幸福なポジティヴィスト

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日本軍「慰安婦」被害者の言説的構築とその表象——裴奉奇をめぐる新聞報道と川田文子の『世界』掲載論文をもとに

#『世界』研究

 日本軍「慰安婦」をめぐってはこれまで膨大な数の言説が蓄積されている。そうした言説において、戦地に連行され、性を蹂躙され、生命を奪われ、生き延びたとしても元の人生に戻ることもできない人生そのものを破壊された日本軍「慰安婦」制度のもっとも直接的な被害者である「慰安婦」たちは、どのように語られ、表象されていたのだろうか。
1991年12月の元「慰安婦」たちによる日本政府対する訴訟と翌92年1月の吉見義明による軍関与資料の発表以降、日本国内外の研究者や弁護士を中心としたさまざまな調査チームが、日本軍「慰安婦」制度の歴史的解明に乗り出した。その結果、慰安所は第1次上海事変以降、アジア太平洋戦争下で日本軍が侵略した広範な地域にまたがって設置されており、そこには日本や植民地出身の女性たちだけではなく、「現地調達」された女性たちが数多く「慰安婦」として働かされていたことが明らかになっていった。慰安所の設置と「慰安婦」とされた被害者の再発見が時間的、空間的に拡大していくなかで、『世界』においてはそうした再発見と同時進行で、それらの成果を掲載していくことになる。
 『世界』では、1992年2月号の川田文子「遺志は引き継がれた——元従軍慰安婦ポンギさんの生と死」において、初めて被害者の具体的な姿が語られた。執筆者の川田文子は、沖縄在住の元「慰安婦」裴奉奇への聞き取りを行い、その成果を1987年に『赤瓦の家』として筑摩書房から刊行していた。同論文は裴奉奇が1991年10月18日夕刻に亡くなったことを受け、その生まれから川田との出会い、その後の生活までを追った被害者のライフヒストリーである。
 まず驚かされるのは、「ポンギさんとの出会い」で語られる川田が裴奉奇を発見する過程である。川田が裴奉奇の存在を知ったのは、1975年10月22日付の高知新聞の「戦時中、沖縄に連行の韓国女性 30年ぶり『自由』を手に 不幸な過去を考慮 法務省特別在留を許可」と見出しをつけられた記事であった。同記事は共同通信が配信したもので、日本の新聞ではじめて「慰安婦」が扱われた記事とされている。90年代以降に「慰安婦」問題に関する報道が増加する以前に、日本では地方紙によって「慰安婦」の存在が報じられ、行政(法務省)もその存在を確認し、聞き取り調査まで行っていたのである。


那覇】太平洋戦争末期に、沖縄へ「慰安婦」として連行され、終戦後は不法在留者の形でヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手にした。当時は「日本人」でも、いまは外国人。旅券もビザもないため、強制送還の対象となるところだったが「不幸な過去」が考慮され、韓国政府の了承を得たうえ、法務省はこのほど特別在留許可を与えた。
(『高知新聞』1975年10月22日付)


同記事は、沖縄戦へ強制連行された朝鮮人の証言が初めて得られたという点に焦点を当てており、ニュース価値はその点に見いだされている。当時すでに戦時中に朝鮮半島や中国大陸の人々が労働力として強制連行されていたことが問題となっており、「慰安婦」も強制連行の事例として理解されていたのである。しかし、同記事にはすでに、「慰安婦」とされた被害者たちが、戦後に何らの補償もないまま「不法在留者」としてヒッソリと生きていたことが表象されていた。「日本人」として戦争に駆り出された植民地出身の人々に対し、戦後の日本は「外国人」として扱い、基本的な権利を認めてこなかった。戦中は「慰安婦」としてその身体を軍人の性のはけ口としておきながら、日本政府の無責任な都合で裴奉奇は「不法在留者」とされ、「強制送還」の対象とされたのである。しかし、同記事はそうした日本政府の無責任な対応を批判するものではなかった。むしろ、裴奉奇の身体に対する性暴力や故郷から遠い沖縄に連行された出来事を「不幸な過去」と片付け、強制送還と対象とされた窮状が、行政の「特別な配慮」によって解決されたと語る。このような言表の配分によって編制された言説は、日本政府によって「特別な配慮」を与えられ、この国に住むことを「特別に許可」された「不法在留者」として裴奉奇を構築する言説であった。
 このような当時のメディア言説によって裴奉奇を知ることになった川田だったが、取材を経た後に同論文において川田が表象する裴奉奇は、上記新聞とは異なる言表を配分しながら「日本の植民地支配によって人生の節目、節目で、個人の力では抗う術もないほどに決定的に生活の方途を規定されていた」被害者として構築されている。
 裴奉奇の第一の転機は家族の離散であるが、川田はそれを「植民地の貧困」と説明する。そして第二の転機が女紹介人に「いい儲け口がある」と誘われ、その後沖縄の慶良間諸島渡嘉敷島で「慰安婦」とされたことである。だが、川田が紙幅の大半を割いたのは、第三の転機に当たる敗戦後に米軍の石川収容所を出てから、「言葉分からず、知る人もなく、住むところも、金もなく、地元の人々でさえ比一日を過ごすことが困難な、焦土と化した沖縄で、一人生きていかねばらなかった」、「戦後」の裴奉奇の人生である。川田によれば裴奉奇は「だまされて連れてこられて、知らんくにに棄てられてるさね」と何度も口にしていたという。


従軍慰安婦として戦地に連行された女たちの悲惨は、性を蹂躙されたこと、そのことに他ならない。だが、ポンギさんに限らず、慰安婦とされた大多数の女たちが、その体験に起因する様々な不条理を追って、長い戦後を生きなければならなかった。そうした戦後を免れた女がいるとするなら、戦場で死んだ慰安婦だけだ。
(川田 1992: 248)


 このように川田は上記新聞記事が伝えた「ヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた」様子を具体的に語っていく。川田が初めて見た裴奉奇の住まいは「物置として母屋の脇につけ足された」と思われる窓一つない「小屋」であった。水道もガスもなく電気だけが通っている。飲料水は隣家から金を払い運んでくる。基本的なインフラも整備されていない「小屋」で人を避けて暮らしていている様子が語られる。人に見られたくないのは、周期的に襲われる猛烈な頭痛によって取り乱した姿を見た沖縄の子どもたちが、沖縄の方言で気がくるっている様を指す「フラー」と叫びながら、石や空き缶を投げつけてくるからだと裴奉奇は語っている。裴奉奇の足跡をたどりながら植民地下での貧しい暮らし、慰安婦として沖縄に連れてこられたこと、そして貧しい暮らし、治療不可能な猛烈な頭痛、気狂いと叫ばれ迫害される「長い戦後」が、川田によって丹念に語られる。川田は裴奉奇の人生を次のようにまとめている。


 晩年、ポンギさんの持病の頭痛の周期が次第に遠のき、安寧な日々を獲得し、安らかに永眠したことは大きな救いだ。
しかし、日本の植民地支配によって、ポンギさんの人生は朝鮮においても、沖縄においても、社会の最下層でいたぶられ続けた。その償いは何も受けずに死んだ。
 植民地朝鮮から戦地に連行された慰安婦は何人いたのか、そのうち何人が死に、何人が生き残ったのか、その数さえ戦後四六年を経た今日、明かにされていない。日本軍が侵略した中国大陸、東南アジア、太平洋上の小さな島々で、いまだ慰霊されることなく慰安婦の霊はさまよっている。生き残った女たちもまた、戦時以上に苦悶して戦後を過ごしてきているであろうことは想像にかたくない。
(川田 1992: 253)


 続いて、川田が同論文をここまで書いた1991年12月9日に、日本政府に対して戦後補償を求め提訴した元慰安婦の一人である金学順が、従軍慰安婦問題ウリヨソン・ネットワーク主催の「金学順(キム・ハクスン)さんの話を聞く集い」で、約450人もの聴衆を前にして証言したことに言及される。そこでは「日本政府は行ったことを認め、一言でも間違いだったといってほしい」という「被害認定」と「謝罪」を求める被害者の声が語られた。
 川田の論文は、裴奉奇の植民地下の極貧生活、だまされて性を蹂躙された「慰安婦」とされたこと、そして「戦後」はその償いをうけることなく余儀なくされた最下層の生活を表象していた。そして裴奉奇亡き後に、おなじくだまされて「慰安婦」とされた金学順の思いを朝鮮独特の「恨」という概念とともに連続した出来事として語る言表によって編制された言説は、日本軍「慰安婦」を植民地支配から戦中、そして「戦後」まで続く日本の加害責任を「告発」する被害者として構築していたのである。

参考文献
川田文子,1992,「遺志は引き継がれた——元従軍慰安婦ポンギさんの生と死」『世界』(564),246-253.
————,1987,『赤瓦の家』筑摩書房
水野孝昭,2019,「慰安婦報道の出発点——1991年8月に金学順が名乗り出るまで」『神田外語大学紀要』(31),241-269.
M・フーコー慎改康之訳,2012,『知の考古学』河出書房新社