幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

山田盟子という人について

私の書架には山田盟子の『占領軍慰安婦』(講談社文庫 1995)がある。
単行本は光人社から1992年8月から出された。

文庫版のうしろの「文庫化にあたって」において、気になる記述があった。

1963年6月、私は外政審議室からの訪問を受けた。政府のメンツを立てて、この方は二時間の対峙中、戦中慰安婦については軍関与の記録がないといい張った。(272)

この記述を見たとき、私は1993年の間違いなのではないかと思った。1991年12月の元慰安婦訴訟ののち、日本政府は慰安婦問題についての調査結果をはじめ、1993年8月に河野官房長官によって調査結果発表とそれにともなう談話を発表している。いわゆる河野談話である。日本政府の調査結果を担当したのは、内閣外政審議室であり、山田を訪問したのも外政審議室であった。つまり、外政審議室による調査中に山田の発言や著作が問題作として浮上し、直接の圧力をかけてきたのではないかと考えたからだ。
しかし、よく考えてみれば、日本政府は1992年1月の加藤紘一官房長官の談話(第一次加藤談話)において日本政府の関与を認めている。その点で1993年に上記の発言を外政審議室がするはずもない。やはり、1963年出来事という記述は納得できそうだ。

しかし、内閣官房外政審議室とは、中曾根政権期の1986年に内閣官房改組によって誕生した組織である。組織図は以下のとおり。

内閣総理大臣内閣官房長官内閣官房副長官ー外政審議室長

複雑化する国際情勢に伴って外務省単独では扱いきれない問題を官邸主導で対処するために設置された。いわゆる官邸外交の起点になった(高橋洋 2010: 120)。

山田の記述では1963年となっており、外政審議室の発足時期と大きくずれている。
こうしたことから考えれば、山田の記述が1993年の誤りである可能性が高い。また慰安婦問題の展開過程において、慰安婦と軍の関与の有無が論点になったのは、1990年6月6日の本岡昭次社会党議員と清水伝雄労働省職業安定局長との答弁「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話なども総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しまして出来かねると思っております。」からはじまるものであり、1963年にそうした話が出てくるとは考えにくい。
そう思ったので、やはり山田の記述は間違いである可能性が高い。

誰か知っている人いたら教えてください。ちなみに講談社には電話をかけて問い合わせるつもりです。