幸福なポジティヴィスト

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David McCallum, 1997,“Chapter 3 Mental health, criminality and the human science” , Foucault, Health and Medicine, 53-73.

<書誌>
Alan Petersen and Robin Bunton eds. Foreword by Bryan S. Turner, 1997, Foucault, Health and Medicine, London: Routledge.

Foucault, Health and Medicine

Foucault, Health and Medicine


Contents

List of contributors

Bryan S. Turner, 1997, Foreword: From governmentality to risk, some reflections on Foucault’s contribution to medical sociology

Acknowledgement

Introduction: Foucault’s medicine Robin Bunton and Alan Petersen

Part Ⅰ Fabricating Foucault
1 Foucault and the sociology of health and illness: a prismatic reading
David Armstrong
2 Is there life after Foucault? Text, frames and differends
Nick J. Fox

Part Ⅱ Discourses of health and medicine

3 Mental health,criminality and the human sciences
David McCallum


4 At risk of maladjustment: the problem of child mental health
Deborah Tyler
5 Foucault and the medicalization critique
Deborah Lupton

Part Ⅲ The body, the self
6 Is health education good for you? Re-thinking health education through the concept of bio-power
Denise Gastaldo
7 Bodies at risk: sex, surveillance and hormone replacement therapy
Jennifer Harding
8 Foucault, embodiment and gendered subjectivities: the case of voluntary self-starvation
Liz Eckermann

Part Ⅳ Governmentality
9 Of health and statecraft
10 Risk, governance and the new public health
Alan Petersen
11 Governing the risky self: how to become healthy, wealthy and wise
Sarah Nettleton
12 Popular health, advanced liberalism and Good Housekeeping magazine
Robin Bunton

Index



David McCallum, 1997,“Chapter 3 Mental health, criminality and the human science” , 53-73.(=ディヴィット・マッカラム,1997,「chapter 3 メンタルヘルス、犯罪性、人間科学」.)

Introduction: Law and Phychiatry(法と精神医学)
フーコーの『狂気の歴史』は出版から30年が経過した現在でも、歴史家たちの議論を引き起こしている。この本は、「美しい本」であり、経験的根拠の表面に飛び込んだ一連の「過度な単純化」であり、そして文化の歴史を記述するための新しいモデルである。
・本書の受容に関する最近の研究は、フーコーの「複雑な解釈枠組み」の成果に関する実際のテストはなかったと主張している。
フーコーの著作群は、しばしば歴史的記述の政治性と知識人の役割について難問を提起してきたため、歴史からの「いら立ち」の原因を原因であった。

フーコーは「方法論の問い」におけるいくつかの批判を処理し、彼の著作が説明枠組みを含んでいないとする主張に応えようとする試みるところに位置付けた。
フーコーは、自分を批評する人らはフーコーの研究に構造がないことの不満であると分析した。つまり上部構造も下部構造も、マルサスのサイクルも、国家と市民社会の対立も、そこにはない。歴史家の操作を支えてきた図式もない。

・要約された英訳版が、いまだにフーコーオリジナルの『狂気の歴史』を、英訳版読者に「知られていない本」の何かにしているという事実にもかかわらず、狂気の歴史についての議論は継続する。

・「フーコー歴史家」については未だ決まっていないものであるが、フーコーフーコーの著作に影響を受けたものらが、フーコーが「現在についての(複数形の)歴史」—いま、ここにある諸問題を診断するという目的のために歴史的な調査を活用すること—といった研究方法を作り出したという貢献は認めなければならない。

フーコーの関心の主な領域は、自由であることが近代のリベラルな社会において行使される諸形態を問題化していこうとする方法として、現代の刑法システムの機能、メンタルヘルスシステム、分散し配置されている統治の制度的メカニズムを関係づける。
→この意味で、フーコーの著作は、独自の歴史的な研究を通じて発展した概念的な「ツールボックス」の結果として、大いに古い問題への新しいアプローチを勇気づけてきた。

図式や閉鎖を与えることというより、知的な勧誘を含意は、彼の研究方法を異なる種類の方法で、新しい領域を図示し、問題を定式化するやり方として取り上げることである。規律技術という観点でポーズされた、アサイラムと監獄について彼の仕事は方法論的背景についての分野の事例的位置づけとして、そして歴史より重い重量の背景についての分野の。

彼の歴史学的な調査の活用は、過去の経験的な音の記録を与える専門的歴史家というよりも、現在の諸問題をエルシデイトしようとする哲学者として、である。
フーコーは知識人の役割についてより制限された主張を、「分析の道具、存在論的かつ地理学的な調査」与えることで、作り出すこと、そして人間の状態のいまだ探索されていない領域の地図をつくることを追加するものとして歴史を活用しようとした。


犯罪性と狂気に関する従来の歴史的研究の多くは、これら二つの領域の制度的な発展の内部のダイナミクスを図示する個別的(非連続的)な研究を構成する。フーコーの法と精神医学への介入は、それらの集合性(収斂)と相互関係を強調することで、2つの領域を問題化するための理論的根拠を与えた。

フーコーは、法と精神医学の同時代の作動における複雑な相互依存性が、19世紀初頭ヨーロッパの刑法での(犯罪に関する)責任能力の変容から生じた。ヨーロッパの刑法は、徐々に犯罪行為のわかりやすさが個人の性格や経歴(素性)と対比して言及されていくようになった。

心理学的に決定された行為が見出されるにつれ、その作者は法的な責任能力を考慮されるようになる。行為が、いわゆる根拠もなく未確定になるにつれ、ますます許されるものになるだろう。逆説:主体の法的な自由性は、主体の行為が不可欠で、確定されたとみなされるという事実によって証明される。責任能力の欠如は、彼の行為が不必要なものとしてみなされるという事実によって証明される。(フーコー

相互的な機能は、巨大で怪物のような犯罪だけではなく、日常的で少数の違反行為と一般的な過失の裁決を確立させた。多様な心理学と精神医学の記録の増加の間で。
精神異常と精神病の概念が変化するにつれて、精神医学と犯罪学的連続は人の精神医療の状態とカテゴリーの果てしない急増を許した。

法と精神医学の歴史的な共同性の認知、それから「犯罪の危険を精神医学化すること」の含意は、心理学と精神医学のカテゴリーとこれらの今日の社会的機能の発展を理解することに批判的である。従来の精神医学の歴史、刑法と犯罪のより散逸した歴史のどちらも、こうした視座を形成することに役立たない。

人間のカテゴリーは、精神医学や犯罪性のどちらかの歴史を発展的に遡る連続的な線によって今日に出現しているのではない。むしろ精神医学と犯罪性の領域の交差するところで構成されているのだ。


本章はパーソナリティ障害の心理医療的な概念と危険性の計算の相互作用を試験することに関係する。パーソナリティ障害の言語と概念的地形は、社会活動、行政長官の法廷、精神保健システム、恐ろしい犯罪の事例において、「問題」集団を計算し、管理するルーティンに入ってくる。

注目は危険性の問題の精神医学、心理学、法学の文献にも与えられた。そしてそれらの管理における犯罪の裁きとメンタルヘルスシステム

前提を支える一つには、法と医療が単に出来事への異なる興味を持つ。医者は診断とケア、裁判所は人と特定の行為の相互関係。
精神医学は法律内の最近の事例が概念的な境界を定義することが基本的にはできないと暴露。法学は、人の精神医学的な状態について「虚構(フィクション)」を訴えるというより、危険であることに関連するそれらを制限すること許可するため雄より柔軟な法理論を必要を訴える。
パーソナリティ障害が精神病かどうかは2つの領域間の論争の進行中の根源である。「頭の病気」を構成するものの権威的で一般的に受け入れられている医療的な定義なんてない。精神病の診断の信頼性の欠如、そして精神医学はあらゆる偉大な正確をともなって危険性を予言することは一般的に不可能である。

パーソナリティは単に人の人格的形式


パーソナリティは、子ども時代から心理学的に機能するある形式に言及するとグレイザーは言う。対照的に、精神病はパーソナリティ内の質的な変化に帰着する。行動における突然の変化と関連して。
メンタルヘルスアクトが何が精神病かを定義しなかったが、精神病の人が非自発的に病院に収容されうる以前に満足される状況をつくった。この点において、精神医学はパーソナリティ障害を排除するための正当化を確立した。

セクション8(2)は、非自発的な拘留を正当化するために使われるべきではない「社会的かつ政治的逸脱者」の事例と並んで、非社会的な個人をリスト化した。ある政治的な信念を表明すること、普通ではない性行動をするもの、知的な遅れであること。彼らの社会的地位のため、ある人びとは他の人より非社会的なパーソナリティをもつものとして定義される可能性もあった。この観点で、「持続的な(しつこい)悪さ」が、個人の意思に反して処理されなければならない病気であると主張するための試みは、市民の自由にとっての脅威を構築し、自由な社会と正反対である。


・パーソナリティ障害の言語と概念的な形
言語が存在の新しい領域と公権力の働くための新しい空間を切り開くという観点から

・これは言語を人間について思考の新しい形を生みだすための道具であるとみなす。それと管理と統治される必要がある人間の状況の料理気を計算する新しい方法とみなす。
「知の技術」としての言語が人間の存在とカテゴリーの特定のタイプに関する知を生みだすために時をまたいで行為する。個人を管理し人口を統治するために。

・カテゴリーはどのように出現したのか。そうした人格が出現する用語法における区別と特別はどのようなものか。もしくは、危険性の問題とパーソナリティ障害の心理医療のカテゴリーにおける社会秩序の違反と危険性の問題を考えることをどのように可能にしたのか。

・精神異常者、知能障害、犯罪、そして彼らの共通する制度的な場所の間の区別の歴史についてのいくつかの最初の意見をつくらせる。
新しい個人の精神的な(内部の)空間として、個人を計算するための技法を試験することから離れる前に。



SEPARATEING PRACTICES: TECHNIQUES OF CALCULATION(個別の実践:計算の技法)





Conclusion
・パーソナリティとパーソナリティ障害のカテゴリーに関する既存の確実なことと真実性の多くは、その同時代的な使用の系譜学的な分析をするという試みによってかき乱されている。個性のカテゴリーはここでは、個性の自然的(本質的)、非歴史的な内容というよりかは、ある歴史的な事柄の結果として理解されている。
①19世紀後半の学校教育、医療、他の社会衛生学の戦略のといった統計学的な手続きと行政改革を通じて達成された、集団(人口)の増加した個別化(個人化)が、人々の隙間を図示した。
②知の生産は、複雑性のすべてのなかの個人の内的な側面と関係している。そして、20世紀の心理に関わる学問の成長に関連している。
③よく調整された個性の形成と提示の要求を作り上げるような、個人の生活に関する規範の進歩を通じて市民を規制すること20世紀後半の政治権力の目的。

本章で示した歴史的なアプローチは、危険な個人という問題を考えたり、作用したりするための概念的な特徴がいかに人々を知り、理解するといった統治の試みの産物であるかを示そうとした。人間の特定のタイプについての知が、法と精神医学の間の相互作用の複雑さという手段によって可能にされた。それらが作動する制度的な空間。
法や医療において示された人間科学の偶発的な発見や人間の本質的な性質というよりは、

この「犯罪の危険性の精神医学化」は、変容されるべき個人の本能と動機と意思に焦点を当てる管理の新しい諸技法を含んだ共同作業と関わっている。