは、折からの日本の反安保闘争にかなり大きな影響を与えたように思うのですが、総理はこのような状況をどう受け止められましたか。
岸 私は、日本の国内における安保反対運動は一部の勢力がつくっていたナニであって、決して国民的な反対運動じゃないと思っていたんです。しかし、李承晩を倒す運動は本当の国民運動として起こったものであって、ごく一部の意図をもっている人々の力だけでああしたことが起こるということはありえない。

p262―263
――話は少しずれますが、李承晩大統領とは当時あるいはそれ以前に何か接触はなかったんですか。
岸 それはなかった。しかし私の政権のときにね、矢次(一夫)君を私の特使として李承晩に会わせたことはあります(一九五八年五月)。国交正常化と漁業の問題で打診させるためでした。李承晩ライン(韓国が一九五二年一月、「海洋主権宣言」によって朝鮮半島周辺の公海上に一方的に引いた同国主権の線)で当時日本の漁民が拿捕されて、釜山に抑留されていたんです。私の地元の山口県とか九州には拿捕された者がたくさんおった。韓国に近いからね。山口県では漁民が非常にやかましく圧力をかけてくるもんだから、解決の糸口を掴もうという気持ちもあった。つまり日韓問題の妥結のきっかけをつかみ出そうというつもりで矢次君を派遣したんです。だから矢次君が李承晩と会ってきたけれでも、私は李承晩に会ってはいない。まあ李承晩自身とすれば、やっぱりなんでしょう。日本が朝鮮を併合したことに対する多年のナニがあったと思うんだ。韓国の独立を回復するために彼は苦労したわけだからね。天下を取ってから、相当排日的な政策を採ったというのも、やむを得なかったと思うんです。だけども、非常に独裁的なもんだから、韓国における民主主義は漸次失われていった。それであの革命が起こったということでしょうね。

p355
 ――大川周明の大アジア主義は、おそらく岸さんにおける戦後の政治活動の原点にもなっているのではございませんか。
岸 確かにそうです。私のアジア諸国に対する関心は、大川さんの(大)アジア主義と結びつきますよ。もちろん、私が戦前満州国に行ったこととも結びついてます。一貫しとるですよ。
――なるほど、満州国にいらっしゃったことと結びつく……。
岸 うん。根底においてはね。
――そうすると戦前と戦後の間には、岸さんにおいては断絶というものはないのですね。例えば戦後、アジア諸国に対する岸さんのアプローチと戦前のそれとの間には……。
岸 おそらく断絶はない。
――そうしますと、日本があくまでもアジアの中で指導国にならなければならないという考えになりますか。これはともすると、アジア諸国から反発を招きませんか。
岸 いやそれはね、指導国になるということは、我々の態度なり実際の行動次第だと思うんですよ。アジア諸国に対して脅威を与えないためには、これら諸国を威圧するような軍事力を日本はもたないということも必要でしょう。それから、我々の経済外交というものも、独善的な考え方に立つことのないようにするのは当然です。たとえば福田(赳夫)君が福田ドクトリン(一九七七年八月福田首相がマニラで発表した東南アジア外交三原則)で唱えたように、アジアにおける人材養成に日本が貢献するなどということは非常に重要です。
――具体的にいいますと……。
岸 たとえば戦前の日本が、その武士道的な態度でもってアジアの人々に感化を与えたことは、非常に大きな意味をもっていると思うんです。ごく小さな一つの例を挙げると、私は蒋介石に何度か会いましたが、彼は毎朝正座する習慣をもっているというんです。それは日本に留学したときに正座させられましてね。それ以来正座というものが自分の精神を統一し、肉体的にも非常に健康のもとになっているというんです。だから毎朝やるんだということをいっていました。まあ、こういうように日本に留学したり日本で生活した人々が、日本の生活様式に影響されて人物形成の上で大きな力となっているんです。将来外国で中心となるべき若い人々を日本で教育することはやはり必要ですよ。大アジア主義の考え方そのものではなくても、さらにもう一歩進んで、人間としてのあり方に感銘を与えるようなアジアの団結とか理想というものが実現されてしかるべきだと思うんです。やはり若い人たちの養成というものが一番必要なことじゃないかなあ。