幸福なポジティヴィスト

考古学×メディア×戦争=戦争社会学(Sociology of Warfare)

日本軍「慰安婦」被害者の言説的構築とその表象——裴奉奇をめぐる新聞報道と川田文子の『世界』掲載論文をもとに

#『世界』研究

 日本軍「慰安婦」をめぐってはこれまで膨大な数の言説が蓄積されている。そうした言説において、戦地に連行され、性を蹂躙され、生命を奪われ、生き延びたとしても元の人生に戻ることもできない人生そのものを破壊された日本軍「慰安婦」制度のもっとも直接的な被害者である「慰安婦」たちは、どのように語られ、表象されていたのだろうか。
1991年12月の元「慰安婦」たちによる日本政府対する訴訟と翌92年1月の吉見義明による軍関与資料の発表以降、日本国内外の研究者や弁護士を中心としたさまざまな調査チームが、日本軍「慰安婦」制度の歴史的解明に乗り出した。その結果、慰安所は第1次上海事変以降、アジア太平洋戦争下で日本軍が侵略した広範な地域にまたがって設置されており、そこには日本や植民地出身の女性たちだけではなく、「現地調達」された女性たちが数多く「慰安婦」として働かされていたことが明らかになっていった。慰安所の設置と「慰安婦」とされた被害者の再発見が時間的、空間的に拡大していくなかで、『世界』においてはそうした再発見と同時進行で、それらの成果を掲載していくことになる。
 『世界』では、1992年2月号の川田文子「遺志は引き継がれた——元従軍慰安婦ポンギさんの生と死」において、初めて被害者の具体的な姿が語られた。執筆者の川田文子は、沖縄在住の元「慰安婦」裴奉奇への聞き取りを行い、その成果を1987年に『赤瓦の家』として筑摩書房から刊行していた。同論文は裴奉奇が1991年10月18日夕刻に亡くなったことを受け、その生まれから川田との出会い、その後の生活までを追った被害者のライフヒストリーである。
 まず驚かされるのは、「ポンギさんとの出会い」で語られる川田が裴奉奇を発見する過程である。川田が裴奉奇の存在を知ったのは、1975年10月22日付の高知新聞の「戦時中、沖縄に連行の韓国女性 30年ぶり『自由』を手に 不幸な過去を考慮 法務省特別在留を許可」と見出しをつけられた記事であった。同記事は共同通信が配信したもので、日本の新聞ではじめて「慰安婦」が扱われた記事とされている。90年代以降に「慰安婦」問題に関する報道が増加する以前に、日本では地方紙によって「慰安婦」の存在が報じられ、行政(法務省)もその存在を確認し、聞き取り調査まで行っていたのである。


那覇】太平洋戦争末期に、沖縄へ「慰安婦」として連行され、終戦後は不法在留者の形でヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手にした。当時は「日本人」でも、いまは外国人。旅券もビザもないため、強制送還の対象となるところだったが「不幸な過去」が考慮され、韓国政府の了承を得たうえ、法務省はこのほど特別在留許可を与えた。
(『高知新聞』1975年10月22日付)


同記事は、沖縄戦へ強制連行された朝鮮人の証言が初めて得られたという点に焦点を当てており、ニュース価値はその点に見いだされている。当時すでに戦時中に朝鮮半島や中国大陸の人々が労働力として強制連行されていたことが問題となっており、「慰安婦」も強制連行の事例として理解されていたのである。しかし、同記事にはすでに、「慰安婦」とされた被害者たちが、戦後に何らの補償もないまま「不法在留者」としてヒッソリと生きていたことが表象されていた。「日本人」として戦争に駆り出された植民地出身の人々に対し、戦後の日本は「外国人」として扱い、基本的な権利を認めてこなかった。戦中は「慰安婦」としてその身体を軍人の性のはけ口としておきながら、日本政府の無責任な都合で裴奉奇は「不法在留者」とされ、「強制送還」の対象とされたのである。しかし、同記事はそうした日本政府の無責任な対応を批判するものではなかった。むしろ、裴奉奇の身体に対する性暴力や故郷から遠い沖縄に連行された出来事を「不幸な過去」と片付け、強制送還と対象とされた窮状が、行政の「特別な配慮」によって解決されたと語る。このような言表の配分によって編制された言説は、日本政府によって「特別な配慮」を与えられ、この国に住むことを「特別に許可」された「不法在留者」として裴奉奇を構築する言説であった。
 このような当時のメディア言説によって裴奉奇を知ることになった川田だったが、取材を経た後に同論文において川田が表象する裴奉奇は、上記新聞とは異なる言表を配分しながら「日本の植民地支配によって人生の節目、節目で、個人の力では抗う術もないほどに決定的に生活の方途を規定されていた」被害者として構築されている。
 裴奉奇の第一の転機は家族の離散であるが、川田はそれを「植民地の貧困」と説明する。そして第二の転機が女紹介人に「いい儲け口がある」と誘われ、その後沖縄の慶良間諸島渡嘉敷島で「慰安婦」とされたことである。だが、川田が紙幅の大半を割いたのは、第三の転機に当たる敗戦後に米軍の石川収容所を出てから、「言葉分からず、知る人もなく、住むところも、金もなく、地元の人々でさえ比一日を過ごすことが困難な、焦土と化した沖縄で、一人生きていかねばらなかった」、「戦後」の裴奉奇の人生である。川田によれば裴奉奇は「だまされて連れてこられて、知らんくにに棄てられてるさね」と何度も口にしていたという。


従軍慰安婦として戦地に連行された女たちの悲惨は、性を蹂躙されたこと、そのことに他ならない。だが、ポンギさんに限らず、慰安婦とされた大多数の女たちが、その体験に起因する様々な不条理を追って、長い戦後を生きなければならなかった。そうした戦後を免れた女がいるとするなら、戦場で死んだ慰安婦だけだ。
(川田 1992: 248)


 このように川田は上記新聞記事が伝えた「ヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた」様子を具体的に語っていく。川田が初めて見た裴奉奇の住まいは「物置として母屋の脇につけ足された」と思われる窓一つない「小屋」であった。水道もガスもなく電気だけが通っている。飲料水は隣家から金を払い運んでくる。基本的なインフラも整備されていない「小屋」で人を避けて暮らしていている様子が語られる。人に見られたくないのは、周期的に襲われる猛烈な頭痛によって取り乱した姿を見た沖縄の子どもたちが、沖縄の方言で気がくるっている様を指す「フラー」と叫びながら、石や空き缶を投げつけてくるからだと裴奉奇は語っている。裴奉奇の足跡をたどりながら植民地下での貧しい暮らし、慰安婦として沖縄に連れてこられたこと、そして貧しい暮らし、治療不可能な猛烈な頭痛、気狂いと叫ばれ迫害される「長い戦後」が、川田によって丹念に語られる。川田は裴奉奇の人生を次のようにまとめている。


 晩年、ポンギさんの持病の頭痛の周期が次第に遠のき、安寧な日々を獲得し、安らかに永眠したことは大きな救いだ。
しかし、日本の植民地支配によって、ポンギさんの人生は朝鮮においても、沖縄においても、社会の最下層でいたぶられ続けた。その償いは何も受けずに死んだ。
 植民地朝鮮から戦地に連行された慰安婦は何人いたのか、そのうち何人が死に、何人が生き残ったのか、その数さえ戦後四六年を経た今日、明かにされていない。日本軍が侵略した中国大陸、東南アジア、太平洋上の小さな島々で、いまだ慰霊されることなく慰安婦の霊はさまよっている。生き残った女たちもまた、戦時以上に苦悶して戦後を過ごしてきているであろうことは想像にかたくない。
(川田 1992: 253)


 続いて、川田が同論文をここまで書いた1991年12月9日に、日本政府に対して戦後補償を求め提訴した元慰安婦の一人である金学順が、従軍慰安婦問題ウリヨソン・ネットワーク主催の「金学順(キム・ハクスン)さんの話を聞く集い」で、約450人もの聴衆を前にして証言したことに言及される。そこでは「日本政府は行ったことを認め、一言でも間違いだったといってほしい」という「被害認定」と「謝罪」を求める被害者の声が語られた。
 川田の論文は、裴奉奇の植民地下の極貧生活、だまされて性を蹂躙された「慰安婦」とされたこと、そして「戦後」はその償いをうけることなく余儀なくされた最下層の生活を表象していた。そして裴奉奇亡き後に、おなじくだまされて「慰安婦」とされた金学順の思いを朝鮮独特の「恨」という概念とともに連続した出来事として語る言表によって編制された言説は、日本軍「慰安婦」を植民地支配から戦中、そして「戦後」まで続く日本の加害責任を「告発」する被害者として構築していたのである。

参考文献
川田文子,1992,「遺志は引き継がれた——元従軍慰安婦ポンギさんの生と死」『世界』(564),246-253.
————,1987,『赤瓦の家』筑摩書房
水野孝昭,2019,「慰安婦報道の出発点——1991年8月に金学順が名乗り出るまで」『神田外語大学紀要』(31),241-269.
M・フーコー慎改康之訳,2012,『知の考古学』河出書房新社

山田盟子という人について

私の書架には山田盟子の『占領軍慰安婦』(講談社文庫 1995)がある。
単行本は光人社から1992年8月から出された。

文庫版のうしろの「文庫化にあたって」において、気になる記述があった。

1963年6月、私は外政審議室からの訪問を受けた。政府のメンツを立てて、この方は二時間の対峙中、戦中慰安婦については軍関与の記録がないといい張った。(272)

この記述を見たとき、私は1993年の間違いなのではないかと思った。1991年12月の元慰安婦訴訟ののち、日本政府は慰安婦問題についての調査結果をはじめ、1993年8月に河野官房長官によって調査結果発表とそれにともなう談話を発表している。いわゆる河野談話である。日本政府の調査結果を担当したのは、内閣外政審議室であり、山田を訪問したのも外政審議室であった。つまり、外政審議室による調査中に山田の発言や著作が問題作として浮上し、直接の圧力をかけてきたのではないかと考えたからだ。
しかし、よく考えてみれば、日本政府は1992年1月の加藤紘一官房長官の談話(第一次加藤談話)において日本政府の関与を認めている。その点で1993年に上記の発言を外政審議室がするはずもない。やはり、1963年出来事という記述は納得できそうだ。

しかし、内閣官房外政審議室とは、中曾根政権期の1986年に内閣官房改組によって誕生した組織である。組織図は以下のとおり。

内閣総理大臣内閣官房長官内閣官房副長官ー外政審議室長

複雑化する国際情勢に伴って外務省単独では扱いきれない問題を官邸主導で対処するために設置された。いわゆる官邸外交の起点になった(高橋洋 2010: 120)。

山田の記述では1963年となっており、外政審議室の発足時期と大きくずれている。
こうしたことから考えれば、山田の記述が1993年の誤りである可能性が高い。また慰安婦問題の展開過程において、慰安婦と軍の関与の有無が論点になったのは、1990年6月6日の本岡昭次社会党議員と清水伝雄労働省職業安定局長との答弁「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話なども総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しまして出来かねると思っております。」からはじまるものであり、1963年にそうした話が出てくるとは考えにくい。
そう思ったので、やはり山田の記述は間違いである可能性が高い。

誰か知っている人いたら教えてください。ちなみに講談社には電話をかけて問い合わせるつもりです。

『世界』研究#3 1994年(592-602)の『世界』

<プロジェクト1>「綜合雑誌『世界』における「慰安婦」問題の言説と表象——「八・一五」記憶のメディアは「慰安婦」問題をどのように報じたのか」(略称『世界』研究)
リサーチ・クエスチョンは準備中

『世界』研究#3 1994年(592-602)の『世界』

1994年1月(590)号

◆角田房子「日韓慶州会談に思う」(282-283)
・また彼は「戦後補償を見直す考えはない」と語って失望の声を向けられもしたが、私はこれをも“賢明”と受けとめた。一般に補償といえば慰安婦問題ばかりが語られるが、その他にも多くの国の人々が種々の理由で補償を要求している。首相はうかつに“補償”を口にすべきではないし、また他国への影響ばかりでなく、国内にも多くの困難がある。首相は数多い困難をたくみにかわしながら柔軟に泳ぎ、筋の通った要求には日本の誠意が伝わる方法で応じていただきたい。“侵略戦争一本槍”で押し通しては各所に摩擦が起こり、日本の反省を実質化する道をふさがれる怖れもある。

1994年2月(591)号

◆読者談話室
〇金炳洙「朝鮮文化財を返還せよ」
・その植民地政策において、欧州の帝国主義は(中略)「内鮮一体」というスローガンの下、韓国語を抹殺し、創氏改名を行い、徴用、徴兵し、女子挺身隊らを太平洋戦争の犠牲者にしたのであった。

〇徳嵩力
・細川内閣はこの際、出陣学徒たちの払った犠牲香具師は、また交戦国の幾千万の人々の苦痛や存在と憑依の関係にあったことに思いをいたし、支払いズム戦後補償約七千億の従来の法的立場は堅持しつつも、強く補償を求められている人道上の案件などについては、財政的痛みを伴っても誠意をもって対応して、アジア諸国の信頼関係を回復していただきたい。

日高六郎「平和意識と『平和』政策」(54-66)
・国会決議ができるかどうか。私は決して楽観しません。韓国での細川氏発言の「慰安婦」とか「強制連行」とかいう言葉を省略して紹介したような外務官僚的発想が根強いのです。

田中宏「日本は戦争責任にどう対してきたか」(122-132)
・東西対立が崩れる中、九十年代に入ると、日本の戦争についての戦後責任、戦後補償を追及する声が、アジア各地から、さらには欧米からも相次いでいる。「軍隊慰安婦」問題は象徴的なものの1つであり、その多くは朝鮮人であったようだが、台湾、中国、フィリピン、さらにはオランダ人の女性も含まれていた。
・日本と朝鮮(韓国)との関係
日本政府も、すでに解決済みとしつつも、サハリン残留韓国人問題についてとりあえず四億円を拠出し、今後も追加すべき施策を検討している。また在韓被爆者問題についても四十億円を拠出した。さらにその後判明した「軍隊慰安婦」について、“補償にかわる何らかの措置”を検討しているといわれるのも同様なものと考えられる。
・また、強制労働禁止条約(一九三〇)、醜業婦売買禁止条約(一九一〇)との関係も出てきそうである。国連人権委は日本の軍隊慰安婦、強制連行に強い関心を寄せている。慰安婦については、日本の陸刑法及び海軍刑法が一九四二年に強姦及び強姦致死傷罪を新設したところを見ると、当事者の目にも余るものがあったのである。

清水正義「戦後補償の国際比較」
・この日系人補償問題は(中略)それでも五十年以上前の政府による不当な会う会に対する謝罪と補償という決定は、今日の従軍慰安婦問題をはじめとする日本の戦後補償問題を考える場合には、極めて示唆的だ。

◆(協力)林博史「各国・地域の戦争被害についての解説 日本は何をしたか、何を訴えられているか」
〇高崎宗司 韓国・北朝鮮
・有無を言わさず連行したり、だまして連れ出したりして「軍慰安婦」にした人の数は、吉見義明によれば、十五万五〇〇〇人から二十万一〇〇〇人と推定される。(『従軍慰安婦資料集』大槻書店、一九九二年)。死亡率を軍人・軍属並みの約九・二%とすると、死亡者は1万四〇〇〇人から一万八〇〇〇人と推定される。大半が朝鮮人であったと思われる。
姫田光義 中国(台湾)
・第三期は一九四一年から四五年の日本の敗戦までである。この期間、台湾人の記録によれば犠牲者は約四百人となっている(史明『台湾人四百年史』ほか)。そのうちの多数が特高警察による尋問中の脂肪や獄死であることが目立つが、それよりもこの時期の特徴は、いうまでもなく日本の侵略戦争にかりたてられて犠牲となった軍人・軍属・軍夫や「従軍慰安婦」である。(中略)以上を単純に合計すると、台湾の犠牲者は七万八〇〇〇人におよぶ。しかしこの中には日本内地や朝鮮以上に厳しい警察権力の下で、虐待されて病死したり、健康を害して戦後に死亡したり、強制労働で日本に送りこまれて死亡した人々や「従軍慰安婦」などで死亡したものの数は入っていない(保坂治男『台湾的少年工——望郷のハンマー』)

台湾での賠償要求の今後 日本弁護士連合会が開いたシンポジウムによれば、今後は元軍人・軍属の私娼への補償だけではなく、「従軍慰安婦」、未払い給与、軍票、軍事郵便貯金、無記名国庫債券、戦時貯蓄債券、BC級戦犯などなどの問題が残されているといえる。
〇林博文 マレーシア・シンガポール
・日本軍はマレー作戦中から慰安所の設置をはじめ、一九四二年三月~四月には日本軍の駐屯地に慰安所が次々に開設されていった。一部は朝鮮から連行してきたが、多くはマラヤの中国系女性を集めて慰安婦にした。ほかにもマレー人、インド人、ジャワ人、ユーラシアン(欧亜混血)なども慰安婦にされた。
 元日本人娼婦(いわゆるからゆきさん)に慰安婦集めを委託したり、地元住民組織の幹部に強制して集めさせたりしたケースが報告されている。また最近、マレーシアの与党統一マレー人国民組織青年部などの調査により八枚の元慰安婦が確認され証言を始めた。彼女らの証言によると家にいたところを日本兵によって拉致され、強姦されたうえで慰安婦にされたことが分かり、こうした暴力的な方法がとられたことが分かってきている。
村井吉敬 インドネシア
・民間からの訴え これまでインドネシア側からの補償要求は元兵補から出されるだけである。しかし、膨大な数のロムーシャ、慰安婦たちからも補償請求の声があがってくる可能性がある。
九二年六月七日 インドネシアの新聞、雑誌で従軍慰安婦問題を大々的に報道、中部ジャワで慰安婦一人が名乗り出る。
九三年八月一三日 人権団体LBH(法律扶助協会)、慰安婦一〇六人が名乗り出ている。
・「現地自活」は慰安婦の駆り立てにも適用され、多数の女性が日本軍の慰安婦にさせられた。
・また、非常に多くのインドネシア女性が軍慰安婦にさせられている。ごくわずかの女性のみがのりをあげ始めているが、その全体像はまだ明らかになっていない。
〇中野聡 フィリピン
・交渉当初は十明損害が賠償請求総額の積算の基礎に含まれていたにもかかわらず、被災者・遺族に対する個人補償は行われなかった。このためフィリピンでは、従軍慰安婦問題と並んで残虐行為に対する個人補償請求の声があがっている。
・民間からの訴え
九三年四月・八月 従軍慰安婦訴訟——日本の裁判所に提訴された元慰安婦訴訟としては、韓国に続く提訴。フィリピン各地に設営された軍管理慰安所では、日本・朝鮮・台湾人とともに多くのフィリピン人女性が働かされたが、フィリピンの市民運動組織と日本人弁護団による現地調査の結果、強制連行・拘禁により慰安婦にされた事例が明らかになった。
〇吉沢南 ベトナム
「進駐」時準備された慰安所
小菅信子
・ちなみにインドネシア(オランダ領東インド)では、九万九八三〇(うち婦女子は約六万五七〇〇)のオランダ人民間人が日本軍に抑留され、うち一万二五四二が死亡した。未婚女性のなかには慰安婦として売春を強制された者もいた。

井出孫六「道徳的尊厳とは何か——日本国憲法を読むことの苦痛」
従軍慰安婦をはじめとして、人道にもとる数々の戦争犯罪が放置されえてきた現実が明るみに出てきたことを思うと、私は日本国憲法を読む事の苦痛を覚えずにはいられないのである。

◆荒井信一「戦争責任とは何か——迫られる二つの戦後処理」

◆戦争責任・謝罪の国会特別決議と戦後補償問題調査特別委員会の設置を求める要望書(衆参議長宛)
・(2)国会内或いは内閣直属の機関として、戦後補償問題調査特別委員会を設置し、侵略戦争によって近隣諸国民が被ったさまざまな被害——南京大虐殺、中国・朝鮮人強制連行、従軍慰安婦など——の実態と未処理の戦後補償問題について、現地及び国内において徹底して調査し、その結果を公表し、責任の所在を明確にすること。

1994年3月(592)号
1994年4月臨時増刊号(593)号 「キーワード 戦後日本政治50年」

佐々木隆爾「日韓条約
・正常化の要件としては、本来、1910年8月から36年間にわたった日本の朝鮮に対する植民地支配の責任と、第二次大戦の日本側の戦争責任のふたつの問題を生産するという課題があったはずであるが、条約のための交渉ではこれらが明確に決着させられず、そのため、今日なお戦時中の朝鮮人強制連行や従軍慰安婦に関する補償問題が法廷で争われているのである。

佐藤健生「戦後補償」
・最近のいわゆる「慰安婦」問題を頂点とする戦後補償をめぐる論議の中で、日本の人々の間で「今ごろなぜ」という素朴な疑問がしばしば発せられた。それは、これまで五十年近くも手付かずの状態で残されてきた先の戦争の後始末の存在自体に、五十年近くもの間、気づかずに、何もしないできた日本の人々の責任(「戦後責任」)が問われていることを示しているのである。

◆江橋崇「外国人参政権
・第一にこれは一種の戦後責任問題である(中略)例えば、従軍慰安婦問題を例にして考えてみよう。これについては、ごく最近まで、一部の歴史研究者や運動家が口にするだけであった。しかし、戦後責任の追及の最大の障がいであった東西冷戦構造がとめて、アメリカ、ロシア、ドイツなどでの現実的な対処が進んでみると、こと非現実的な問題として処理してきた日本の政治こそが、非現実的で、結局は、問題の現実性を認めて、実際に対処せざるを得ない現実であることが分かってきた。

1994年4月(594)号
◆伊藤孝司「韓国人元『従軍慰安婦』たちの焦り」
・日本軍によって性奴隷にされた、いわゆる「従軍慰安婦」と呼ばれている女性たち
・挺対協と遺族会の活動を批判する形で被害者自身の団体として立ち上げられた「現生存強制軍隊慰安婦被害者対策協議会」の会員四名による抗議。
・ところが「被害者対策協議会」は、このような「挺対協」の運動をことごとく否定する主張をしている。日本政府に対して、責任者処罰やこれ以上の真相究明を求めず、補償でなくても「慰労金」という形での支払いで良いとしているのだ。つまり、「挺対協」の運動や裁判の結果を待っていたら、自分たちは死んでしまうので、日本政府と妥協しててでも生きているうちにお金が欲しいというのである。名乗り出た「仲間」の被害者たちが次々と亡くなっていく中で、焦りを募らせた被害者たちは、孤立した中で「暴走」を始めたといえよう。

1994年5月(595)号
1994年6月(596)号
1994年7月(597)号

坂本義和「平和主義の逆説と構想」
・なぜ自衛隊ないし軍隊とは別な組織を私が主張するか。その理由は二つある。1つは、日本に特有の理由である。いうまでもなく、自衛隊の海外派兵については、憲法上の疑義がある半面、ここに述べたような別組織には、そうした問題はない。しかし私にとって最も重要な理由は、日本の憲法ではなく、特にアジアの人々に対する日本の戦争責任である。細川前首相は謝罪の言葉を述べたが、実際の補償がなされたわけではない。では補償をすればそれで終わるのか。いわゆる「従軍慰安婦」として犠牲になった人の声として、「私の求めているのは補償ではない。私の一生をかえしてほしいのだ」という言葉を耳にしたことがある。私はこの言葉の前に、たじろがざるをえなかった。日本の憲法をどう解釈し、護持し、あるいは改定するかは、日本国民が決めることができる。しかし、こうした声に対して、日本人は何ができるのか。私達が何をしようとも償いえない傷、しかもその傷を負った死者と生存者が無数にいるという動かしがたい現実を目にして、自衛隊の海外派兵を控えるのは、あまりに当然のことであろう。

1994年8月(598)号

◆松尾康憲「50年目の清算?——台湾住民への『確定債務』」
・日本と台湾の間に国交がないこともあって、戦後処理はまともに行われておらず、そのため台湾住民に、ツケが回された格好になっている。台湾の確定債務問題の今後の進展は、アジア各国で問い直されている従軍慰安婦軍票などをめぐる「民間補償」要求の動きにも、何らかの影響を与えそうだ。
〇台・朱鳳芝 慰安婦問題についても韓国とは(交渉)しているのに……。
〇台・呂秀蓮 慰安婦問題の解決につながらないのであれば、国連に提起することも……。
〇日・井上 慰安婦問題では韓国についてもまだ処理に至っていない。中国の圧力は考慮していない。過去にはあったが、いまは(圧力を)受けていない。
・議論からもうかがえるように、台湾在住の間には軍票、マルク債、従軍慰安婦問題などで日本の責任を問う声もあり、中華人民共和国との関係がらみで日本の姿勢への不満もある。

朴慶南「連載―20 キョンナムのおしゃべり箱 帯にまつわる哀しい話」
名護屋は秀吉軍の本営が置かれていた地でもある。女性たちはここで大きな建物の中に入れられ、男たちの慰みものとされた。「えっ、そんな昔から日本人は朝鮮女性を“従軍慰安婦”にしてたんですか!」永さんの話のこのくだりでは、思わず声を張り上げてしまった。

・戦後半世紀という歳月の経過は、戦争を生きた人たちにとって残された時間がますます少なくなってきている。(中略)中国残留婦人、従軍慰安婦、シベリア抑留者問題などについても同様だ。

1994年9月(599)号

◆西野瑠美子「七三一部隊——歴史は継承されないのか 元部隊員たちをたずねて」
・まんじゅ検査
七三一部隊第一部研究班のなかには、性病の研究にかかわっている班もあった。結核研究を主な任務とした二木班である。その班からの依頼で、彼は慰安婦の性病検診を行った際、梅毒の女性の血液を採取して部隊に持ち帰ったこともあった。「わしらは、慰安婦のまんじゅ検査のことを『防疫検査』と言っておりましたがね。検黴検査のことですわ。どこそこの何号慰安所へ行けというように指定される。わしらはたいした器具は使わなかった。四つん這いにさせて腰を上げさせて調べるんさ。多い日には、一日に一八〇人を検査したことがある。梅毒にかかっとる女のまんじゅは腫れておってな。いやぁ、一回ひどい目にあったことがある。調べておったら膿がパァーっと飛んできてな、わしの顔にかかって。わしらの目的は、感染しとる女の血液を採取して部隊に持ち帰ることだった。その女の名前を書いて持って帰った。部隊に帰ると何度も梅毒か調べた。一騎二期というようにな。だがわしは、「慰安婦」そのものを連れて行ったことはないでな」
◆坂本龍彦「祖国喪失——五十年目の夏」
ソ連軍兵士の笑い声も聞こえるトラックから暴行された日本人少女がほうり出され引かれるのを目撃した。私は助けることもできない。
◆富沢よし子「世界の潮 チマ・チョゴリを晴れやかに——日本社会の差別の土壌を掘りくずす」
・「慰安婦」研究者と共同で。
安江良介武者小路公秀「対談 朝鮮を見る眼と日本——金日成主席の死をどう受けとめたか」
・安江 これまで日本は、アメリカの冷戦政策の上にのっかってきただけで、主体的な朝鮮政策はもっていない。しかも、植民地支配の清算を済ませていない北朝鮮だけではなくて、すでに戦後処理をしたはずの韓国やインドネシアに値しても、ふぃりいんやタイ、ベトナムに対しても、そのすべてが米国の冷戦政策の要請に従って賠償を払っただけのことです。依然として慰安婦の問題などが噴き出てくるのは当たり前なのです。もうそろそろ日本はアジアに対して自前の責任を果たすべき時に来ているんじゃないでしょうか。
・武者小路 それからもう一つ、昨年六月のウィーン世界人権会議での従軍慰安婦問題についてのNGO活動で非常に印象的であったのは、人権の問題で北朝鮮と韓国が共同行動をとったということです。日本を相手にして共同行動が続くのは日本にとってはあまりいいことではナイナかもしれないので、過去の侵略の問題を手がかりにして、むしろ日本側も進んで真摯な態度で補償などを考える。そう言う中で朝・韓・日の共通の土壌をつくっていくべきです。

1994年10月(600)号

上野千鶴子「『進歩と開発』という名の暴力——『壁』のあとの出会い」
・沖縄では、第二次世界大戦の戦跡をたずね、基地買春や「従軍慰安婦」の問題を討議してもらった。
・▽「環境」
なぜ、いま「女性・環境・平和」か?この三題噺のなかには、どんなものでも入るように見える。各地で行われた講演、シンポジウムのたぐいも、被爆から湖汚染まで、レイプ・キャンプから「従軍慰安婦」まで、さらに不払い労働から「持続可能な社会」まで、ばらばらで思い付き的に見えるかもしれない。だが、この過程を通じて、参加者と企画者の双方に見えてきたのは、この三つのテーマをめぐる、驚くべき問題の構造的な同一性と一貫性だった。
・▽平和
第二に、戦争は女性に対する直接的な暴力の行使である。(中略)そしてその攻撃的な「男性性」の証明のために、女性は単に非戦闘員として殺されるだけではなく、性的な侵略の対象となる。彦坂諦は『男性神話』のなかで、「従軍慰安婦」を犯した旧日本軍兵士たちは、性欲からではなく、抑圧の移譲と攻撃性の連帯のために犠牲者を必要とした、と証言する。それは多くの強姦者たちが、性欲からそうするのではないことと符合した事実である。女性に対する戦争暴力の行使が、決して過去のものでないことを、旧ユーゴスラヴィアの内戦は、レイプ・キャンプというおぞましい姿で明らかにした。
・(難民センターさえも国籍と民族に分断されている状況を受けて、)この問題を「従軍慰安婦」問題や基地買春の問題とつなげたいと思ったのは、次に様な理由からである。第一に、戦争遂行に伴う性犯罪、性暴力は決して過去のものになっていないこと、特に「従軍慰安婦」の問題は被害者に何の公式謝罪も個人補償も成されていない点で、戦後五〇年を迎えようとする今日なお、現在進行形の問題である、という認識からである。第二に、強制によろうが金銭による誘導によろうが、「買春」が性犯罪であることに変わりはなく、女性の人権侵害の事実に違いはない。この立場を明らかにすることによって、外国人「従軍慰安婦」と、潜在しているであろう日本人「従軍慰安婦」との間の分断を越えたいと考えたからである。勇気をもって自ら名乗りを上げた韓国やフィリピンの被害者たちに対し、元日本人「従軍慰安婦」たちの沈黙は、それ自体が日本の抱えた巨大な家父長制の暗部である。そしてその問題をさらに今日もアジア各地で続く基地買春の問題につなげることで、女性に与えられた戦争暴力の被害を、国と国の家父長制相互の争いの道具にされることから救いたいと考えた。その背後には、フェミニズムナショナリズムによる回収からどう擁護するか、という巨大な問題が横たわっている。

1994年11月(601)号
1994年12月(602)号

朴慶南「連載—24 キョンナムのおしゃべり箱 時の流れに負けないで」
・つらい立場、思いをもつ人へ繋がっていく感受性を第一に大切にしたい。在日でただ一人、“従軍慰安婦”だったとして名乗り出た宋神道さんのお話を聞く機会があった。日本の軍人の暴行で片耳は聞こえず、創さんの背中には刀で切り付けられた傷跡まで残っているという。想像を絶する過酷な体験を強いられた宋さんは、しかし、日本兵の所業を詳しく知りたいと質問する人に、こうキッパリと言い放った。
「日本の兵隊サンだって可哀そうなもんさ。誰が好きで戦争をするってさ。父チャン母チャン、嫁さんや子ども、好きな人がみんないるんだよ。なのに別れさせられて、知らねえところ連れてこられんだから。国へみんな帰りたいさ。それなのに、殺したり殺されたりばっかりで、死ぬしかねえんだもの、頭もヘンになるさ。誰も死にてえやつなんか,いないべさ。俺と同じように兵隊も戦争の犠牲者だって。なんたって戦争がいちばんいけねえ。戦争をもう二度と起こさないということ、これだけでオレの気持ちいっぱいなんだ……」
LEMS ON THE WORLD「元『従軍慰安婦』たちの訴え」
・韓国の既存の組織を離れ、「被害者の会」を結成した。「被害者の会」の主な要求は、村山首相、河野外務大臣は被害者たちとの交渉に直ちに応じること。また、「補償に代わる措置」としての「平和友好交流計画」や、補償を民間からの「善意」の募金で賄おうとする「民間募金構想」の撤回、政府がすべての元「従軍慰安婦」たちと協議する場を設けること、そして、日本政府は一日も早く被害者たちに直接謝罪し、それに伴う補償をすること、など六項目にわたっている。
・朴壽南さんは、「『従軍慰安婦』は、戦場に連れて行かれた『公娼』ではなく、国家による組織的な性暴力の被害者です。日本政府はあの戦争が侵略戦争であった事を認め、謝罪をして彼女らの名誉を回復するとともに、民間の募金などではなく、国家として彼女たちへの個人補償をするべきです」という。
◆世界に見える日本の姿 白楽晴「相互問題としての日本と朝鮮」
・日本の植民地主義のもとで朝鮮人が苦しんできた悪業に関して不満を述べることが、本稿の主題ではない。日本の侵略戦争中、強制的に募集され日本兵の性奴隷にされた“慰安婦”に関して細菌暴露された問題が私たちに再び切実に思い起こさせたように、日本への不満は真実であり、日本の罪は計り知れないほど大きい。しかしそのような過ちに関する重要な問題は、日本人が自分たち地震の歴史について、そして日本がその責任を取るうえで率直かつ首尾一貫した政府をもつべき必要性について、国民を教育するために、それらの過ちを素材として利用すべきだということである。

『世界』研究#2 1995年(603-616号)の『世界』

<プロジェクト1>「綜合雑誌『世界』における「慰安婦」問題の言説と表象——「八・一五」記憶のメディアは「慰安婦」問題をどのように報じたのか」(略称『世界』研究)
リサーチ・クエスチョンは準備中

『世界』研究#2 1995年(603-616号)の『世界』

1995年1月(603)号

◆岩垂弘「世界の潮 援護法案と『国家補償』」
・日本は95年に「戦後50年」を迎える。そうした一つの区切りを目指すかのように、九十年代に入ってから、日本の旧植民地だった国や地域の人々や、太平洋戦争中に日本の占領下にあった国の人々から、日本政府に対し戦争被害の個人補償を求める訴えが噴出している。韓国やフィリピンの元従軍慰安婦らが日本政府を相手取って起こしている提訴はその代表的なものだ。いわゆる戦後補償問題の浮上である。
◆カリナ・C・ダヴィッド「世界に見える日本の姿2 日本はモデルか反面教師か」
〇ジャパゆきさんとフィリピン花嫁
第二次大戦中、日本兵に使われた従軍慰安婦の苦しい体験は、決して過去のものではない。夥しい数のジャパゆきさんが増える一方のフィリピン花嫁は、日比関係の本質が少しも変わっていないしるしである。唯一変わったのは、こうした現実を生みだす基盤だろう。過去においてはむき出しの軍事力であった。今日では純然たる経済力である。しかし日本の男性の欲望を満たすために、いかに人間性を奪うやり方であっても他者を利用するという点では、何ら変わっていない。

1995年2月(605)号「特集 アジアの百年と日本」
1995年3月(606)号 「特集 アジアからの視線」

◆「巻頭言 個人の戦争責任」
・責任を負うべき主体を、抽象的な「日本」や、さらに「日本民族」の罪であるとして、「私たちは戦争の被害者であると同時に、加害者であったことを忘れてはならない」などということは、真の責任をあいまいにし、かつての「一億総懺悔」的なごまかしに通ずる危険性がある。
・戦争責任は国家の責任と個々の不法行為犯罪行為がある。
・謝罪するより困難だがそれがなければ歴史の教訓は生まれない。

内海愛子・高木健一・田中宏・新見隆・宮田節子・和田春樹,「〈提言〉戦争・植民地支配反省の国会決議を」(160-167)
・1990年代にはいって、日本の戦争責任を問い、個人補償を要求する声が高まった。そのなかで、1991年春東南アジアを訪問した海部首相は、5月3日シンガポールで、次のように表明した。そしてついに、従軍慰安婦であった犠牲者たちが声をあげるにいたり、日本政府も問題調査に乗り出すことになった。
次の9点を戦後50年国会決議の内容に盛り込むべきと考える。
1 かくも反省が遅くなったことに対する遺憾の意
2 朝鮮植民地支配に対する反省
3 中国への侵略的戦争に対する反省
4 太平洋戦争への反省
これは、アジア太平洋地域でなされた殺害、略奪、破壊、この戦争への朝鮮人・台湾人等を動員して与えた肉体的、精神的苦痛、なかんずく「従軍慰安婦」とされた女性たちの人間的尊厳の侵害に対する反省を内容とする。

以下略

田中宏「これでは、戦後50年の区切りはつかない——戦後補償問題の検証」(168-175)
・日本の「軍隊慰安婦」については、それが戦争放棄違反に当たるとする「従軍慰安婦に関する報告」を先日国際法律家委(ICJ)日本政府は被害者のリハビリテーションのため暫定的な措置として4万米ドル支払うべきと勧告。

1995年4月(607)号 「特集 『公共性』が問われている——震災復興と規制緩和

細谷千博井出孫六「特別対談 戦争を記憶するということ歴史を記憶するということ」(p.22-37)
・細谷 戦後50年を迎えて海外のマスコミは日本政府の動きを非常に注目しています。そんな中で一方において日本政府は慰安婦、その他戦後処理の問題についてはキチンと清算しようとしない。金銭的な補償の面でも具体的な施策はなかなか示されない。片や平和記念館をつくる。それでは日本の国際的な立場が悪くなる。そういうことを心配した。
細谷 日本は朝鮮、台湾の植民地には戦時中強制連行などいろいろとひどいことをした。それに対して日本政府は国交正常化の際に賠償に代わる経済協力を約束し、その点で法律的には片がついているのですが、法律で話に気持ちの上で清算がついていない。
井出 戦後処理の問題でいえばその方法と内容に問題がないといえないが一応形をして関係は修復してきた。冷戦の解体、そして戦後50年という節目に当たって、これまでなおざりにしてきている国家補償をきちんとしてモノにすると同時に謝罪と反省の国会決議をぜひとも実現すべき。
細谷 歴史に対する共通の理解を

◆R・P・ドーア佐藤信行訳「もうひとつの日本との対話 不服の諸相PARTⅡ 在日韓国・朝鮮人問題の現在 第二回」(257―269)
ドーア その後の展開とは?
佐藤 1つは戦後補償問題が大きくなりました。従軍慰安婦の問題が一番象徴的ですが、そのほかに強制連行されて強制労働をさせられた人たちの問題が、ここ2,3年のあいだに大きくクローズアップされました。
佐藤 今日本には戦争犠牲者援護法として15の法律がありますが、原爆被害者援護法を除いて国籍条項によって在日韓国朝鮮人は排除されています。これは差別といえます。日本の歴史責任を問う革新的課題となっている。

1995年5月(608)号 「特集 歴史の真実とは何か」

日垣隆・田中伸尚「対談 『歴史』と『神話』の間」(155-169)
・戦後50年を契機として、私たち自身の歴史観が問われる場面が多くなってきた。不戦決議や英霊への感謝決議、戦後補償をめぐる様々な裁判と従軍慰安婦の方々への補償のあり方、スミソニアンの原爆展、
歴史観が共通していなかったこと。

◆石坂浩一「〈不戦決議〉とは何か」(181-186)
・93年に誕生した細川政権は、11月6日、韓国での金泳三大統領との会談において、日本語の強制使用、創氏改名慰安婦、強制連行など具体的に列挙し「我が国の植民地支配によって、耐え難い苦しみと悲しみを経験されたことについて、加害者として心から反省し、深く陳謝したい」と表明した。

◆吉田裕「連載 日本人の戦争観——戦後史のなかで」「最終回 歴史からの逃避——現在そして未来」
・政治主義的で現実的な戦争観が主流の位置を占めつつあるということである。(中略)あるいはアジア諸国からの補償要求は拒否しつつ、元従軍慰安婦に対する見舞金構想のように、何らかの政策的措置を講じようとするような立場がそれである。
・「提督の決断」には、「強制労働」を実行すると「基地の耐久度」などが上がり、「慰労」を選ぶと、水兵が女性の肩を抱いて消え、その後、兵士の元気が回復するといった、あたかも強制連行や従軍慰安婦を思わせるような場面が登場する。

1995年7月(607)号 「特集 カルト社会と『自我』」

袖井林二郎「『愛国主義者』と歴史——不戦決議の命運と米上院公聴会
・決議は、反対者のいう「歴史の断罪」どころか、日本の良心と品位を世界に示す、絶好の——これを逃せば当分あり得ない——機会なのである。
・スイーニー証言は日本人の歴史健忘症と自己正当化を指摘する。
「戦いに敗れて五〇年、いまや日本の政府関係者は、無分別にも日本は犠牲者だといいはるのだ。日本には自分の国が第二次大戦中に何をしたのかをよく知らぬ世代が育っている。そのために彼らは謝罪すべきだということを理解できない——韓国の従軍慰安婦に、ナチスと同じほど恐ろしい生体実験をされた連合国の捕虜に、アメリカに対する細菌兵器の計画に対して、〔中国、フィリピンにおける〕一般市民の計画的な虐殺に対して、その他の多くの犠牲者に対して……。」

1995年8月(609)号

星浩小選挙区制への恐怖が縛った『戦後補償』」
・戦後50年プロジェクト社会党原案
「20世紀前半の我が国の行為は、近隣アジア諸国民をはじめ、多くの国の人々に筆舌に尽くしがたい苦痛と悲しみを与えた。(中略)強制的に労役に駆り出された人々、従軍慰安婦とされた女性たちは、いまなお肉体的に、精神的に耐えがたい苦痛を余儀なくされている。このようなわが国の過去の行為について、深く反省し、おわびする我が国の過去の行為やアジア太平洋戦争によって尊い生命を奪われた内外のすべての犠牲者に心から哀悼の誠をささげる。」
自民党さきがけ案には従軍慰安婦なし。
社会党修正案からは強制的に駆り出された人々と従軍慰安婦が消える。さらに侵略戦争を侵略行為とし、植民地支配は譲らなかった。

三木睦子,(聞き手)山口昭男「インタビュー わたしはなぜ『民間基金』の呼びかけ人を引き受けたか」
・被害者の方たちにとってみれば、単なるお金の問題ではなくて、尊厳の問題なのです。ですから、日本政府が国家の責任を認め、誠意をもって謝罪することが、本来の出発点だと思うのですが。
三木 戦後の補償は済んでいない。どんな困難があっても、日本がこれから世界と強調することはできない。

◆「戦後補償の早急な実行を政府に要望する」
・その中でも、日本国家の行為によって、人間の尊厳を踏みにじった奴隷的な扱いを受け、耐え難い苦痛を強いられた従軍慰安婦と強制連行労働者に対して、国家補償を行うのは当然のことです。
・今回政府が発表した「女性のためのアジア平和友好基金」のように、本来国家が行うべき補償を民間募金に肩代わりさせるといった、筋をたがえた方式では、問題の解決にはなりません。

1995年8月臨時増刊号(608) 「日韓シンポジウム 敗戦50年と解放50年」
1995年9月(610)号「特集 被爆50年特別企画」

◆米谷ふみ子「過去を忘れる者は過ちを繰り返す」
・過去において日本の軍部が満州で人体実験をしたり、南京江虐殺をしたり、中国人を毒ガスで殺したり、多くの他国の女性に、一時に一人で何十人もの兵隊に性的奴隷にを強制するという残虐行為をしたことを、どうして国民を代表して謝れないのだろうか?今からでも遅くない。
・案外、南京大虐殺で著しい数の中国人を殺したことを、また、数え切れないほどの慰安婦のこともよく知っている。
・むしろ戦中に軍部と組んで殺人器を製造していた、、、に南京大虐殺の、そして韓国初め他国からの従軍慰安婦としての犠牲者に賠償金を払わす。そうすれば将来同じ過ちを繰り返さない。

◆グラビア「五〇年の貌」
・植民地だった朝鮮半島の多くの女性たちが日本軍の慰めの道具にさせられ、夢も希望も無残に摘み取られた。もはや、白髪の年。人生のやり直しはきかない。沈美子さんは小学校五年生の時、日本地図に朝顔を刺しゅうした。それを憲兵が、「朝顔の朝は朝鮮の朝だ。お前は日本を冒涜した」と怒った。少女は暴行されて気絶し、気が付くと、韓国から福岡の部隊に連れてこられていた。「私たちは民族ごと、あなたたちのお祖母さん、お母さんの代わりをさせられたのです」
・けれど、従軍慰安婦などの恥の事実を隠したままの発展だった。アジアへの誠意ある戦争責任を取ってこそ、本当の国際化となるのではないないだろうか。
・2発の原爆と大空襲で、日本列島は焼け野原になり、そこからの回復力の強さを、私たちは自画自賛してきた。けれど、従軍慰安婦などの恥の事実を隠したままの発展だった。アジアへの誠意ある戦争帰任を取ってこそ、本当の国際化となるのではないだろうか。

大石芳野「被害の貌、加害の貌——グラビアによせて」
・平和の礎には二十三万余人の死者の名前が刻銘されている。(中略)実際には、朝鮮半島からの強制連行は三十万を超えており、そのうち沖縄には一万人はいた。さらに、従軍慰安婦は沖縄だけでも、一千人は下らないといわれる。このうちの何人が、当時、本名を登録されただろう。通名で記録された人さえもごくわずかしかいない。こうした刻銘されない大勢の死者たちの思いが、黒い意志時の空白に漂っている。沖縄戦の最中、コーリアンにあったという人は何人もいる。(中略)また、玉木登美子さんは大勢の指揮官クラスが慰安所の前に列をなしているのを、ごく日常的にみていた。「級が下の兵隊はダメだったの。若い女性ばかり、気の毒でした。驚くほどの美人もいましたね」女性たちの傷は、誰にもいやせないほど深い。それにもかかわらず、「民間人が勝手に営利目的にしたもので、軍は関与していない」と、日本政府は主張し続けてきた。国家の及び腰の態度に追従するように、私達もまた誠意を失い、彼女たちの気持ちのどこかで蔑ろにしてはこなかっただろうか。ひとりひとりが受けた屈辱の一端でも、同じ女性として、または母や妻、娘だったらと考えて、共有しようとした気持ちがあったなら、お互いのこの半世紀の歴史はもっと改善されていただろう。歴史的な事実から逃げても、その事実は決して消されはしない。真正面から立ち向かうしかないのだが、私たちはずっとそれを拒んできた。

戸塚悦朗「国連の『従軍慰安婦』問題へのとりくみ——戦争犯罪=人道に対する罪の立場から」

◆藍谷邦雄「国際法が問う日本の戦争責任」
◆「国際化する「従軍慰安婦」問題——NGOからの声」

1995年10月(614)号 「特集 阪神復興と人権」

坂本義和核廃絶への二つの道」
・「唯一の被爆国」という、被害者としての講義の発言は明確だが、加害者としての謝罪の発言は、きわめて不明確で無内容だったのである。そのことは、元従軍慰安婦や強制連行労働者に対する国家補償の問題についての、政府の態度にも示されている。元従軍慰安婦にかんする「女性のためのアジア平和国民基金」も、民間基金を補償に充てるという発想であって、国家補償はしないという立場は変わらないし変えられないという前提で発足している。

川村湊山室信一「〈アジア〉の自画像をいかに描くか」
・川村 戦争が被害と加害という面でしか語られないと、そこからこぼれ落ちてしまうものがたくさん出てくる。文学者の場合でも、田村泰次郎火野葦平にあっては、被害—加害という形の表面的な反省はない。むしろない人間の方がきちんと戦争のことを書いている面もあるわけです。田村泰次郎などは『肉体の門』を書き、『春婦伝』や『蝗』のような朝鮮人従軍慰安婦の姿を生き生きと描いた、一種の反戦小説と読めるようなものを書いてしまう。

1995年11月(615)号「戦後思想と批判精神」

横田一「地方議会『不戦決議』逆流の構図」
〇地方議会の不戦決議
宮城県塩釜市では、1995年3月13日に全会一致で「不戦決議」が採択された。
「今日、真摯に自らの侵略戦争の歴史を厳しく見つめ、無謀な戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを憶い、このことを次世代に語り継がなければならない」
「今、国のなすべきことは、我が国の戦争責任を明確にし、国内外の戦争被害者に謝罪と補償を実行することである」
⇔市民や遺族会、右翼の反発によって、3月29日「不戦決議」は撤回され、あらたに「戦没者への追悼および感謝と恒久平和に関する決議」が賛成多数で可決された。そこには「侵略戦争」や「反省」の文言は消えていた。
「本会議は、戦後五十周年という歴史的事実に鑑み、我が国の国難に直面し、祖国の安泰と平和を守るため尊い命を捧げられ、今日の平和と繁栄の礎を築かれた三百余万の戦没者に対し、心から追悼と感謝の意を表する」

・東京都清瀬市では、1995年3月27日に「『不戦の誓い』に関する決議」(3月決議)が採択された。
「アジア、太平洋地域で、日本軍による殺害、略奪、破壊と、戦争に動員された朝鮮人、台湾人が被った肉体的、精神的苦痛、なかでも『従軍慰安婦』とされた女性たちが受けた人間的尊厳への侵害などを内容とする太平洋戦争への反省と謝罪をする」という市民からの意見書をもとに、
「2000万人以上ものアジアの人々の尊い命を奪い、日本国民にも多大な犠牲をもたらしたこれらの戦争は、絶対主義的天皇制の下で引き起こされた侵略戦争にほかならない。政府は速やかにこれらの戦争が侵略的意図のもとに引き起された侵略戦争であることを認め、従軍慰安婦など絶対主義的天皇制の植民地主義のもとで迫害され、様々な被害にあわれた方々に、国として責任を果たすべきである」
遺族会や右翼の反発により、三月決議の見直しが陳情され、1995年6月27日には「恒久平和の創造と不戦の誓いに関する決議」(6月決議)があらたに採択された。
「当時、日本は、アジア太平洋地域で侵略戦争を遂行し、植民地支配を行い、アジアの人々の尊い生命を奪い、日本国民にも多大な犠牲をもたらしてきた。これらの事実を想起し、戦争の犠牲者への心から哀悼の意を表明するとともに、関係職への深い反省と真摯な謝罪をし、日本国憲法恒久平和の原則を守り戦争を二度と繰り返さない不戦の決議をあきらかにする」
→絶対主義的天皇従軍慰安婦、国家の責任の文言が削除された。

〇著者の分析
・「戦争を被害者の視点からとらえ、死を崇高な行為として捉えるものだ。しかし、そこからはアジアの犠牲者への思い、加害者の視点が抜け落ちている。ここが当初の不戦決議尊重を求めた人たちとの決定的な違いである。“決議尊重派”は、加害の視点からも戦争を捉え、謝罪と補償を盛り込んだ文言を高く評価、その尊重を訴えたのである」(270)

◆山口泉、連載第1回「虹の野帖——誰が「戦後」を生きたというのか」(p.153-163)
・「戦後」は日本人が手に入れたものではなかった。むしろ「戦後」を遅らせようとしてきた。
・「戦後」は「戦争の時代以後の時代」ではなかった。巧妙で重層的に構築しなおされた戦争状態の普段の継続と拡散の時代であった。
・「戦後」において日本と日本人は「世界戦争」に関与し続けた。
→平然と「戦後五十年」の「平和」を語ることなど、さらには“戦後民主主義”を語ることなど、現代史に対する最大級の偽証である。
・“戦後を語る資格”を何の根拠もないまま自らに無造作に付与している者たちであふれている。
「アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視しなければ、核兵器廃絶の訴えは世界に届かない」という長崎の平和宣言のような「戦後功利民主主義」は永久平和の幻想を信じる戦後日本に似つかわしい。他と置き換えることのできない絶対的な事柄取引されている。
・広島と長崎の市民団体によって、韓国で初めて「原爆写真展」が日本の侵略責任も確認する形で開催された。
来場者のなかには、韓国で最初に日本軍の従軍慰安婦だったと名乗り出た金学順もいた。パネル展の貧弱さは「日本人がアジア諸国被爆を訴えるためのアリバイ作り」が強調される。本島市長が日帝侵略史を語る時、当時の日本軍属が“慰安婦を狩り集めた”模様について、本に書かれていることを語り続ける。しかし金の表情は変わらない。そこには絶対的に取り換えのきかない意思表示が見える。「私たちが求めているのはお金ではない」という言葉の痛みと誇りとに満ちた意味を、いまだ真に理解しえない国の徳性の問題である。

◆編集部「『新東亜』『『世界』』共同企画・日韓知識人往復書簡 日本軍「慰安婦」問題をどう考えるか」

1995年12月(616)号 特集「沖縄が告発する『安保再定義』」

◆読者談話室
服部素「終われない」戦後をドウスルノカ
従軍慰安婦問題は終われない戦後の象徴的課題。
・国家補償を避けて国民基金にすり替えようとしている。
基金派の人々による「募金」の拒否は償いの拒否という脅し。
基金派を国の加担者と位置づけ、挺対協派を歴史に真っ向から立ち向かい、禍根を根源から取り除く方向とし、これに加担する。国家補償を勝ち取る努力をしたい。

『世界』研究#1 1991年9月(558)号「特集 歴史の前の責任」

<プロジェクト1>「綜合雑誌『世界』における「慰安婦」問題の言説と表象——「八・一五」記憶のメディアは「慰安婦」問題をどのように報じたのか」(略称『世界』研究)
リサーチ・クエスチョンは準備中

『世界』研究#1 1991年9月(558)号「特集 歴史の前の責任」


「編集後記」p.400
・昨年8月号で「歴史を逆転させることはできない。しかし、歴史に対して誠意を示すことはできる」と「戦後責任」を特集した。
・海部首相は1991年5月3日のシンガポールでの演説において「多くのアジア・太平洋地域の人々に、耐え難い苦しみと悲しみをもたらした我が国の行為を厳しく反省する」と語った。にもかかわらず、戦争責任と謝罪と清算の具体的提言は全く進んでいない。
・多くのアジア人労働者の犠牲の上に建設された四一五キロにおよぶ泰緬鉄道工事をはじめ、花岡事件、香港軍票の補償要求、朝鮮人強制連行名簿調査、朝鮮人従軍慰安婦問題など、歴史の闇に消えようとする問題を中心に特集を編んだ。
・依然として戦争責任は未決であり、それが今の日本および日本人の歴史認識に深くかかわっていることを示している。
・ドイツは、ユダヤ人やイスラエルへの国家補償のほか、企業も戦後、強制労働者への補償を行っている。アメリカやカナダは第二次大戦中の日系人の収容問題に、公式の謝罪と補償措置をとっている。
・アジアの側から提起された「歴史の清算」に私たち日本人が正対し、いかに過去の克服を行うか——日本人にとって歴史の見直しとは、どれだけ日本が自己変革能力をもてるかにかかっている。

ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』

<書誌情報>
Paul E. Willis, 1977, Learning to Labour: How Working Class Kids Get Working Class Jobs, London: Saxon House.(=1985(1996),熊沢誠山田潤訳,『ハマータウンの野郎ども』筑摩書房.)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)


目次

イギリスの中等教育制度(訳者)

序章 「落ちこぼれ」の文化

第一部 生活誌
第一章 対抗文化の諸相
第二章 対抗文化の重層構造
第三章 教室から工場へ

第二部 分析
第四章 洞察の光
第五章 制約の影
第六章 イデオロギーの役割
第七章 文化と再生産の理論のために
第八章 月曜の朝の憂鬱と希望

訳者あとがき
文庫版訳者あとがき
解説(乾彰夫)


序章 「落ちこぼれ」の文化
中産階級の子どもたち、そして労働者階級の子どもたちは、それぞれ自分の属する階級の職務に就くことになる。なぜ自ら進んで階級を再生産するのだろうか。「落ちこぼれ」た労働者階級の子どもたちは、中産階級の劣等性や労働者階級の優等生が残した劣位の職務を、仕方なく選んでいるのではない。「落ちこぼれる」労働者階級の文化は、「ある特定の状況に拘束されながらも、それ独自の運動様式と固有の概念をもち、立身出世して行く人々のことについてもそれ自身の説明原理をそなえている」(15)。
→学校に不満を持つ「落ちこぼれ」の男子生徒たちに、また、これらの若者が労働生活に適応していく様に注目するようになった。
・私の考えによれば、自分の将来を進んで筋肉労働者と位置づけ、現実にも手の労働を選び取る判断が行われるのは、ある特別な環境において、つまり、労働者階級の生徒たちが形成する反学校の文化において、である。(中略)労働階級の生徒たちは、ここで彼らなりの試行錯誤を経ながら、学校を越えて広がる階級文化に連なり、独自の解釈を加えながらもその基本線を継承し発展させる。そしてその導くところに従って、ついにはある特定の職業群を選び取ってゆくのである。(17)

第一部 生活誌
第一章 対抗文化の諸相
1 権威への犯行と権威順応者の排斥
・反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、「権威=当局(オーソリティー)」に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾心である。(31)
→これから反学校的な男子生徒たちの自称代名詞を借りて、彼らの「野郎ども(the lads)」と呼んでいく。
〇抵抗と優越感
・彼らの攻撃対象は第一に教師だ。
「筆者 教師のことを、みんな敵かなんかのように思っているのかい?
 (だれということなく) そう。そんなとこだ。たいがいはそうだ。」(33)
・そして第二の攻撃対象は、彼らが「耳穴っ子(lobes)」と呼ぶ、学校=教師への順応派の生徒たちだ。
「見落としてはならないのは、〈野郎ども〉が〈耳穴っ子〉を単に排斥するだけではなく、優越感をもって見下していることである。優越を感じる根拠は、〈耳穴っ子〉にはできそうにもないこと、つまり、戯れ、気まま、興奮、要するに「ふざける」ことが、〈野郎ども〉にはできるという自負がある」(39)
→「(不詳)連中は楽しむってことを知らないだろ。
  デレク あんなの最低じゃないか。今もせっせとレポートを書いてるやつがいるよ。五科目でA、一科目でBを取ってるやつだけどさ。」(40)
・そしてもう一つ、性に関する領域において、〈野郎ども〉は〈耳穴っ子〉に優越感を感じる。野郎どもになるための素質はまた、「イカす女を口説く」ために欠かせない素質でもある。

〇記号の差異
・〈野郎ども〉たちは、資本主義的商品でありながら、労働者階級によって一種独特の消費のされ方をする3つの大量消費材をめぐる象徴的な言動を行う。その3つのアイテムとは、衣服、たばこ、酒である。
・抵抗と優越感をこの上なく視覚的に、身についた形で顕示する手段として、衣服は大切なアイテムである。個々の生徒が秩序から「はみ出してゆく」最初の兆しは、みるみるうちに、その服装や髪形が変わっていくことである。
「いま学校で起こっているもめごとの多くが服装をめぐるものであることは決して偶然ではない。それは、部外者には取るにたりない争いにみえるが、当事者である教職員や生徒にとっては、双方ともに自ら仕掛けた、権威をめぐるのっぴきならない攻防戦なのだ。異なる文化がそのようにして日常的に対峙しているのだと言ってもよい。その争いは、もしも徹底的に戦い抜かれるなら、そもそも学校という制度の正当性を問題にしかねない性格を秘めている」(48)
→今日「ブラック校則」という名の下に学校の制服に関する議論が盛んだ。靴下の色から女子生徒の肌着に関することまでなぜ校則という名の下に制限し、生徒に苦痛を与えるのか。くだらないと一蹴する世論も分からなくもないが、服装に関する生徒と教職員の外部からみれば異常なほどの執着は、日本から遠く離れたイギリスの、しかも半世紀前に、ポール・ウィリスによってその自律した文化とした記述されている。
・服装にこだわるのは、抵抗と優越感だけではなく、「異性」をひきつける男性的魅力と、その意味での大人っぽさを獲得する積極的な手段でもある。
⇒「ここに見るように、外的権威への対抗性と内発的な積極性とは重なっているところに、反学校文化の特質がある」(49)そして服装、たばこ、酒に共通するのは、「学校における特殊な意味づけと学校を越えた社会的な意味づけとが結合している。〈野郎ども〉が喫煙にこだわるのは、それが学校への不服従を表す行為であるからだが、その行為に大人の世界の価値観と行動様式を重ねて見ているからである。大人の世界、とりわけ、成人した男性労働者の世界、それが〈野郎ども〉が反抗し結束するときの準拠すべきものなのである」(52)

「慰安婦」問題に関する文献リスト(ゆっくり作成中)

慰安婦」問題に関する文献リスト(Bibliography about "Comfort women" / “sex slaves.” )

1.はじめに――目的と注意事項
最近戦争社会学についての記事をアップする過程で、「慰安婦」問題関連の書籍や論文を取り上げることが多かったので、いっそのこと独立したカテゴリーをつくることにした。そこで、本ブログで取り上げた論文や書籍に関する情報を一括し、図書館などで使われる「レファレンスカード」に近いものを、このページ上でやっていこうと思う。(2019年9月10日)

記事のカテゴリー配分についてはそこまで厳密にしていないので、この文献リストからたどる方が分かりやすいと思う。過去記事のカテゴリー配分を変更するのがものすごく面倒くさいけど、ぼちぼち進めます。

本文中の事実関係(書誌情報)については常に正確さを期していますが、かならず、ページ数や出版年などを含め、自分で確認してください。

なお、正しい認識をえるための文献リストではないので、そこらへんは自分で調べて知を形成していく方が身のためだと思う。なので、この文献リストを不快に感じる方がいれば、即刻このブログを閉じていただきたい。コメントがほぼないブログと言えど、炎上の対象になるのは面倒なので、この点はご理解いただきたい。
(2019年9月10日)

2.