幸福なポジティヴィスト

考古学/Archaeology×メディア社会学/Media Studies×戦争社会学/Sociology of Warfare

津田正太郎「第4講 戦争プロパガンダにメディアはどのように関わってきたのか」『メディアは社会を変えるのか』

<書誌情報>
津田正太郎,2018,「第4講 戦争プロパガンダにメディアはどのように関わってきたのか」『メディアは社会を変えるのか——メディア社会論入門』世界思想社,32-42.

メディアは社会を変えるのか―メディア社会論入門

メディアは社会を変えるのか―メディア社会論入門

1.プロパガンダとマス・コミュニケーション研究
・総力戦のなかで人々を動員するためには,「効果的な説得」が重要である.プロパガンダもマス・コミュニケーション研究もこの説得の効果を重視するという点で,戦争と密接な関係をもっている.

プロパガンダ万能説は陰謀論に陥っている.プロパガンダはあらゆる要素のうちの1つに過ぎない.

・戦争の目的,敵の表象に最も端的に表れる.
Ex )目的の正当化,敵への憎悪の喚起,敵側を混乱させるための虚報(第三者効果).

2.プロパガンダとジャーナリズム
・メディア統制
Ex )ベトナム反戦運動の高まりは,メディアが戦争の悲惨さを伝えたからだという認識から,軍部は戦争時にジャーナリストらの自由な取材活動を制限するようになった.しかし,ベトナム戦争に関しては,メディア報道による世論形成ではなく,世論の反映としてのメディア報道であったことが指摘されている.

湾岸戦争ではプール取材方式が採用され,軍が情報を独占し,ピンポイント爆撃が繰り返し報道された.しかし,全ミサイルのうち7%が誘導式で,投下された爆弾の70%がたーふぇっとを外していたことは,あまり知られていない.いや有名か?

・メディア誘導
湾岸戦争の情報統制が問題となり,イラク戦争ではエンベデッド方式が採用された.記者が部隊と行動を共にすることで,現場を見ることはできたが,仲間意識により客観性が損なわれていることが指摘されている.

情報を統制する政府と軍VS抵抗し,「真実」を伝えるジャーナリストという構図は正しいのか?プロパガンダとジャーナリズムはちがうと言えるのだろうか.また,メディアにとって戦争はビジネスチャンスでもあり,戦争誘導に積極的に加担している可能性は十分にあり得る.また上からの統制ではなく,下からの監視による報道の画一化,自主規制も問題となる.日本軍によるあからさま統制が強調される一方で,GHQによる水面下の統制については過小評価されている(佐藤 2006: 95-6).

3.議論すべき点
・総力戦とプロパガンダ
→総力戦は,国内の大衆動員,敵対国の戦意低下や他国の協力をえるために,積極的な情報宣伝を展開した.心理や思想を標的とした四次元空間に広がった.この文脈でいえばジャーナリズムは異なる手段で行われる戦争となる.したがって,プロパガンダとジャーナリズムは二項対立で論じられないのではないか?

・日常世界とプロパガンダ
→戦争とプロパガンダというくくりは非常に了解できるのだが,戦時限定のプロパガンダというのは非常に狭い.コミュニケーションという言葉が持つ知的,日常的,楽しさ,といったきれいなイメージのなかにはプロパガンダという言葉が持つダーティ,デマ,反知識も含まれていなければならないのではないか?現代は戦争ではなく,日常生活に拡大するプロパガンダに目を向ける必要がある.それは差別や格差,暴力,偏見といった今日的な問題と結びついている.

[参考]
佐藤卓己,2006,『メディア社会——現代を読み解く視点』岩波書店

メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

Robin Bunton and Alan Petersen, 1997, “Introduction: Foucault’s medicine,” Foucault, Health and Medicine, 1-11.

<書誌情報>
Robin Bunton and Alan Petersen, 1997, “Introduction: Foucault’s medicine,” Alan Petersen and Robin Bunton eds. Foreword by Bryan S. Turner, 1997, Foucault, Health and Medicine, London: Routledge.1-11.

Foucault, Health and Medicine

Foucault, Health and Medicine

Contents

List of contributors

Bryan S. Turner, 1997, Foreword: From governmentality to risk, some reflections on Foucault’s contribution to medical sociology

Acknowledgement

Introduction: Foucault’s medicine Robin Bunton and Alan Petersen   ⇦いまここ!

Part Ⅰ Fabricating Foucault
1 Foucault and the sociology of health and illness: a prismatic reading
David Armstrong
2 Is there life after Foucault? Text, frames and differends
Nick J. Fox

Part Ⅱ Discourses of health and medicine
3 Mental health,criminality and the human sciences
David McCallum
4 At risk of maladjustment: the problem of child mental health
Deborah Tyler
5 Foucault and the medicalization critique
Deborah Lupton

Part Ⅲ The body, the self
6 Is health education good for you? Re-thinking health education through the concept of bio-power
Denise Gastaldo
7 Bodies at risk: sex, surveillance and hormone replacement therapy
Jennifer Harding
8 Foucault, embodiment and gendered subjectivities: the case of voluntary self-starvation
Liz Eckermann

Part Ⅳ Governmentality
9 Of health and statecraft
10 Risk, governance and the new public health
Alan Petersen
11 Governing the risky self: how to become healthy, wealthy and wise
Sarah Nettleton
12 Popular health, advanced liberalism and Good Housekeeping magazine
Robin Bunton

Index



1.本書の課題
・本書の計画としては,健康と医療の領域における近年のフーコー派の射程の広がりをまとめていくことである.
・本書の執筆陣が,現在,フーコーの仕事と彼が発展させた「健康の問題化(健康がどのようにして,そしてなぜ問題になったのかを問うこと)」にどのように取り組んでいるのかを素描する.そしてフーコーの仕事自体を問題化し,批判的にみる.

〇PartⅠ
・David ArmstrongとNick Foxの章では,フーコーの研究それ自体を問題提起と関連し,その図式を問題とする.両者は,フーコーの論点の範囲と異なる読解(もしくは対抗的な読み)に注目することで,われわれのフーコの方法論についての認識が間違っていることを気づかせてくれた.(3, 1 sta)

・第1章のアームストロングは,フーコーの作者の問題化をわれわれに注意させ,健康と病の社会学において明らかにされていた「フーコー」的なものを示した.フーコーの異なる読解によって,アームストロングは研究の執筆陣と領域へのフーコーの影響を記した.(3, 1,mid)

・第2章のニックは,フーコー存在論があいまいかつ矛盾しており,言説,身体,自己という概念を探索し,理論化し,分析するためのオルタナティブな資源を提示する.バルト,デリダ,リオタールからテクストやフレームの利用が出発点として役に立つとし,リオタールの「Differend/争異(抗争)」概念が,われわれがどのように間テクスト性と差異と抵抗のはたらきをうまく説明するのかを示すことに役立つ.

〇PartⅡ
ここでは,フーコーの研究の重要な遺産の1つである言説の概念を扱う.言説は,フーコーの主体の分析において,広く使われた.フーコーにとって,主体は前言説的な存在をもつというより言説を通じて構成されている.フーコーの目的は,「われわれの文化において,人間が主体を作り出されたそれぞれの方法の歴史を作り出すこと」であった.人間が人間自身を主体に変えることによってそうした諸実践に注目し始めた.

フーコーの系譜学や「現在の歴史」の方法は,思考の非連続性と断絶に注目し,多様な決定と機会の役割の認知に関連する.その方法は明示的な理論的かつ政治的目的を持っている.現在の当然性を打ち砕く,そしてどのように物事が異なるものになるのかを示すこと.

フーコーセクシュアリティへの系譜学的アプローチは,sexとsexualityの社会的構築に歴史的研究の領域を発展させることを奮い立たせることに役立ってきた.こうした歴史的分析は,言説実践の変化に位置付けることによって,現在の不安定さを示し,われわれがものごとをほかの状態になるように想像するようになる.

・マッカラムとテイラーはそれぞれのかたちで,メンタルヘルスと犯罪学,そして子供の成長についての言説におけるある種の主体化(=従属化)の出現を示す.

第3章において,マッカラムは,「個人の危機」の問題の概念的な地形を系譜学的に分析することで,個性と個性的病気のカテゴリーに関する確実性と真実性をかき乱す.個人の歴史てきた問題性の説明を受け入れるというよりは,現在のカテゴリーが多くの要素の組み合わせとして理解されうる.その一方で,19世紀後半では,統計学的な手続き,管理の再形成,社会衛生学の諸戦略の領域を通じて達成された増大した集団の個別化の発展がある.こうした発展は,個人の内側の作用を理解しようとする「psy-disciplines」の20世紀の増大と私的な生活の望ましさの助長によって市民を規制する試みの増大と結びついている. 人間の知が法,精神医学,そしてそれらが作動する制度的な空間の相互関係の複雑さの手段で可能とされている.

第4章で,テイラーはある疑似科学的「発見」(女の子以上に「悪い態度」を示すため男の子の生まれつきの性格)を検査し,かき乱す.彼女は,男の子と女の子の行動を「リスク」もしくは「不適合」として「認知」されるようになること許す可能性の状況を検査する.彼女は子供を統治するテクニック,そして幼稚園やほかの教育的環境における行動の修正のための戦略を説明する.人間の考えの内的な働きの「発見」ではなく,今世紀の初期を通じて発展した子供の集団を統治するテクニックに帰すべきである.子供の魂について知られていることは,それに対処することができることについて知られていることより重要ではない.

5章で,デボラ・ラプトンによって言説の支配は批判的に検討された.ㇻプトンはオーソドックスな医療化批判とフーコー派の生医療の批評の異同を比較した.「医療化」批判の支持者は権力を抑圧するものとして理解し,フーコーは「医療的まなざし」における規律的権力の生産的側面を認めていた.ところが,どちらも医療的遭遇の多くの特徴を無視していた.例えば,無意識と感情のような先の探索の必要性にある

〇Part3
・身体と自己,そしてそれらの関係性の分析.
規律訓練への注目として身体の視座は,身体の性質について,そして近代社会の権力の作動についての思考を書き直すことに役立つのは疑いようもない.

「生-権力」の分析は,権力が人間の身体に関連して作用することを通じて,われわれに2つの軸を与える.
①個別の身体に作用する1つ,いわゆる「身体の解剖-政治学」.もう一方は,人口を通じて作用する「人口の生-政治」.

フーコは,身体を本質的または中立的なものとしてではなく,特定の実践と言説において再生産されたものとして認識している.フーコーは,人口や社会的身体を管理するために利用されるテクニック,そして特定の「正常化の装置」に注目する.『臨床医学の誕生』では,19世紀を通じて,見られ,記述され,そして行われる方法を形成した「身体」の特異な言説をどのように出現させたのかが示される.

医療は,言説が患者の身体に位置づけられる病理解剖学への注目を通じて,「身体」の新たな視座においてカギ役割を果たした.この言説は,医療が正常性より健康に置き換えられたとき,18世紀末まで優勢だったものとは異なる.

第6章では,デニス・ガスタルドが,病気の予防と健康の促進と関連して,「生-権力」の作用において,保健教育がますます重要な役割を果たすようになってきた.
ブラジルの国家保健システムにおける保健教育の政策と実践の研究データを引用して,ガスタルドは,保健教育の言説が日常生活に新たな知識,監視,規律のテクニックを導入することによって,社会的かつ個別の身体の管理にどのように貢献してきたのかを示した.健康についての意思決定と,主体自身と主体のコミュニティのケアに関連して活動的になることに主体を誘い込み,保健教育は自己の解剖と自己の統治を引き起こす.

ガスタルドは,強制的な手段による主体の直接的な統制ではなく,むしろ主体の規制された自律性へ向かうひとつの面を作り出すことに依存する近代の権力諸関係の複雑性を強調しようとする.

フーコーは身体と自己の分析においてジェンダーの観点がないことを批判されてきた.しかし,フェミニズムに強い影響力を持っている.新しい生殖の医療技術は,生殖力のない母,代理母,遺伝的欠陥の母,身体が(生物学的または社会学的に)妊娠に当てはまらない母,繁殖力のある扱いへ心理学的に一致しない母,子宮が胎児に適さない環境である母として個人のカテゴリーを作り出す.同時に,不妊の扱いにアクセスすることを欲望することによって,そうした規範に挑戦する独身とレズビアンの事例のような,抵抗の新しい場所の可能性がつくられる.
フーコーの視座は,女性を特別に暴力や抑圧の犠牲者として仮定するフェミニスト的な視座に挑戦する.医療技術の領域において,例えば,それはなぜ多くの女性は新しい医療技術をできるようにするものとして認識するのか,そして発展と利用の最も強固な支持者の間に時々いるのかという問題を導く.しかしながら,より基本的には,フーコーは,フェミニスト的分析の多くの安定した対象として取り上げられるようになっている性的魅力のある身体を問題化する.

第7章では,ホルモン補充療法の分析において,ジェニファー・ハーディングは,フェミニストと医療言説がすでに性化された身体へ彼らの参照を集中すると主張した.医療とフェミニストの言説,そして主体とオーディエンスを比較し,両者がどのように身体を性化することに参加しているのかを検証した.フェミニスト女性の健康言説は医療言説のように「性」の存在を,閉経を定義し,個人を必要とするまたは待遇を必要としないことのどちらか一方として示すために固定されたカテゴリーと前提条件としてあらかじめ前提にする.
フェミニストの批判は,身体が文化的に説明できるようになること通じて生医療が言語を提供することへの拡大を的確に認識しそこなう.「リスク」の構築を展開することを通じて,医療とフェミニスト両方の健康言説は,女性に自分自身を自己監視の対象とするようにさせる.この帰結が,高齢女性の要求が自らの「老朽化」に抵抗することの責任によって周囲を囲まれることである.
身体と自己の支配的テクニックではなく,「非公式」または従属させられた知識を,両者が似たような自己のテクノロジーを産出するという事例を通じて,このように下線を引くことフーコーがすることを好んだように,「新しい社会運動」の政治の権力効果のアイロニー探求する.

第8章では,リズ・アッカーマンがフェミニズムへのフーコーの思考の妥当性を,拒食症を参照して,具体的かつジェンダー化された主体化の分析を通じて検証した.フーコーは身体と近代の拒食症の「流行」を形成する要因を社会学的に理解するために役に立つ概念道具を提供する.彼の監視と告白の概念は,例えば,処置で使われた行動の修正技術と観念的身体の出現を達成する試みにおいて果たされた自己規律化戦略の有効性を証明する.

〇Part4
フーコーの統治性の概念を健康政策,保健促進,健康消費の分析に適用することを検討する.(言説を含む)支配の技術と自己の技術の接点として示してきた.

第9章では,トマス・オズボーンは,かれが健康と政策の関連の「反射的」説明と呼ぶものの切断にフーコーの研究,カンギレムの研究を引き出した.そうした説明は健康政策を客観的な健康の必要性への反応としてみる傾向がある一方で,健康政策の作用の結果として健康を明言する.反射的な努力としてというより創造的努力として政策に注目する.

健康促進と自己の配慮の言説と関連する統治の技術.

共通のテーマはリスク文化の論点,リベラルな統治の技術における専門家の中心的な役割,冒険的自己の概念の出現である.能力と参加の技術はダブルエッジである.すなわち,「医療的まなざし」の拡大の一方で,人口の建設的管理.


第10章では,アラン・パターソンは,健康促進と新しい公共保健,つまりリスク管理という健康の性質より新しいアプローチの技術を同定する.統治へのリスクの分析と人口の管理の密接な関係を発展させた.「危険」から「リスク」への変化を引用して.専門家と主体の関係性に深い影響をもち,異なる介入戦略を必要とする.リスクはネオリベラル的な主体の自由が生成される技術として出現する.
織部的合理性は,事業家的自己,独自のリスクとリスク行動を管理する能力を引き出す.健康促進は,戦略である.ライフスタイルへの注目によるリスクの最小化とリスクの民営化を生じる.

第11章では,サラ・ネルトンはリスクな自己を統治することについて取り上げる.同時代の健康政策と健康促進の実践に言及して,どのように統治の現代的なスタイルが,自律的に,自主的な再帰的な自己,リスクの管理をする共同体を生みだすのかを検証する.確実性に依存する支配の一方的な関係ではなく,集合体と個人的行為の間の相互関係の結果である.主体が専門家の知識への反応できる理由で,権力は作動する.専門知への挑戦は,統治のスタイルに不可欠である.本章は,主体が単に政策や計画に従属するのではなく,参加を必要とされる.

第12章で,ロビン・バントンは1959年から『Good House Keeping』誌における健康と自己ケアの表象の変化の研究を通じて,進歩的リベラリズムと関連する統治の技術を分析する.バントンはこの時代の「健康関連グッズ」の増大を記し,健康へのますます市場に向けたアプローチとより大きな洞察力,健康意識の主体の出現で並んで.製品はますます彼らの表現と道具的機能への眼で販売されている.製品は消費者のアイデンティティについて示したもののために.「柔らかい」トイレットペーパーの販売にみられる.製品の純粋に衛生学の側面への注目から,製品の奢侈性を強調することへの変化を表象する.同時に新しさ,防止,「リスクに向かう」知識は,医療的権威が日常の仕事になっていることに挑戦する.どのように「psy」の専門技術は消費行動を統制することに採用されているのかに見なすことができる.製品,製品のデザイン,マーケティングの心理学的重要性を確立すること.進歩的リベラリズムの健康の消費は,受動的,文化的判断喪失者(cultural dope)としてではなく,行動的,として位置付けられる.健康製品を選択的に消費することと健康のメッセージを選択的に読むこと.

用語学#11 Adorno, Theodor W. (テオドール・アドルノ)

用語学#11 Adorno, Theodor W. (テオドール・アドルノ

(1903-69)
 フランクフルト学派アドルノは彼の母国ドイツで人生の多くを過ごしたが,1934年から1960年の間,彼はナチスドイツからの亡命者として逃げきたアメリカで過ごした.彼は哲学,そして社会と文化の研究に広く関心をもち,特に音楽に興味をもった.マルクス主義から非常に多くの影響を受け,アドルノは,社会理論は批判的切れ味を維持すべきと主張した.この基本的な認識の上で,彼は社会研究,とりわけ科学的かつ質的な研究と主張するものにおいて使われてきた多くのアプローチを,社会変革のための基礎を与えていなかったとして,批判した.彼はおそらく近代世界の大衆文化の批判的社会学者として最も知られている人物だろう.大衆文化は,文化産業によって提供されているものとして,そして大衆を巧みに操作するものとして理解されている.アドルノの研究は広く知れ渡っているが,最も社会学的な関心は『プリズメン』(筑摩書房 1996),ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法——哲学的断想』(岩波書店 1990),『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』(法政大学出版局 1979年)である.かれはまた『権威主義的パーソナリティ』(青木書店 1980年)にも貢献した.

プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)

プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)

ミニマ・モラリア―傷ついた生活裡の省察 (叢書・ウニベルシタス)

ミニマ・モラリア―傷ついた生活裡の省察 (叢書・ウニベルシタス)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ


[see also]: authoritarian personality; critical theory; Marcuse; Marxist sociology; mass society; positivism

The Penguin Dictionary of Sociology: Fifth Edition (Dictionary, Penguin)

The Penguin Dictionary of Sociology: Fifth Edition (Dictionary, Penguin)

M・フーコー『知の考古学』Ⅳ-Ⅱ 独創的なものと規則的なもの

 <書誌情報>
Michel Foucault, 1969, L'Archéologie du savoir, Paris: Gallimard.
(=2012,慎改康之訳,『知の考古学』河出書房新社

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)


<目次>
諸言
Ⅰ 序論

Ⅱ 言説の規則性
 Ⅰ 言説の統一性
 Ⅱ 言説形成
 Ⅲ 対象の形成
 Ⅳ 言表様態の形成
 Ⅴ 概念の形成
 Ⅵ 戦略の形成
 Ⅶ 注記と帰結

Ⅲ 言表とアルシーブ
 Ⅰ 言表を定義すること
 Ⅱ 言表機能
 Ⅲ 言表の記述
 Ⅳ 稀少性、外在性、累積
 Ⅴ 歴史的アプリオリとアルシーブ

Ⅳ 考古学的記述
 Ⅰ 考古学と思想史

 Ⅱ 独創的なものと規則的なもの   ⇦いまここ!

 Ⅲ 矛盾
 Ⅳ 比較にもとづく事実
 Ⅴ 変化と変換
 Ⅵ 科学と知

Ⅴ 結論
訳注
訳者解説
人名索引
事項索引


Ⅱ 独創的なものと規則的なもの: 266-281

〇思想史の領域
思想史は,言説の領域を2つに分けて,それぞれ個別の地位を与える.
①発明,変化,変貌の歴史であり,真理にたどり着くまでの過程に,1つの進化の連続的な線を見出す.
②不活性で,緩慢で,静かな集積の歴史であり,何らかの共通点でまとめられた包括的形象が記述される.
思想史は,これら2つの間の関係性を記述する.

そうした分析は,歴史的経験的境域のなかに,そしてその一つひとつの継起のうちに,起源の問題系を充当し直す.言い換えれば,こうした独創性に関する記述は,一見すると自明のものでありながら,非常に困難な二つの方法論的問題を提起する.すなわち,類似の問題と先行性の問題とが提起される.

⇔先行性は,あらゆる言説を評価し,独創的なものを反復的なものから区別することを可能にするような,絶対的尺度の役割を果しえないということだ.また類似性の問題も,いかなる意味において類似的なのかという点は明確ではない.むしろ諸言述のアナロジーは,それがそこで標定される言説領野による1つの効果なのだ.

もしこうした分析をする際は,非常に正確に定められた諸系列の中で,その限界と領域とが打ち立てられた諸々の集合において,十分に等質的な言説領野の境界を定める諸々の目印の間においてのみである.この具体例が,G・カンギレムの『反射概念の形成』である.

〇考古学的記述の領域
考古学は,言説実践に対して自らを差し向ける.
考古学的記述にとって,独創性と凡庸さの対立は意味を成さない.

つまり考古学は,最初の言述と,数年ないし数世紀の後にそれを多少なりとも正確に反復する文との間に,いかなる価値のヒエラルキーも打ち立てず,ラディカルな差異も設けないということだ.考古学が行うのはただ,諸言表の規則性を打ち立てようとつとめることのみである.ここでいう規則性とは,不規則性に対立するものではない.あらゆる言語運用についてその存在を保証しそれを定める言表機能が作動する際の,諸条件の総体である.

この規則性は,実際の出現領野を種別化する.不規則性との対置ではなく,他の諸言表を特徴づける規則性との対置である.


言語学的アナロジー(翻訳可能性),論理学的同一性(等価性),言表的等質性を区別して扱う.すなわち,文法的にも論理的にも同一でありながら,言表的には異なるということ,もしくは文法的にも論理的にも異なるものでありながら,言表的規則性を認めることができる.


言表的規則性内部のヒエラルキーの探求.
ある言表の諸規則を,最も一般的で最も広く適用することの可能な形態において作動させるような言表のグループを出発点として,言表的派生の樹形図を作り上げることが考古学の主要なテーマである.

J. ボードリヤール『消費社会の神話と構造』杉山光信編,1989,『現代社会の名著』より

<書誌情報>
若林幹夫,1989,「ボードリヤール『消費社会の神話と構造』」杉山光信編,1989,『現代社会の名著』中央公論新社,44-56.

現代社会学の名著 (中公新書)

現代社会学の名著 (中公新書)



・「消費」という概念を武器に現代社会の構造やそこでの人々の行為の構造を記述し,分析することを試みるのが「消費社会論」

消費は自然的な欲求からくる行動ではなく,それ自体が何かを意味する行為として,意味のコードや制度,構造の中に組み込まれている.だから,「消費」を考えるということは,消費を社会から取り出すのではなく,それを意味を持った行為としている社会の構造やシステムとの関係で論じなければならない.言い換えれば,「消費」の分析ではなく,「消費社会の構造」の分析である.消費社会で人々のふるまいを意味付けているものが,実は神話であり観念であることを暴露していく.

ショッピングしているとわかるように,モノはただ無秩序に陳列されているわけではない.それらは他のモノとセットとして組み合わされ,他のモノやセットと差異づけられることで,「モノ」そのものの機能とは別の「幸福な暮らし」「あなたらしさ」「一つ上の暮らし」といった意味を示す差異化された一連の記号として,意味として消費されている.われわれはモノを消費しているようで,記号の差異としての意味を消費しているということか.

消費社会の矛盾する2つの側面.
「平等主義の神話」,今日の社会は人々の間の平等と均質化が高度に実現された「豊かな社会」であるという神話=イデオロギー
「構造的な差異化」,教養や良好な環境といった社会的価値の差異を,記号としてのモノの生産と操作を通じて構造的に生み出している.
消費はもはや規範的で,強制的で,制度的なものだ.

平等と差異の矛盾した論理が消費社会の総体的な戦略を基礎づける.
貧困は豊かな社会という平等主義のイデオロギーに吸収される.その一方で,記号化されたものを消費し,それを通じて社会的に差異化されていく.

経済的な差異としての豊かさと貧困から,記号としてのモノを消費を通じて発生する社会的価値の構造的差異の意味作用へと移行している.
計量される豊かさの論理ではなく,神話としての豊かさの論理とは何か.
分析の視点は,「社会的意味を持つものとしてのモノの生産と操作の論理」.
具体的には,
①モノを意味付けるコードに基づいた「コミュニケーション過程」
②コード化されたものの消費によって生み出される「分類と社会的差異化の過程」

「人びとは決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない.——理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために,あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団から抜け出すために,人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している」

モノを消費することへの欲求も,生産のシステムの存続と拡張の必要に応じたシステムの要素「欲求のシステム」として生み出される.「消費は享受の機能ではなくて生産の機能」

消費による「個性化」.あなたらしさ,本当の自分.これも神話.本質的な個性がないからモノで個性を追いかける.
産業の集中は人々の現実的差異をなくし,均質化する.こうして同時に差異化の支配への道を開くことになった.
人が個性化したから様々に差異化された消費が享受されるのではなく,まず差異化の構造的論理が存在し,この論理が諸個人を「個性化された」ものとして生産するからである.

消費社会によって何が変わったのか.
文化の商品化,商品化されたメッセージ.身体の消費,時間の消費.

根源的疎外の時代
労働や商品関係を通じて自己が自己に対して疎遠になるというような古典的疎外論ではない.すべてが記号に置き換えられた社会では,「自己=主体」という超越性を持つ審級そのものが存在しなくなっているから.

A・プラトカニス,E・アロンソン,1998,『プロパガンダ』第2章

<書誌情報>
A・プラトカニス,E・アロンソン,社会行動研究会訳,1998,『プロパガンダ――広告・政治宣伝のからくりを見抜く』誠信書房

プロパガンダ―広告・政治宣伝のからくりを見抜く

プロパガンダ―広告・政治宣伝のからくりを見抜く

第2章 説得のお膳立て――効果的な説得を行うために:49-94

1.広告
ダリル・ベムのテレビコマーシャルの単語やスローガンについての研究.
・鎮痛剤のアスピリンは,「純度100%」「強力・即時性(素早い効き目)」「多くの医師推奨」「胃にやさしい」といった言葉で売られているが,実際には言葉のトリックや程度の差ぐらいの違いでしかない.知名度の低いものの何倍もの価格で売られているにもかかわらず,みんなそうした商品を買ってしまう.

・広告のもつ力とは何なのだろうか?
では,言葉はどのようにしてその力,すなわち人々に影響を与え説得する力を獲得するのだろうか.簡単に言えば,対象がどのように記述されるのか,一連の行為がどのように提示されるかによって,われわれの思考や,コミュニケーションに関する認知的反応が方向づけられる.

心理学者のゴードン・オルポートは,言語の本質は,毎日間断なく入ってくる多量の情報を分類し,カテゴライズすることであると指摘している.(54)
→認知的な視座.世界の切り取り方.複雑なものを理解するフレーム,二項対立.
⇔「自己成就的予言」といわれる現象がある.「ある状況を定義することが,その定義を現実のものとするような行動を引き起こすことを意味する」.賢いと言われた子どもは賢くなる.ラベルの説得力は,「名前」が「実体」を生みだすことがある.

言葉は現実を覆い隠したり,偽造するために使われる.一方でまた,言葉は現実を作り出す方向で使われることもある.

2.頭の中の物語
頭の中に思い描くフィクションは,われわれ自身の行為や思考にどの程度影響を及ぼすのだろうか.

ジョージ・ガーブナーの分析では,テレビで描く世界が現実とはかけ離れていること,そしてそうした世界を現実の反映として受け取っていたことが明らかにされている.テレビの視聴時間が長ければ長いほど,現実とは異なる形で世界を認識している.
Fact Fullnessも似たような状況であった気がする.こうした頭の中の物語が現実を意図しない形で捻じ曲げて理解している.
※相関関係であって因果関係ではないことに注意.

犯罪や暴力など,直接体験する機会がほとんどない問題の場合には,テレビなどのマスメディは,われわれが世の中をイメージするときの唯一のいきいきした情報源となるのである.(63)

「何を考えるべきか」を人々に伝えるのに成功しているとはいいがたいが,「何について考えるべきか」を伝えることには大きな成功を収めている.(バーナード・コーエン)アジェンダ・セッティング.議題設定機能

3.質問方法によって変わる回答
カーネマンとトヴェルスキは,人びとが損失を嫌い,それを避けようとする点に注目している.2000円を得ることによる喜びよりも,2000円を失うことの苦痛の方が重要なのである.また乳がん検診の結果では,否定的な結果を強調して自己検査を進められた女性たちは,ほかの軍の女性よりも実際に事故検査を多く行っていることが明らかにされた.生死にかかわるような状況でもどのように訴えるかで変わってくる.
⇒「何かを失う」ものとして問題が定義された場合のほうが,何かを獲得するという側面から定義されたときよりも説得的なのである.したがって,質問すること自体が,説得を成功に導くための巧妙なお膳立ての方法となりえる.(74)

誘導尋問は事実の判断に影響するだけではなく,起こったことについての記憶にも影響する.

4.対比効果とおとり
選択肢におとりをしのばせることで,おとりとの対比でほかの選択肢を「よりいいもの」,「よりわるいもの」と思わせることが可能である.
おとりから得られる教訓は,「文脈」が重要であるということ.なぜなら判断は相対的なものであり,対象や選択肢は,文脈次第で良くも悪くもなるのである.

5.デマ,事実もどき
選挙の中傷キャンペーンについての分析では,候補者が不適切な活動と結びついていることを単に示唆するだけでも,候補者の公的なイメージが大きなダメージを受けることを示している.否定的内容の政治宣伝や中傷キャンペーンの類は,やっただけの効果が得られることが多いのである.

裁判では,裁判以前に知れ渡った否定的な事柄,例えば自白したという報道,嘘発見器のテスト結果,被告のそれまでの犯罪歴,このケースの詳細など,裁判においては証拠として認められない情報が,陪審員の意思決定に重大な影響を及ぼすという結果を得ている.(86)

なぜ,デマ・事実もどきはこのように説得力を持つのか.
①事実もどきが真実か否かを確かめる試みがほとんど行われないことである.また真実か否かを確かめる材料がその情報にはほとんどない.
②いくつかの心理的欲求を満たしてくれるので,われわれはそれを受け入れてしまう.多くのデマは面白く,注意を引き付ける.また根源的な懸念や関心を合理化し,正当化するのを助けてくれる.そしてデマはその広がりとともに,われわれの心理的欲求を満足させる方向に「修正され,精緻化される」.
③社会的リアリティを作り出す.世界を理解する方向性を示してくる.

6.デマへの対処
強力な伝染力を持つデマにどう対応したらいいのか.
歴史的視座
第二次大戦のアメリカのうわさ統制所,法廷における証拠主義・・・

もっともよいアプローチは,それがデマになる前のつぼみ段階で摘み取ること.
そして,われわれじしんがデマや誇大な広告に対して証拠の開示を請求し,立ち向かうということ.

[参考]
ロバート・B・チャルディーニ,社会行動研究会,1991,『影響力の武器——なぜ、人は動かされるのか』誠信書房

影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか

津田正太郎「第3講 メディアはナショナリズムを高揚させるのか」『メディアは社会を変えるのか』

<書誌情報>
津田正太郎,2016,「第3講 メディアはナショナリズムを高揚させるのか」『メディアは社会を変えるのか——メディア社会論入門』世界思想社,22-31.

メディアは社会を変えるのか―メディア社会論入門

メディアは社会を変えるのか―メディア社会論入門

1.ナショナリズムとメディアの関係性
・本稿では,ナショナリズムの高揚や停滞にともなう様々な諸問題をメディアの役割と合わせて考える視座を提供することを目的としている.

2.ナショナリズムとはなにか?
ナショナリズムとの対比で用いられる言葉に愛国心がある.ナショナリズムが否定的ニュアンスとして用いられる一方で,愛国心は肯定的なニュアンスで用いられる.しかし,愛と憎しみが表裏一体であること(愛の危険が愛を盛り上げ,憎しみの対象を形成する),立場によって愛国心ナショナリズムに見えることが往々にしてあることを考慮すれば,ナショナリズム愛国心パトリオティズム)を区別し,論じることは有効な手段ではない.
→むしろ肯定される愛国心の下に,ナショナリズムが隠れていることに敏感になるべきだ.愛国心という言表がナショナリズムを表面的には抑圧しながら,ナショナリズムを喚起する戦略として編制されている可能性.

イデオロギーとしてのナショナリズムは,「国益」の実現を求める思想や運動と結びつくいると考えるということ.ただし,国益の定義は固定的ではなく,国家独占する場合もあれば,反体制的な運動でも出現する(リベラル・ナショナリズム).支配体制が反体制的なナショナリズムを危険視すると,国家によるナショナリズムの利用「公定ナショナリズム」が出現する(アンダーソン 2007: 148).

・認識枠組みとしてのナショナリズムは,アンダーソンに代表されるように,見ず知らずの「同胞」の存在を想像することがナショナリズムという主張である.アンダーソンはナショナリズムの出現とマス・メディアの発達を深く結び付けて考察している.アンダーソンの議論は,いわゆる出版資本主義によって国語で書かれたメディアがたくさん売る資本主義と結びつき,大量に出回ることでナショナリズムが出現したといったような説明が有名だが,それは誤読である.ナショナリズムの出現に重要なのは,マス・メディアによってもたらされた「人々の時間や空間に対する意識の変容」である.
 真木悠介が論じたように,過去から未来への線状的なモデルで時間の感覚を理解することは普遍的ではない.対照的な時間の感覚としては,昼と夜,雨季と乾季のようなものがあるだろうし,円環的なものとしては春夏秋冬,農業的な時間の感覚が最たるものである.これらの時間間隔は過去から未来の一方向的不可逆なものではなく,反復されるサイクルとして認識される.
 ところが,新聞のようなマス・メディアは,毎朝決まった時間に届けられ,日付が変わると捨て去られるように,時間が一方向的に進む感覚を広めていくことになった.また.小説でいえば,同じ時間のなかで,複数の人物がそれぞれ出会うことなく描写され,時間の進行とともに物語が進行していく.こうした異なる空間でも同じ時間が一方向的に流れているという感覚を,アンダーソンは「均質的で空虚な時間」とした.こうした時間と空間の感覚の変化が,あったこともない同胞を想像する感覚の出現=ナショナリズムの出現にとって重要だったというわけだ.ただ,マス・メディアはこうした感覚の醸成の一翼を担っていたというだけで,すべてではない.例えばアンダーソンが比較の亡霊と名付けたように.比較によって意識される文明,人種,性別,考え方の差異もナショナリズムの涵養の一翼を担っている.

3.差異の創出——本質的な差異か,つくられた差異か
・本質的な違いがそこにないにもかかわらず,あたかもそうした差異があるかのように,後付けで発見されたりする構築物としての差異が,ナショナリズムと結びついていることがある.
・差異と資本主義
→第5講でも論じられたように,資本主義は情報化と結びつき,たえずほかの記号との差異によって生み出される記号を消費する社会を生みだした.こうしたメカニズムが絶え間ない消費を促したように,ナショナリズムもまた記号としての差異を消費していく中に取り込まれていないのだろうかという論点も重要である.
chanomasaki.hatenablog.com

ナショナリズムの日常性
ナショナリズムが生活に溶け込み,人々に内面化されることで国境線で区分されたり,人種の違いで区分された世界を自明のもとして受け入れているという認識.こうした日常という観点は,我々が日々触れているマス・メディアによってこうした日常のナショナリズムが創出,維持,再生産,または変容されている視座を提供する.とりわけ震災といった非日常的な出来事を日常に復帰させようとするマス・メディアの諸言表には,こうした日常のナショナリズムが反映されるだろうし,天気図が日本に限定されているのも同じ効果を持っているかもしれない.

[参考]
真木悠介,2003,『時間の比較社会学岩波書店

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

B. アンダーソン,白井隆・白石さや訳,2007,『定本 想像の共同体——ナショナリズムの起源と流行』書籍工房早山.

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)