幸福なポジティヴィスト

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『狂気の歴史』 序言

 

序言

 

狂気の歴史の零度を、つまり狂気が未分化の経験であり、分割自体によってまだ分割されない経験である、あの零度を、歴史の中に発見しなおす必要がある。(p.7)

 

そうした場合、そうした場合にのみ、狂気の人と理性の人が、分離しつつあるがまだ分離されていない領域が現れうるだろう。……。そこでは、狂気の非狂気、理性と非理性とは雑然と入りくんでいる。(p.7)

 

精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流していない。……。両者のあいだには共通な言語は存在しない、むしろもはや存在しないのである。(p.8)

 

私はこの言語(狂気についての理性の側の―精神医学の―言語)の歴史を書こうとしたのではない。むしろ、こうした沈黙についての考古学をつくりだすことが、私の意図である。(p.8)

 

 

いずれにしても、〈理性〉―〈非理性〉の関連は西欧文化にとって、その独自性の重大な一面を形づくっているのであり、その関連は、すでにジェロームボッシュ以前の西洋文化に付随していたし、ニーチェアルトー以後のそれにも付随するようになるだろう。(p.9)

 

ある文化に、その経験―限界の点で問いかけることは、歴史の極限において、いわば文化の歴史の誕生そのものたる裂け目において、文化を問題視することである。こうして、弁証法的分析のもつ時間的連続性と、時間のかたわらでの悲劇的な構造の完了とが対決させられ、常に切迫した解決を迫られるのである。(p.9)

 

われわれの西欧文化の境界で、これらの経験の一つ一つが限界をえがき、同時にこの限界が原初的な分割をしめしている。(p.9-10)

 

このことは、道徳や不正行為の黙許についての年代記を書くためではなく、欲望の開花する世界の悲劇的な分割を、西洋世界の限界として、その道徳の起源として解明するためである。最後に、いや手始めに、狂気の経験について語る必要があるのである。(p.10)

 

 

すなわち、認識に関する一つの歴史が問題であるのではなく、一つ経験の基本的な動きが問題なのである。精神医学の歴史ではなく、知によるあらゆる把握以前の、活動している狂気それじたいの歴史。(p.12)

 

だが多分そのことは二重の意味で実現不可能な課題だといえるだろう。というのは、その課題によってわれわれは、何もによっても時間につなぎとめられていない、埃のような、あの具体的な苦しみ、あの狂った個人発言を再構成するように促されるのだから。しかもとりわけ、こうした苦しみと言葉が存在し、それら自身と他の人々に示される場合というのは、すでにそれらを告発し支配している、例の狂気の分割という行為においてでしかないのだから。(p.12)

 

したがって、狂気の歴史を書くとは、次のことになるだろう。狂気のありのままの野生状態は決してそれ自体としては復元されえないので、狂気をとらえている歴史上の総体―さまざまの概念・さまざまの制度・法制面と治安面での処置・学問上のさまざまの見解―の構造論的な研究を行うこと。だが、原初状態の純粋さに接近できず、それを欠いているのだから、構造論的な研究は、理性と狂気を結びつけると同時に分離している決定のほうへさかのぼらなければならない。そして、正気と基地外の統合にもその対立にもひとしく意味づけをする、永久不変なやりとり、両者に共通な根元、原初的な対決―それらを発見する努力をしなければならない。(p.13)

 

 

古典主義時代……は、狂気と理性のやりとりが言語活動を変化させる、しかも根本的に変化させる時期をまさしく包括している。狂気の歴史では、二つの事件が特に鮮明にこの変質を特徴づけている。すなわち、一六五七年の〈一般施療院〉Hôpital généralの創設と貧民の《大規模な監禁》、および一七九四年のビセートル収容施設に鎖でつながれている人々の釈放。……。ところが実は、こうした相互に転換しうる意味づけのかげに隠されて、一つの構造が形づくられているのである―こうした曖昧さを解明しないがそれを決定する構造が。この構造こそが、中世的で人文主義的な狂気経験から、狂気を精神病の中に閉じ込める現代の狂気経験への移行を説明するのである。すなわち、中世には、そして文芸復興期までは、狂気と人間との論争は、人間を世界のかずかずのひそかな力に対決させる劇的な論争であった。(p.13-14)

 

ところが、こうした狂気経験の前者から後者への移行は、イマージュをもたず実体性をもたぬ世界が、一種の透明な沈黙の中でつくりだしたものであって、この透明な沈黙によって、大きな不動の構造が無言の制度・注釈ぬきの営み・無媒介な知として現れる。(p.14)

 

しかも、私の見るところでは、この研究のなかの最も重要な部分は、私が古文書のテキストそのものに残しあたえた地位になるだろう。(p.15)

 

しかも狂気について語る場合、例の「別種の狂気」、そのおかげで人間が狂気じみないでいられるあの「狂気」のみに関与する必要があった。他方、この「別種の狂気」は、狂気についての際限のない論争のなかにそれを引き込む原初的な生においてしか描きだされえなかった。したがって、支えのない言語が必要であった。すなわち、活動をはじめているが〔理性と狂気の〕交換を許容するはずであった言語、たえず自らを訂正しつつ、連続的な動きによって奥底までいたるはずだった言語が必要であった。なんとしても相対的なものを保持し、絶対的に耳をかたむけてもらうことが重要だった。(p.15)

 

その点に、この単なる表現法の問題のなかに、この企ての主な困難は隠され表現されていた。すなわち、必然的にその手前にとどまっているべき、理性と狂気との分割ならびに論争を、理性の言語の表面にまで引きよせねばならなかった。(p.15)

 

まず第一に、ジョルジュ・デュメジル氏にたいしてであって、氏なしには、この研究は企てられなかっただろう―スウェーデンの夜がすぎていくおりに企てられなかったにちがいないし、また、大きな頑固な太陽のようなポーランドの自由のもとで完成しなかったにちがいない。(p.15-16)