幸福なポジティヴィスト

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アルヴァックス「第4章 思い出の位置づけ」『記憶の社会的枠組み』

<書誌>
Maurice Halbwachs, [1925]1994, Les Cadres sociaux de la mémoire, Albin Michel.(=鈴木智之訳,2018,『記憶の社会的枠組み』青弓社.)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

目次

前言
第1章 夢とイメージ記憶
第2章 言語と記憶
第3章 過去の再構成

第4章 思い出の位置づけ   ⇦いまここ!

第5章 家族の集合的記憶
第6章 宗教の集合的記憶
第7章 社会階級とその伝統
結論
訳者あとがき
人名索引
事項索引


「第4章 思い出の位置づけ」

〇心理学による思い出の整理
・心理学は思い出の再認(reconnaissance)と思い出の位置づけ(localisation)を区別する。
再認することとは、既知感を持つこと。自動的になされる。
位置づけすることとは、思い出を時間軸の中で認識できること。反省的努力が必要であり、精神活動が加わる。
→再認から位置づけのプロセス。記憶と理性の関係は、再認では認められず、位置付けようとするかぎりにおいてみられる。

・獲得から再認までの記憶の本質は、純粋に個人的な心理的・生理的活動によって説明される。
→個人的記憶(獲得から再認)→社会的記憶(位置づけ)という段階を経ていることになり、他者との思い出の一致は、思い出を作り出す事より、思い出の整理となる。

・心理学者による思い出の議論は、感情:観念=再認=位置づけ、獲得―再認―位置づけのプロセス

〇心理学に対する反論
・どのような思い出であっても、私たちは、正確にいつどこでとは言えなくとも、少なくともどのような条件の下でそれを獲得したのか、すなわち同様の条件の下で獲得される思い出のカテゴリーはどこに属しているのかを、述べることができる。(p.160)
→言い換えれば、私は社会生活のどのような領域でその思い出が生まれたのかを常に指示することができるのである。(p.160)
→既視感を覚え、この人は誰だ、これはどこだ?と自問自答することは、再認には位置づけの最初の試みが伴っていることを示している。
⇒したがって、すでにあったことがあるという感覚とほぼ同義であるこうした広い意味での位置づけと、心理学者たちが語る厳密な意味での位置づけの間には程度の違いしかない。位置づけの始まりにならないような再認、つまり、少なくとも問いという形をとってすでに反省が介在していないような再認は存在しないのである。(p.161)


〇思い出の呼び起こし―再認―位置づけという古典的図式
ハラルド・ヘフディングの即時的再認
⇔ハラルドがあげた事例は、どれも複合的ではない単純なもので、即自的再認は、言葉の媒介によって説明される(レーマン)。

ベルクソンの議論
・現在の近くが単に相互の類似によってそのイメージを引き寄せた。
⇔私たちが捉えた類似性とは、現在の印象とそこに再現する過去の印象ではなく、現在の心理的枠組みと、やはりまた相対的に安定した概念によって構成された他の枠組みのあいだにあるものだということ、そして、、、(p.163)。

〇直接的な再認のケースってあるのか?
思い出の日付を突き止めようとするには、思い出がなければならないという人がいる。
⇔時間をたどりながら思い出を呼び戻していく方が普通じゃないか?
→したがって多くの場合、位置づけは再認に先立つばかりではなく、思い出の喚起に先行していて、位置づけが喚起を規定しているのである。それはつまり、位置づけはそれだけですでに、再認された思い出の内容になる部分を含んでいるということである。これは反省的な思考だが、しかし観念という形で、すでに具体的で感覚的なものを含んでいる。その意味では、多くの場合、位置づけが思い出のありようを説明するのである。(p.164)

ベルクソンの位置づけ理論
・イポリット・テーヌの理論との対比によって提示した。
→自分の思い出の集まりの中に入り込んでいくようなものではない。
ベルクソンにとって、実際には位置づけの作業とは、次第に大きくなっていく拡張の努力の中にある。記憶は常にそれ自体に対しては丸ごとすべてが現前しているのだが、この拡張によって、次第に大きなものになっていく表面に様々な思い出を拡げていき、それまで渾然一体となっていた集まりの中から、位置づけを見出せなかった思い出を識別していくにいたるのである。(p.165)
→思い出は記憶が収縮しているときには、ありふれた形を取り、拡張しているときにはより個別的になる。
⇒「ほかの思い出を支える支点となっている支配的な思い出」。

〇アルヴァックスの思い出の位置づけに関する議論
私たちはどこにあるのか全く分からない思い出の位置を突き止めようとするわけではなく、思い出の総体から特定するわけでもない。思い出は常に、それ自体の中に、その位置を突き止めることを可能にする何らかのしるしをまとっていて、過去は私たちの前に、多少なりとも単純化された形で姿を現すのである。(168-169)

行き当たりばったりに過去を思い出すのではなく、「挿入とはめ込み」によって特定されていく。
「行き当たりばったりなどではまったくなく、かなり論理的に導かれていったひとつながりの思考の結果として思い出したのである。」(171)

ここでもまた一連の推論を経て、私は一つの感覚的状態を再構成するにいたったのであり、その状態の内容は、実は、こうした他の状況との関係によって作り出されていたのである。(175)

〇思い出の位置づけ、または記憶の枠組みとは、いったいどういうものなのだろうか?
ベルクソンの提示した支配的な基準点
→枠組みは日付と場所に関する静態的な体系、そして思い出の位置づけの度に全体を思い描いていると考える。自分の生活上の出来事全て、総体を展開させていく必要があると考えている。
⇔そこまでせずとも、何らかの形で既に存在する概念の集合ばかりではなく、その概念を出発点として、単純な推論にも似た精神のはたらきによってたどり着くこともできる。(176)言い換えれば、現時点からみて近か遠いかに応じて変化する枠組みが存在する。

・現在の知覚とのつながりのイメージの系列的な連なりが存在する(過去—最近の過去—現在)。したがって、その連なりを遡ることができる。
⇔なぜ途中で遡ることができなくなるのか説明できていない。

・記憶の枠組みとは、純粋に個人的な枠組みではなく、同一の集団に属する人々に共通のもの。したがって、ありありと思い出せるのは集団がそれを重要と見なし、保存しているからである。
→集団は空間的には相対的な安定しか有していない。成員の変化、時間の経過に従って絶えず変化していく。社会的事実として保持され、時間の経過とともにある個人にとってだけ重要性を持つことになり、集団はそれに対する関心を失う。
→最近の様々な出来事は、社会がまだ重要性を整理できていない。しかし整理が終え次第、保持されるか、忘れられるかが決定していく。

〇以前に得た思い出に対して巡らせた反省的思考は、現在からある程度離れたところで断ち切られているように思われるのか?
・イメージの鮮明性と親密性の区分。
→遠く離れた場所にある建築物のイメージは親密性に乏しいとしても鮮明なイメージである。最近の出来事は鮮明だが親密性はない。過去の出来事は新鮮さは失われているが、より明確であり、より従順であり、親密である。
⇔こうした区分に意味はない。最近の出来事は鮮明でもあり、親密である。

・出来事に付随して生じた思考は何度も立ち返っていた可能性がある。
→新しい出来事に出会う度に、再適応の作業が生じているので、常に全体に立ち返る。前の事実からその次への移行という線条的なものではない。常に現在の枠組みの更新が行われている。社会も常に変化、消滅、生成される中で、出来事全てが関心を引き付けるわけではないがそれなりに出来事を記憶している。それは私たちの身の回りに起こることは自分にとってどのような結果をもたらすのかが分からないあいだは、何一つ自分にとって無関係なものではないという信念があるからである。そして結果が分かり次第、出来事は整理されていく。
→しかし、こうした思い出の漸進的な忘却はすべてが同じ速さで進まない。同時に複数の集団に所属しており、その集団と個人との結びつきの強さがその速度を変えていく。

・人の記憶はその人を取り巻く集団や、そうした集団が最も関心を寄せる観念やイメージによって決まるということを、基盤にして生じている枠組みがある。


〇まとめ
・過去の特定の思い出の位置と隣接する思い出にたどり着くのは、隣接する思い出が特定の思い出を枠づけているからである。しかし、ベルクソンがいうように、すべての思い出を呼び起こし、支配的な思い出を基準点に徐々に拡大されていくのではない。支配的な思い出とは、思い出を再現するための「たくさんの思い出の中での、重要度や強度の順位を決定するのに役立つもの」である。
→ある一つの思い出に対して、過去に同様の重要性を持っていた出来事に対応するすべての思い出を、再現しなければならないという前提は過剰すぎる。というより、記憶すべてが存続しているというよりは、その人の現時点での関心に対応するいくつかだけである。したがって、今日のその人の観念や知覚と出来事との関係が重要となる。

・思い出を位置付ける際に、ある特定の領域を選び出したり、ある特定の思い出を出発点としてたどることができるのには、記憶がいくつかの単純な枠組みをもち、もしもっていなくてもそれらの枠組みをいつでも再構成できるからだ。この枠組みは人の思考の中に常に入り込んでいる様々な概念から作られていて、これらの概念は言語の形式と同様の権威をもって記憶に押しつけられている。

・思い出を位置付けるために必要な隣接領域の画定は、連想論の立場をとる心理学者とは異なり、
「最近の思い出を相互に結び付けているのは、それらが時間的に隣接していることではなく、それらが一つの集団に共有された一群の思考の一部をなしていることに基づいているのである。」(193)
→したがって、その集団の利害関心、集団の思考の傾向、視点を取り入れていけば思い出を呼び起こすことが可能になる。この集団を起点とした思い出の呼び起こしと思い出の位置づけを行っている。
⇒確かに思い出は連想され、それぞれが別の思い出を再構成する。「しかし、思い出のこのような様式は、人々の結びつきがとりうる多様なやり方から生まれるものである。個人の思考の中に現れるおのおのの思い出は、これに対応する集団の思考のなかに位置づけ直されてはじめて、十分に理解される。その人が同時に所属している様々な集団に個人を結び付け直すことによってはじめて、それらの思い出の関係上の力はどのようなものであり、どのようにしてそれらが個人の思考の中に結び付くのかが十分に理解されるのである。」(194)

・反省的思考=社会環境からもたらされる思考に思い出を結び付けたときにのみ、思い出は持続する。思い出を推論していくということは、自分の見方と周囲の見方とを、1つの観念の体系の中に結び付けることであり、それは社会的思考のもつ意味と射程とを常に思い起こさせるような事実の個別的適用を見ることである。
⇒「このようにして、集合的記憶の枠組みは、私たちの最も内面的な思い出までをも囲い込み、相互に結び付けている。」(195)


難解すぎワロタ