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中山元『フーコー入門』第2章 狂気の逆説

 中山元の『フーコー入門』は第二章で『狂気の歴史』を取り扱っている。

 『狂気の歴史』は『精神疾患と人格』(初版邦訳は中山元訳で『精神疾患とパーソナリティ』となっている)に続くフーコーの第二作目で、彼はこの作品で1961年に文学博士号を取得している。
ただ、フーコーは『狂気の歴史』を自身の処女作と位置付けており、事実その後のフーコーの思考の方法論となるさまざまな要素を含んだ書物である。

 フーコーはサンタンスの精神病院で研修をしていたころ、患者の精神分析ではなく、患者と医者の関係が持つ意味に直面した。

 「これほど劇的で、これほど緊張が張っている関係。調整され、科学的な言語表現によって正当化されているとしても、これは非常に奇妙な関係であり、ほとんど戦いであり、対立であり、攻撃性の関係であることに変わりはなかった」(p.38)。

 フーコーの関心ごとは①心理学の科学性と②精神病院という制度の歴史性の二つのテーマであり、本書はまさにこの点をめぐって展開される。
 よって、タイトルにあるような「狂気」そのものの歴史を探求することはしない。本書は「狂気」が近代以降の西洋社会において、いかにして「精神の病」と考えられるようになったのかを問いながら、精神病理学の成立条件そのものを解明する試みである。現在、狂気は精神病として扱われるが、この精神病という概念は新しく、これまで狂気は病気として扱われていなかった。例えばルネサンス期の狂気は人間のなかにあるすべての悪を支配する宇宙的なヴィジョンを持つ形象であった。
 しかし、古典主義時代の初期になると、合理的意識が強まることで狂気が批判的に分析され、「理性」の名のもとに狂気は「非理性」として排除され、監禁された。

 監禁の端緒となったのは1656年にフランス国王「一般施療院」の設立を命じる布告である。ここには「理性」に反するものとして貧者が監禁された。この種の施設は以前のらい病治療院の内部に設置されることが多く、この病の消滅と共に、「非理性」の人々を監禁する空間となったのだ。

 フーコーは監禁施設の拡大は人々の間である感情が共有されたことに原因があると考えた。そのある感情とは主に労働観の変化に起因する。マックス・ウェーバーが示したように、ルターの宗教改革によって労働は厭うものではなく、自分が救済することを確認するための一つの手段となった。つまり、労働は神聖な行為となった。貧困を神聖なものとする感性から、貧困は非難すべきであると考える感性へと移行したのだ。この感性では労働しないことは「神への挑戦」であり、この倫理観のもと監禁施設内のものは強制的に働かされることになる。

 この施設内に監禁された「狂気」は何らかの罪を犯したものとして考えられていて、医者の「治療」行為は同時に罪を「罰する」という道徳的な行為となった。さらに狂気の「判定」も道徳的な要素であった。当時、ある人間を「狂気」と判定するのは家族であり、家族の道徳律に反するものが「狂人」として施設に送られてきていた。すなわち、ここで形成されたのは雑多な「非難すべき行為」をまとめるカテゴリーであり、それが「非理性」である。理性と非理性、理性と狂気の分割を可能にしたのは、道徳的な意志であった。そしてフーコーは現代の狂気に関する科学的で医学的な知識も、この経験から自由でないことを指摘した。

 一方、監禁された非理性ではない「本物の狂人」は見世物にされていた。パリ市民の日曜の気晴らしは重症の狂人の見物だった。
 「狂気は、見られるべき物となった。もはや自己自身の奥底に潜む怪物ではない。奇妙なメカニズムをそなえた動物であり、ずっと前から人間性が消滅している動物性そのものである」(p.46)
見物の対象になったのは、狂人は人間ではなく動物だからであり、動物に道徳は適用されないからである。そのため彼らは治療の対象ではなく、調教によって動かされる者たちだった。すなわち、この当時の非理性のカテゴリーには①有罪の人間と②無罪の動物の二種類が存在したことになる。

 しかし、市民社会の発達と新しい経済観によって新しい感性が誕生する。新しい経済学において、人口はそれ自体で富の構成要素となる。それゆえ、労働しない貧民を監禁することは労働力の不足と慈善事業にあてる費用という二重の経済的マイナスを引き起こすことになる。そこで新たな自由主義的経済策は監禁施設を無駄なものとして廃止し、狂気を生産の循環の中に位置づけようとした。
 すなわち、狂気が解放されたのは、「人類愛が何らかの形で介入したためでも、狂気の〈心理〉が科学的で実証的に認知されたためでもない。経験のもっともひそかな構造のなかで営なわれてきた緩慢な作業のおかげである」(p.48)

 しかし、精神医学の歴史において長らく語られてきた神話には、「近代精神医学の創始者」として名高いフィリップ・ピネルの「鎖からの解放」がある。

 ここにその神話の概要を紹介しよう。
 革命直後、ビセートルの監禁施設において、ピネルは狂人たちを縛り付けていた鎖を解き放ち、患者たちを理性的な人間として取り扱うことを決定した。しかし、そこに革命政府のイメージを代表する「不具者のクートン」が施設を訪れる。反革命の容疑者が潜んでいるのではないかと疑ったからである。クートンは施設に監禁されている者たちを前にしてからピネルに対して「おい同志、こんな獣たちの鎖を解こうとするなんて、君も狂っているのか」と尋ねた。ピネルは静かに「同志よ、私の確信しているところでは、これらの精神錯乱者たちは、空気と自由を奪われているからこそ、これほど治癒しにくいのです」と答えた。
 クートンが立ち去った後、最初にピネルが解放したのは、給仕人を殴り殺したイギリス人中尉であった。ピネルはこの中尉に、理性的にふるまうことを約束するなら、鎖を解き、中庭を歩く自由を与えると申し出る。中尉はこの条件を受け入れ、中庭を走ったり、階段を下りながら、たえず「なんと美しい!」と叫んだ。彼はその後二年間ビセートルにとどまったが、もう発作的に暴力的になることはなかった。彼はこの施設な有益な人物となり、狂人たちに一種の権威を振るうようになった。自分なりにきょうじゃたちを支配して、いわば番人となった。

 この神話では鎖の解放によって患者が理性を取り戻したとされているが、フーコーはこれらの患者が取り戻したのは「すっかり組み立てられた社会的なさまざまな類型」であると指摘した。つまり、ピネルが解放した狂人は正気に戻ったのではなく、社会的なパターンに従って行動できるようになっただけである。「ピネルにとって狂人の治療とは、道徳的に認められ、証人さr他社会的な方のなかに狂人を安定させること」である。これまで狂人は鎖で身体をつながれていたが心は自由だった。しかし、ピネル以降の狂人は身体はピネルに貫かれ、心を鎖でつながれたことになる。他社の道徳を自己の道徳とし、社会的な道徳な事故を確立し治癒するのである。

これは非常に逆説的な事態であった。そもそも狂気は、主体が自己と社会から疎外されることによって発生するのであり、その治療が求められていた。しかし、狂気が治療されるためには、実存を疎外する道徳性に服しながなら実存としての事故を疎外する社会のなかに自己を疎外したままで復帰することを求められるのである。これは狂気の治癒にまつわる逆説である。

こんな治癒をする精神病理学とは何ぞや?これは科学なのか?

一般的な精神医学の書物ではこう述べられている―狂気は近代まで病人ではなく、犯罪者と同列の施設に監禁されていたが、近代に入り精神医学が進むことで疾患として認められ、監禁から解き放たれたのだ。

しかし、フーコーは医学の発展が狂人を疾患として認めたのではなく、狂人が精神の病として見られたから医学が誕生したことを明らかにした。「19世紀の「人間愛」が狂気を「解放」したという偽善的な形式で閉じ込めたこの「道徳的なサディズム」なしには、この心理学という者は存在しなかっただろう」

このように狂気の歴史をえがくことは、心理学が誕生するための条件をえがくことであった。

フーコーは人間が主体となると同時に客体となる一連の学問を人間科学と総称するようになるが、心理学はその代表的学問である。フーコーは人間科学の科学性を追求するというむなしい課題を放棄する。フーコーがこれから課題とするのは、こうした人間科学の誕生の秘密を暴き出すことによって、その内的な抑圧の機能を解除していくこと、そしてこの社会において悲劇的な分裂を経験しながら、理性の根源的な自由を語り続けた「狂人たちの言葉」を掘り出していくこと。
この人間科学という学問の誕生の条件を解明し、その人間学的な前提を批判していく課題を遂行することが、考古学という方法である。