幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

アルヴァックス「第4章 思い出の位置づけ」『記憶の社会的枠組み』

<書誌>
Maurice Halbwachs, [1925]1994, Les Cadres sociaux de la mémoire, Albin Michel.(=鈴木智之訳,2018,『記憶の社会的枠組み』青弓社.)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

目次

前言
第1章 夢とイメージ記憶
第2章 言語と記憶
第3章 過去の再構成

第4章 思い出の位置づけ   ⇦いまここ!

第5章 家族の集合的記憶
第6章 宗教の集合的記憶
第7章 社会階級とその伝統
結論
訳者あとがき
人名索引
事項索引


「第4章 思い出の位置づけ」

〇心理学による思い出の整理
・心理学は思い出の再認(reconnaissance)と思い出の位置づけ(localisation)を区別する。
再認することとは、既知感を持つこと。自動的になされる。
位置づけすることとは、思い出を時間軸の中で認識できること。反省的努力が必要であり、精神活動が加わる。
→再認から位置づけのプロセス。記憶と理性の関係は、再認では認められず、位置付けようとするかぎりにおいてみられる。

・獲得から再認までの記憶の本質は、純粋に個人的な心理的・生理的活動によって説明される。
→個人的記憶(獲得から再認)→社会的記憶(位置づけ)という段階を経ていることになり、他者との思い出の一致は、思い出を作り出す事より、思い出の整理となる。

・心理学者による思い出の議論は、感情:観念=再認=位置づけ、獲得―再認―位置づけのプロセス

〇心理学に対する反論
・どのような思い出であっても、私たちは、正確にいつどこでとは言えなくとも、少なくともどのような条件の下でそれを獲得したのか、すなわち同様の条件の下で獲得される思い出のカテゴリーはどこに属しているのかを、述べることができる。(p.160)
→言い換えれば、私は社会生活のどのような領域でその思い出が生まれたのかを常に指示することができるのである。(p.160)
→既視感を覚え、この人は誰だ、これはどこだ?と自問自答することは、再認には位置づけの最初の試みが伴っていることを示している。
⇒したがって、すでにあったことがあるという感覚とほぼ同義であるこうした広い意味での位置づけと、心理学者たちが語る厳密な意味での位置づけの間には程度の違いしかない。位置づけの始まりにならないような再認、つまり、少なくとも問いという形をとってすでに反省が介在していないような再認は存在しないのである。(p.161)


〇思い出の呼び起こし―再認―位置づけという古典的図式
ハラルド・ヘフディングの即時的再認
⇔ハラルドがあげた事例は、どれも複合的ではない単純なもので、即自的再認は、言葉の媒介によって説明される(レーマン)。

ベルクソンの議論
・現在の近くが単に相互の類似によってそのイメージを引き寄せた。
⇔私たちが捉えた類似性とは、現在の印象とそこに再現する過去の印象ではなく、現在の心理的枠組みと、やはりまた相対的に安定した概念によって構成された他の枠組みのあいだにあるものだということ、そして、、、(p.163)。

〇直接的な再認のケースってあるのか?
思い出の日付を突き止めようとするには、思い出がなければならないという人がいる。
⇔時間をたどりながら思い出を呼び戻していく方が普通じゃないか?
→したがって多くの場合、位置づけは再認に先立つばかりではなく、思い出の喚起に先行していて、位置づけが喚起を規定しているのである。それはつまり、位置づけはそれだけですでに、再認された思い出の内容になる部分を含んでいるということである。これは反省的な思考だが、しかし観念という形で、すでに具体的で感覚的なものを含んでいる。その意味では、多くの場合、位置づけが思い出のありようを説明するのである。(p.164)

ベルクソンの位置づけ理論
・イポリット・テーヌの理論との対比によって提示した。
→自分の思い出の集まりの中に入り込んでいくようなものではない。
ベルクソンにとって、実際には位置づけの作業とは、次第に大きくなっていく拡張の努力の中にある。記憶は常にそれ自体に対しては丸ごとすべてが現前しているのだが、この拡張によって、次第に大きなものになっていく表面に様々な思い出を拡げていき、それまで渾然一体となっていた集まりの中から、位置づけを見出せなかった思い出を識別していくにいたるのである。(p.165)
→思い出は記憶が収縮しているときには、ありふれた形を取り、拡張しているときにはより個別的になる。
⇒「ほかの思い出を支える支点となっている支配的な思い出」。

〇アルヴァックスの思い出の位置づけに関する議論
私たちはどこにあるのか全く分からない思い出の位置を突き止めようとするわけではなく、思い出の総体から特定するわけでもない。思い出は常に、それ自体の中に、その位置を突き止めることを可能にする何らかのしるしをまとっていて、過去は私たちの前に、多少なりとも単純化された形で姿を現すのである。(168-169)

行き当たりばったりに過去を思い出すのではなく、「挿入とはめ込み」によって特定されていく。
「行き当たりばったりなどではまったくなく、かなり論理的に導かれていったひとつながりの思考の結果として思い出したのである。」(171)

ここでもまた一連の推論を経て、私は一つの感覚的状態を再構成するにいたったのであり、その状態の内容は、実は、こうした他の状況との関係によって作り出されていたのである。(175)

〇思い出の位置づけ、または記憶の枠組みとは、いったいどういうものなのだろうか?
ベルクソンの提示した支配的な基準点
→枠組みは日付と場所に関する静態的な体系、そして思い出の位置づけの度に全体を思い描いていると考える。自分の生活上の出来事全て、総体を展開させていく必要があると考えている。
⇔そこまでせずとも、何らかの形で既に存在する概念の集合ばかりではなく、その概念を出発点として、単純な推論にも似た精神のはたらきによってたどり着くこともできる。(176)言い換えれば、現時点からみて近か遠いかに応じて変化する枠組みが存在する。

・現在の知覚とのつながりのイメージの系列的な連なりが存在する(過去—最近の過去—現在)。したがって、その連なりを遡ることができる。
⇔なぜ途中で遡ることができなくなるのか説明できていない。

・記憶の枠組みとは、純粋に個人的な枠組みではなく、同一の集団に属する人々に共通のもの。したがって、ありありと思い出せるのは集団がそれを重要と見なし、保存しているからである。
→集団は空間的には相対的な安定しか有していない。成員の変化、時間の経過に従って絶えず変化していく。社会的事実として保持され、時間の経過とともにある個人にとってだけ重要性を持つことになり、集団はそれに対する関心を失う。
→最近の様々な出来事は、社会がまだ重要性を整理できていない。しかし整理が終え次第、保持されるか、忘れられるかが決定していく。

〇以前に得た思い出に対して巡らせた反省的思考は、現在からある程度離れたところで断ち切られているように思われるのか?
・イメージの鮮明性と親密性の区分。
→遠く離れた場所にある建築物のイメージは親密性に乏しいとしても鮮明なイメージである。最近の出来事は鮮明だが親密性はない。過去の出来事は新鮮さは失われているが、より明確であり、より従順であり、親密である。
⇔こうした区分に意味はない。最近の出来事は鮮明でもあり、親密である。

・出来事に付随して生じた思考は何度も立ち返っていた可能性がある。
→新しい出来事に出会う度に、再適応の作業が生じているので、常に全体に立ち返る。前の事実からその次への移行という線条的なものではない。常に現在の枠組みの更新が行われている。社会も常に変化、消滅、生成される中で、出来事全てが関心を引き付けるわけではないがそれなりに出来事を記憶している。それは私たちの身の回りに起こることは自分にとってどのような結果をもたらすのかが分からないあいだは、何一つ自分にとって無関係なものではないという信念があるからである。そして結果が分かり次第、出来事は整理されていく。
→しかし、こうした思い出の漸進的な忘却はすべてが同じ速さで進まない。同時に複数の集団に所属しており、その集団と個人との結びつきの強さがその速度を変えていく。

・人の記憶はその人を取り巻く集団や、そうした集団が最も関心を寄せる観念やイメージによって決まるということを、基盤にして生じている枠組みがある。


〇まとめ
・過去の特定の思い出の位置と隣接する思い出にたどり着くのは、隣接する思い出が特定の思い出を枠づけているからである。しかし、ベルクソンがいうように、すべての思い出を呼び起こし、支配的な思い出を基準点に徐々に拡大されていくのではない。支配的な思い出とは、思い出を再現するための「たくさんの思い出の中での、重要度や強度の順位を決定するのに役立つもの」である。
→ある一つの思い出に対して、過去に同様の重要性を持っていた出来事に対応するすべての思い出を、再現しなければならないという前提は過剰すぎる。というより、記憶すべてが存続しているというよりは、その人の現時点での関心に対応するいくつかだけである。したがって、今日のその人の観念や知覚と出来事との関係が重要となる。

・思い出を位置付ける際に、ある特定の領域を選び出したり、ある特定の思い出を出発点としてたどることができるのには、記憶がいくつかの単純な枠組みをもち、もしもっていなくてもそれらの枠組みをいつでも再構成できるからだ。この枠組みは人の思考の中に常に入り込んでいる様々な概念から作られていて、これらの概念は言語の形式と同様の権威をもって記憶に押しつけられている。

・思い出を位置付けるために必要な隣接領域の画定は、連想論の立場をとる心理学者とは異なり、
「最近の思い出を相互に結び付けているのは、それらが時間的に隣接していることではなく、それらが一つの集団に共有された一群の思考の一部をなしていることに基づいているのである。」(193)
→したがって、その集団の利害関心、集団の思考の傾向、視点を取り入れていけば思い出を呼び起こすことが可能になる。この集団を起点とした思い出の呼び起こしと思い出の位置づけを行っている。
⇒確かに思い出は連想され、それぞれが別の思い出を再構成する。「しかし、思い出のこのような様式は、人々の結びつきがとりうる多様なやり方から生まれるものである。個人の思考の中に現れるおのおのの思い出は、これに対応する集団の思考のなかに位置づけ直されてはじめて、十分に理解される。その人が同時に所属している様々な集団に個人を結び付け直すことによってはじめて、それらの思い出の関係上の力はどのようなものであり、どのようにしてそれらが個人の思考の中に結び付くのかが十分に理解されるのである。」(194)

・反省的思考=社会環境からもたらされる思考に思い出を結び付けたときにのみ、思い出は持続する。思い出を推論していくということは、自分の見方と周囲の見方とを、1つの観念の体系の中に結び付けることであり、それは社会的思考のもつ意味と射程とを常に思い起こさせるような事実の個別的適用を見ることである。
⇒「このようにして、集合的記憶の枠組みは、私たちの最も内面的な思い出までをも囲い込み、相互に結び付けている。」(195)


難解すぎワロタ

小森陽一『天皇の玉音放送』

<書誌>
小森陽一,2003,『天皇玉音放送』五月社.

天皇の玉音放送 (朝日文庫)

天皇の玉音放送 (朝日文庫)


目次
第一章 二十一世紀における歴史認識
第二章 「玉音放送」を読み直す
第三章 マッカーサーヒロヒト
第四章 「人間宣言」というトリック
第五章 戦後体制とは何か
第六章 サンフランシスコ講和条約日米安保体制下における象徴天皇制
終章 我らの戦後
あとがきにかえて

第一章 二一世紀における歴史認識
・本書は昭和天皇の名によって発表された詔勅を中心とした言説そのものの分析をおこなうことを課題としている。言説そのもののふるまい方、その行為遂行性、社会的機能を分析することである。
※本書を一読するとわかるが、天皇の言説と敗戦後の日本人が意識的にせよ無意識的にせよもっている様々な認識との間の奇妙なまでの一致点を見出すことができる。その結果は、昭和天皇ヒロヒトの戦争責任の免責であり、より抽象的には「国体の護持」である。憲法9条にすら見ることができる言説のもつ力を改めて感じる。


第二章 「玉音放送」を読み直す
〇なぜポツダム宣言を黙殺したのか?——ポツダム宣言から原爆投下まで
ヒロヒトソ連仲介の可能性に強く固執しており、陸軍大臣阿南がヒロヒトの意向を口実にして延期を主張し、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を黙殺することになった。ヒロヒト固執したのには次の理由からだ。1つは米英に劣らない国力があり、米英の無条件降伏を退けられる可能性があるからであり、もう1つは中立条約を締結している情義である(『昭和天皇独白録』以下『独白録』と略記する。)。(17)
ソ連仲介に固執した理由は、無条件降伏によって「国体の護持」が不可能になることを恐れていたからである。端的に言って、終戦間際の天皇及びその側近、政府首脳の関心は、国民の犠牲ではなく、「国体の護持」=ヒロヒトの命と三種の神器の守り方の一点である。(20)
三種の神器についての議論がある一方で、それ以外の状況判断は皆無である。したがって、こうした議論に時間をかけたことによって生じた犠牲がヒロシマナガサキ、そしてソ連侵攻による犠牲でもある。ポツダム宣言受諾の遅れの結果生じた犠牲は、国民の生命を無視し、国体護持をめぐる議論をあーでもないこーでもないとしていた結果生じたのである。「ポツダム宣言」13項には「日本政府が直ちに前日本軍隊の無条件降伏を宣言」することを求め、それ「以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみとす」と明記されていたことをどれだけ真剣に考えていたのか疑問である。(26-27)
・和平交渉の第一条件は「国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること」である。(28)
※国体と国民の命は天秤にかけられたことさえなかった。

昭和天皇ヒロヒトは誰のための涙を流したのか——御前会議から聖断まで
・初期の迫水久常終戦の真相」には、聖断が下ったときの会議場の雰囲気として、会議に出席する男たちが、はらはらと涙を流すシーンが幾度となく繰り返し描写される。しかし、この涙は対外戦争に負けたことのないという神話的歴史認識に基づき、面目をつぶしたことに涙している。「皇祖皇宗」にのみ向けられた涙は、東京空襲、沖縄戦ヒロシマナガサキへの死者に向けられて流された涙ではない。(32)
→例の耐え難きを耐え、忍び難きを忍びのところで偶然にもヒロヒトは声につまり、そこがこの国では繰り返しメディアで反復されてきた。鈴木貫太郎の自伝にはここで陛下が涙を流したことがまたもや登場する。この涙を流す描写は、女に比べてめったに泣かない男が男泣きに泣くのだからそれほど重要な出来事であることを強調するための男性中心主義的な紋切り型の表現でしかない。(40-41)
ポツダム宣言受諾の理由を「独白録」から抜き出してみよう。「当時私の決心は、第一に、このままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することができない。第二には国体護持の事で木戸も全意見であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田良神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」(33-34)
→すくなくとも「独白録」上では、まず第一に天皇を支える臣民が滅びることに恐怖した。そして次に固執したのは「国体護持」=三種の神器の移動の余裕が見込めず、その安否が不確かだからである。ヒロシマナガサキの33万の被害ではない。ヒロヒトの心を常に支配していたのは、「ただの器物」である。これほど破壊的な状況にあっても、「三種の神器」という器物の安全しかこの国の大元帥ヒロヒトの関心にはなかったのだ。(34)
→これが一回目の聖断。例の「subject to」をめぐって議論は再燃するのだ。

〇「subject to」になぜ固執したのか——「終戦詔書」をめぐる攻防
・「subject to」が従属するという日本語訳になることからポツダム宣言を拒否する動きが起こった。これに対し「独白録」は自分がリーダーシップを取り最終的にポツダム宣言に踏み切らせたことを強調する。ここには奇しくも、この国の最高責任者としての天皇の姿がくっきり浮かび上がる。やはり国家主権の行使はヒロヒトにあるのだ。(37)
・受諾に踏み切った理由を「独白録」は「ビラが軍隊一般の手に入ると「クーデター」の起こるのは必然である。そこで私は、何をおいても廟議の決定を少しでも早くしなければ……」と記しているように、ヒロヒトは自分をターゲットにしたクーデターに恐怖している。「国体の護持」と言えば国家全体のことのように思えるが、要はそれを体現するヒロヒト自身なのだ。(38-39)
・「終戦詔勅」に関する迫水原案には3つの訂正が入った。その3つ目には、この国が「三種の神器」に固執したことが凝縮されている。
原案「朕は忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に神器を奉じて爾臣民と共に在り」。
→石黒農相が「神器とむやみに書けば、占領軍が好奇心や意図をもって神器を詮索するかもしれないから、むしろ削除しよう」と提案。そして阿南陸相は「国体護持」の確実性にこだわり「茲に国体を護持し得て」を加えることを提案。
⇒「朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り」となった。このプロセスからわかるのは国民の生命など眼中になく、常に国体=三種の神器を護持し得るかがアジェンダとなるこの国の最高責任者とその側近の姿である。(42-43)

竹内洋『教養主義の没落』

<書誌>
竹内洋,2003,『教養主義の没落——変わりゆくエリート学生文化』中央公論新社

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)


目次
序章 教養主義が輝いたとき
1章 エリート学生文化のうねり
2章 50年代キャンパス文化と石原慎太郎
3章 帝大文学士とノルマリアン
4章 岩波書店という文化装置
5章 文化戦略と覇権
終章 アンティ・クライマックス
あとがき

主要参考文献
人名・事項索引


1.学生文化と教養主義
・ダンスや異性遊びが好きな「軟派」型、試験勉強にいそしむ「実利」型、運動部の学生のような「硬派」型などの学生下位文化と上位の支配的文化としての教養主義マルクス主義教養主義教養主義マルクス主義)が学生文化としてあった。
→こうした教養主義と言われた学生文化は、夏休みの必読書みたいな文学・哲学・歴史関係の古典だけではなく、「総合雑誌の購読を通じて存立していた面が大きい」と指摘される(13)。
→「昭和戦前期の旧制高校や大学生の教養は、学校の授業などの公式カリキュラムだけではなく、総合雑誌や単行本、つまりジャーナリズム市場を通じて得られていた。しかも総合雑誌の論文のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったと言われていることにも注意したい。」(14)
総合雑誌の読書率は学生の3割が読んでいた。もちろん一般庶民の多くは総合雑誌など読まない。『キング』に代表される大衆雑誌が読まれている。
・戦後の総合雑誌ブームは「常識」への欲求を満足させ、教養的なものを満足させていた。「人々は、総合雑誌を通じて教養主義者になったが、同時に総合雑誌の講読によって教養共同体を形成していたのである。」。「まさしく総合雑誌は知識人のきょう強権を形成する媒体であった。」(19)
・こうした読書を通じた人格形成や社会改良という意味での教養主義は、なぜかくも学生を魅了し、そしてその魅力は喪失してしまったのか?本書の対象は教養とは何かではなく、教養主義教養主義者の軌跡をたどり、エリート学生文化を記述していくことである。

終章 アンティ・クライマックス
教養主義の終わりは1960年代後半から始まる。
・マーチン・トロウ『高学歴社会の大学』は、高等教育は該当年齢人口の15パーセントをこえるとマス段階になるという説を出したが、1064年ないし1969年に日本の高等教育はエリートからマス段階に移行した。1970年代からは企業の大卒大量採用が始まる。大学生は専門からただの人になる。ただの学生に教養知はいらない。
教養主義は大衆文化との差異化をはかる特権的な学生文化であった。こうした教養主義の終わりは、反エリート主義文化を生み出したのではなく、大衆への同化をはかり大衆文化への適応戦略の文化を生みだした。それをサラリーマン文化と名付けている。(240)
→経済学者村上泰亮の「新中間大衆社会」。階級構造の溶解により、「伝統的な意味での中流階級の輪郭は消え去りつつあって、階層的に構造化されていない膨大な大衆が歴史の舞台に登場してきたように見える」のである。(234-235)。こうした膨大な大衆の中間意識は、大衆が正当な存在として感じられ、大衆からの逸脱は変人となる。これをオルテガは「凡俗の居直り」といった(オルテガ『大衆の反逆』)。
→サラリーマン文化は教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化である。(236)
・サラリーマン文化のこうした適応の機能は、理想(超越)や自省の文化ではなく、大衆文化と実用主義の文化の蔓延をもたらしたのではないか?(242)
※理想を掲げる左翼を鼻で笑い、自制を促す知識人を嫌い、ポピュリズムと無関心で出来上がっている現代社会を見据えているような。ニーチェのいう衆愚(畜群)の政治。

細谷雄一『歴史認識とは何か』

<書誌>
細谷雄一,2015,『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か——日露戦争からアジア太平洋戦争まで』新潮社.


目次
はじめに
序章 束縛された戦後史
第1章 戦後史の源流
第2章 破壊される平和
終章 国際主義の回復は可能か


1.国際社会との齟齬
・20世紀の前半に日本が国際社会の中でどのような軌跡をたどったのか。
→日本と国際社会の間で認識の齟齬が大きくなっていった。そのずれに多くの日本人が気付かず、国際社会に背を向けた。
・戦前に日本が陥った本質的な問題が、イデオロギー、時間、空間の3つの束縛からくる国際主義の欠如と孤立主義への誘惑であった。国際社会の動向を理解せずに、自らの権益拡張や正義の主張を絶対視したこと。
→国際主義の回復が重要。

藤田久一『戦争犯罪とは何か』

<書誌>
藤田久一,1995,『戦争犯罪とは何か』岩波書店

戦争犯罪とは何か (岩波新書)

戦争犯罪とは何か (岩波新書)

目次
はじめに
Ⅰ 戦争法の成立と展開
Ⅱ 新たな戦争犯罪間の模索
Ⅲ 国際軍事裁判で裁かれたもの
Ⅳ 定式化への努力
Ⅴ 個人責任をめぐる議論
Ⅵ 国際刑事裁判所
終章 残された課題
あとがき


1.はじめに
・今日戦争に伴う残虐行為は、戦争犯罪と言われる。しかし、戦争に伴う残虐行為を意識的に戦争犯罪として処罰する考えは最近練り上げられてきたものだ。戦争犯罪の問題は戦争観の展開とともに発展しており、両者は密接な関係にある。
・二つの大戦を経て大きく転換した戦争犯罪論、戦後の植民地解放戦争とポスト冷戦後の地域紛争も踏まえて、新たな展開を見せる戦争犯罪論を、国際法の観点を交えながら概観する。

2.戦争犯罪の前提
・「戦争犯罪」という観念は、「戦争」や戦争行為の法的位置づけと「犯罪」化の意識的行動を前提として成立するものである。つまり、戦争が違法であるということ、または戦争のルールが存在し、そのルールに違反するということを前提としている。(2)

3.戦争犯罪の残された課題
戦争犯罪の結果受けた被害に対する法的補償の問題である。
→戦争中の合法行為による被害は、一般に被害を受けたものや国が「受忍すべきもの」であって、加害者や加害国の法的責任は問われない。しかし、それは戦争の性格の変化とともに問い直されるべきものではないか。戦争だとあきらめて受忍させるのではなく、違法な戦争を開始したこと責任のほか、戦争法ないし人道法上の違法行為に基づいて生じた被害については、加害者側に何らかの補償責任があるはず。
⇔損害賠償は平和条約において、戦敗国に対して認められ、かつ、その賠償額の算定も包括的な形で一括処理される。そこでの問題は、賠償はすべての「国」に対してなされるべきこととされている点である。ここに戦争中実際に損害を受けた被害者たる「個人」は直接対象にされていない。戦勝国が得た賠償を被害者個人に分配するかどうかは、その国の政策による国内問題と見なされている。これは国家間社会としての国際社会の構造に基づき、賠償責任原則も国家間の違法な敵対行為から生じた損害の賠償責任を定めているのであり、国家間の平和条約で処理する以上、国家の権利義務として規定されるのは当然とも考えられる。そして、法的にこの構造に風穴を開けることは容易ではない!
⇒従来の国際社会の法構造に無批判に依拠し、現実を無視することにならないか?被害者個人が加害国に違法な戦争行為に基づく被害に対する補償を求める国際権利をどのように認めるのか。その理論的努力はなされているのか?(220-221)

小熊英二『生きて帰ってきた男』

<書誌>
小熊英二,2015,『生きて帰ってきた男——ある日本兵の戦争と戦後』岩波書店

目次
第 1 章 入営まで
第 2 章 収容所へ
第 3 章 シベリア
第 4 章 民主運動
第 5 章 流転生活
第 6 章 結核療養所
第 7 章 高度成長
第 8 章 戦争の記憶
第 9 章 戦後補償裁判
あとがき


1.はじめに
すでに多くの方がレビューしているので、総論的なことは省く。
帰省中の車中で5時間くらいかかって読んだので、かなり読みこぼしがあると思うが、興味深いなと思ったことだけメモ。

読後の感想。
小熊はすでに多くの著作を世に出し、そのすべてが「鈍器」の異名を持つほど分厚い。本書も例にもれず、新書としては異例の厚さである。読みながら、やはり子は親の背中を見て育つんだなと思ったが、この気持ちは原武史さんが代弁していたので引用。

なぜ自分たちの運動にも問題があったとは考えないのか、この希望を捨てない姿勢はどこから来るのかが、ずっと気になっていた。しかし本書を読み、疑問が氷解した。著者にとっては、父である小熊謙二の生き方こそ、最大の「指針」となってきたのではないかという感を抱いたからだ。
原武史 「All Reviews」https://allreviews.jp/review/1696
https://allreviews.jp/review/1696
、最終確認2019年8月19日)

allreviews.jp


2.メモ

第1章 入営まで

小熊英二の父、小熊謙二が北海道の佐呂間生まれであることで、私は一気に本書に引き込まれた。当時の北海道がいかなるものだったのか、少ししか知らない私にとって、小熊の書き方はリアルで、ありありと想像できた。

・子どもが月給取りグループとそうでないグループに分かれていた。(21)

満州事変後は軍需景気などで経済が好転しており、庶民の日常生活ものんびりしていた。(24)

・謙二によると、日常生活の変化は1937年の終わりごろから、タクシーを見かけなくなったことから始まった。それはガソリンの販売統制の影響である。1939年10月には、政府が価格等統制令を交付し、流通が停滞した。このころから物資不足が庶民の生活に黒い影を落としてきたのが分かる。1939年には「白米禁止令」が出て、7分づき以上の白米の販売が禁止。粟や麦などの代用食が奨励され、1941年には米が配給制になった。(34-35)

・こうした価格統制と流通統制は、正規の値段やルートから外れた「闇値」や「横流し」の発生、そして「縁故」による生活を生みだした。
ソ連でも統制経済が敷かれているため、横流しや盗みが横行していたという。ソ連の収容所での仕事中、トラックの運転手が自分の家やコネのある家に石炭を横流ししていたところを何度も見ている。(113)

・塩先生の新聞に読まれてはいけない。新聞の裏を読みなさいというエピソードが印象に残る。(43-44)

第2章 収容所へ
・召集後、謙二の印象に残ったのは暴力と「形式主義」。一言一句原文通りに言えないといけないが、内容を理解しているかどうかは問われない。原文通りに、「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分……」、「忠節、礼儀、……です!」と言ったら鉄拳制裁である。備品の数をそろえるために友軍から物資を盗むことも横行した。(69)

・初年兵だから外出の自由はない。慰安所などに行くこともできない。
※吉見や秦が中国に派兵された数などから慰安婦の数を推定しているが、そこには初年兵を除くなどの「操作」はされていない(吉見 1995、秦 1999)。

・「軍隊は「お役所」なんだ。命令されなかったら何もやらない。自分でものを考えるようには教えられないし、期待もされない。こんな状態で敵が攻めていたらどうするかなんて自分からは考えもしない。」
 上記のような感想は兵士の回想記に頻出する。駐屯部隊が「ぶらぶら」していた事例は多い。(73)

・自分がいた収容所では、元上官によるあからさまな特権行使や、食料配給の不正はできなかった。これが自分が生き残れた理由の一つだ。謙二は体調不良による出発の遅れから、原隊ではなく、敗戦間際の根こそぎ動員で集められた在留邦人の部隊(当時は「地方人」と言われていたらしい)と一緒だった。原隊のヒエラルキーがそのまま残存された収容所では初年兵が多く死んだという。(86-87)
※後のページで、シベリア帰りの将兵が靴をピカピカに磨いてカバン持ちを随行しながら帰還した話があるのだが、反吐が出る気持ち悪さだった。

第3章 シベリア
ソ連はシベリアに日本人を抑留し働かせたが、準備不足や劣悪な待遇によって、保領の意欲と労働効率は下がり、結果として3300万ルーブルを連邦予算から補填している。マネジメントの拙劣さが、非人道的にもかかわらず経済的にはマイナスという愚行を生みだした。(116)

・「中央政府が規定量の食事を与えるように指示していた、賃金は払っていた、バザールで買い物をしていた捕虜もいた、といった言い方も可能ではある。しかしそれは、日本の捕虜たちの境遇が、奴隷的であったことを否定する根拠にはならない。」(117)という小熊の指摘は重要だ。「慰安婦」問題を考えるうえでこうした視点は全くと言っていいほど欠落している人たちがいる。

ソ連も貧しく、捕虜以上に物がない家があった。

第4章 民主運動
・1947年後半以後、夕食後から「反動摘発」と称するつるし上げが行われ始めた。夕食後に掃除がなっていないとか、態度が生意気とかの適当な理由をつけて反省をさせられたりや暴行が加えられた。
→民主運動の担い手は、農民や労働者出身で、性格は素直、自分の境遇をマルクス主義が解き明かしてくれた人。総じて若い。(158-162)
→彼らが戦後に帰還者による会合に出席したことはない。(165)

第6章 結核療養所
・この当時、ブラジルの日系移民は敗戦を認めない「勝ち組」とそれを認める「負け組」に分かれ対立していた。ポルトガル語が読めないための情報不足などが一因。ブラジルでは暗殺や襲撃事件などが起きた。戦争による分断は地球の裏側でも起きていた。(227)

第7章 高度成長
・戦前の庶民は数え年で正月にみんな一年歳を取る。インテリや上層階級だけ誕生日を祝っていた。(278)

第8章 戦争の記憶
南京虐殺はなかったとかいうフレーズに呆れた。本でしか知らないからそういう。実際に見た人やった人は胸の中に秘めて話さない。(312)

・お互いに体験者だから、多くを話さなくても見当がつく。激しく感情をあらわにするのは何も知らない人がすることだ。(319)

第9章 戦後補償裁判
・戦争被害は国民が等しく受忍するもので補償はしない。強い要求があれば見舞金や慰労金という名目で払われる。こうした原則が貫徹している。例外は軍人恩給制度の拡張のみ。それ以外はできるだけ拒む。(344-350)
※ここ一番重要。

あとがき
・戦争体験だけではなく戦前および戦後の生活史を描いたことである。
※岸政彦が言うように、これからの社会学はディテールを記述することに意味があるかもしれない。そう思わせる著作だった。その点からすると、自分の祖母の聞き取りをしなければならないのではないかという焦燥感に駆られている。自分の身近な人が歴史の証人である。記憶は意外にきっちりしているのだ。

戦争社会学リンクガイド

本ページでは、戦争に関するサイトを備忘録的に保存することを目的としています。

◆サイト名
URL
メモ
サイトのトプ画的なもの
という順序で掲載しています。


中帰連中国帰還者連絡会
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/top_5.htm
ほぼリンク切れをおこしている。最終更新は2004年。
f:id:chanomasaki:20190819172831p:plain