幸福なポジティヴィスト

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小熊英二『生きて帰ってきた男』

<書誌>
小熊英二,2015,『生きて帰ってきた男——ある日本兵の戦争と戦後』岩波書店

目次
第 1 章 入営まで
第 2 章 収容所へ
第 3 章 シベリア
第 4 章 民主運動
第 5 章 流転生活
第 6 章 結核療養所
第 7 章 高度成長
第 8 章 戦争の記憶
第 9 章 戦後補償裁判
あとがき


1.はじめに
すでに多くの方がレビューしているので、総論的なことは省く。
帰省中の車中で5時間くらいかかって読んだので、かなり読みこぼしがあると思うが、興味深いなと思ったことだけメモ。

読後の感想。
小熊はすでに多くの著作を世に出し、そのすべてが「鈍器」の異名を持つほど分厚い。本書も例にもれず、新書としては異例の厚さである。読みながら、やはり子は親の背中を見て育つんだなと思ったが、この気持ちは原武史さんが代弁していたので引用。

なぜ自分たちの運動にも問題があったとは考えないのか、この希望を捨てない姿勢はどこから来るのかが、ずっと気になっていた。しかし本書を読み、疑問が氷解した。著者にとっては、父である小熊謙二の生き方こそ、最大の「指針」となってきたのではないかという感を抱いたからだ。
原武史 「All Reviews」https://allreviews.jp/review/1696
https://allreviews.jp/review/1696
、最終確認2019年8月19日)

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2.メモ

第1章 入営まで

小熊英二の父、小熊謙二が北海道の佐呂間生まれであることで、私は一気に本書に引き込まれた。当時の北海道がいかなるものだったのか、少ししか知らない私にとって、小熊の書き方はリアルで、ありありと想像できた。

・子どもが月給取りグループとそうでないグループに分かれていた。(21)

満州事変後は軍需景気などで経済が好転しており、庶民の日常生活ものんびりしていた。(24)

・謙二によると、日常生活の変化は1937年の終わりごろから、タクシーを見かけなくなったことから始まった。それはガソリンの販売統制の影響である。1939年10月には、政府が価格等統制令を交付し、流通が停滞した。このころから物資不足が庶民の生活に黒い影を落としてきたのが分かる。1939年には「白米禁止令」が出て、7分づき以上の白米の販売が禁止。粟や麦などの代用食が奨励され、1941年には米が配給制になった。(34-35)

・こうした価格統制と流通統制は、正規の値段やルートから外れた「闇値」や「横流し」の発生、そして「縁故」による生活を生みだした。
ソ連でも統制経済が敷かれているため、横流しや盗みが横行していたという。ソ連の収容所での仕事中、トラックの運転手が自分の家やコネのある家に石炭を横流ししていたところを何度も見ている。(113)

・塩先生の新聞に読まれてはいけない。新聞の裏を読みなさいというエピソードが印象に残る。(43-44)

第2章 収容所へ
・召集後、謙二の印象に残ったのは暴力と「形式主義」。一言一句原文通りに言えないといけないが、内容を理解しているかどうかは問われない。原文通りに、「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分……」、「忠節、礼儀、……です!」と言ったら鉄拳制裁である。備品の数をそろえるために友軍から物資を盗むことも横行した。(69)

・初年兵だから外出の自由はない。慰安所などに行くこともできない。
※吉見や秦が中国に派兵された数などから慰安婦の数を推定しているが、そこには初年兵を除くなどの「操作」はされていない(吉見 1995、秦 1999)。

・「軍隊は「お役所」なんだ。命令されなかったら何もやらない。自分でものを考えるようには教えられないし、期待もされない。こんな状態で敵が攻めていたらどうするかなんて自分からは考えもしない。」
 上記のような感想は兵士の回想記に頻出する。駐屯部隊が「ぶらぶら」していた事例は多い。(73)

・自分がいた収容所では、元上官によるあからさまな特権行使や、食料配給の不正はできなかった。これが自分が生き残れた理由の一つだ。謙二は体調不良による出発の遅れから、原隊ではなく、敗戦間際の根こそぎ動員で集められた在留邦人の部隊(当時は「地方人」と言われていたらしい)と一緒だった。原隊のヒエラルキーがそのまま残存された収容所では初年兵が多く死んだという。(86-87)
※後のページで、シベリア帰りの将兵が靴をピカピカに磨いてカバン持ちを随行しながら帰還した話があるのだが、反吐が出る気持ち悪さだった。

第3章 シベリア
ソ連はシベリアに日本人を抑留し働かせたが、準備不足や劣悪な待遇によって、保領の意欲と労働効率は下がり、結果として3300万ルーブルを連邦予算から補填している。マネジメントの拙劣さが、非人道的にもかかわらず経済的にはマイナスという愚行を生みだした。(116)

・「中央政府が規定量の食事を与えるように指示していた、賃金は払っていた、バザールで買い物をしていた捕虜もいた、といった言い方も可能ではある。しかしそれは、日本の捕虜たちの境遇が、奴隷的であったことを否定する根拠にはならない。」(117)という小熊の指摘は重要だ。「慰安婦」問題を考えるうえでこうした視点は全くと言っていいほど欠落している人たちがいる。

ソ連も貧しく、捕虜以上に物がない家があった。

第4章 民主運動
・1947年後半以後、夕食後から「反動摘発」と称するつるし上げが行われ始めた。夕食後に掃除がなっていないとか、態度が生意気とかの適当な理由をつけて反省をさせられたりや暴行が加えられた。
→民主運動の担い手は、農民や労働者出身で、性格は素直、自分の境遇をマルクス主義が解き明かしてくれた人。総じて若い。(158-162)
→彼らが戦後に帰還者による会合に出席したことはない。(165)

第6章 結核療養所
・この当時、ブラジルの日系移民は敗戦を認めない「勝ち組」とそれを認める「負け組」に分かれ対立していた。ポルトガル語が読めないための情報不足などが一因。ブラジルでは暗殺や襲撃事件などが起きた。戦争による分断は地球の裏側でも起きていた。(227)

第7章 高度成長
・戦前の庶民は数え年で正月にみんな一年歳を取る。インテリや上層階級だけ誕生日を祝っていた。(278)

第8章 戦争の記憶
南京虐殺はなかったとかいうフレーズに呆れた。本でしか知らないからそういう。実際に見た人やった人は胸の中に秘めて話さない。(312)

・お互いに体験者だから、多くを話さなくても見当がつく。激しく感情をあらわにするのは何も知らない人がすることだ。(319)

第9章 戦後補償裁判
・戦争被害は国民が等しく受忍するもので補償はしない。強い要求があれば見舞金や慰労金という名目で払われる。こうした原則が貫徹している。例外は軍人恩給制度の拡張のみ。それ以外はできるだけ拒む。(344-350)
※ここ一番重要。

あとがき
・戦争体験だけではなく戦前および戦後の生活史を描いたことである。
※岸政彦が言うように、これからの社会学はディテールを記述することに意味があるかもしれない。そう思わせる著作だった。その点からすると、自分の祖母の聞き取りをしなければならないのではないかという焦燥感に駆られている。自分の身近な人が歴史の証人である。記憶は意外にきっちりしているのだ。