幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

R・シルバーストーン『なぜメディア研究か』「11 コミュニティ」

 

11.コミュニティ

<要約>

本章における「コミュニティ」という概念は、ひとまずのところ、「経験」として置かれている。われわれは他者との関係の中で、自分がどこにいるのかという帰属の問題を絶えず確認しながら、そうしたアイデンティティを生きている。しかし、所属するということは、安心をもたらす一方で制約にもなる。また、自分たちを見失わないように異なる人々を差別化する行為は、そうした差異を維持することに耐え切れず、一方を絶滅させたいという欲望に転ずることもある。こうした「社会生活の矛盾を含む経験」をコミュニティと呼ぶ
(p.213)

 しかし、「コミュニティ」は経験である一方で、そうした経験を欲望する場所でもある。われわれは、不確実な社会生活の継続をどこかで安定させるように願い、何かの中にコミュニティを見出そうとする。したがってシルバーストーンによれば、「コミュニティ」は、帰属の政治、メンバーシップの組織化といった制度・構造の問題である以上に、どこにだれとどのようにいたいのか、それを想像するという「信念」に関わる問題でもあるのだ(p.214)

 本章ではこうした観念として措定する「コミュニティ」をめぐって、以下の問いについて考える。すなわち、

 

では、それはどこにあるのだろうか。今、私たちはどこにコミュニティを見つけられるのだろうか。コミュニティは、いかなる行為の上に、すなわち、どのような個人的、社会的コミットメントの上に成り立つのであろうか。コミュニティはどのように作り出され、またどのように守られるのだろうか。私たちはまだそれを欲しているのだろうか。そして、コミュニティの感覚は、いや実のところ、現実のコミュニティそのものは、意味・コミュニケーション・参加・移動のエージェントであるメディアにどれほど依存しているのであろうか。(p.215

 

という一連の問いである。

 ここからは、より具体的な議論に移る。まず、シルバーストーンは、ベネディクト・アンダーソンやアンソニー・コーエンを参照しながら、コミュニティとは何かという問題に再び戻っていく。シルバーストーンは、アンダーソンやコーエンのコミュニティ論に関して、以下の3つの点に注目している。

 それらは第一に、「コミュニティはその構成において、常に物質的であると同時に象徴的なもの」という点である。すなわち、コミュニティのリアリティを生み出す、人々が共有し関与する「シンボル」の問題である。第二に、「コミュニティは共有されるものによってのみ定義されるのではなく、それを区別するものによっても定義される」という点である(p.217-218)。すなわち、他のコミュニティを区別するために引かれた「境界線」の存在、性質、権力という問題である。そして第三に、アンダーソンの「想像の共同体」が示したように、新聞を消費するという毎朝の大衆的な儀式、それを通じて自らをナショナルな文化に参加させ、組み込みこんでいくという点である。すなわち、儀礼への参加という問題である。

 人は境界の中で共有可能な意味とシンボルを見出すが、それがコミュニティを表象し、定義する上で重要な役割を果たす。そして、儀礼を通じてわれわれはシンボルへ関与し、まとめ上げられる。この象徴性は、自分たちの独自性を主張すると同時に、境界の外の人たちから自分たちを区別するメカニズムとなる。したがって、われわれが境界を意識し、儀礼を通じて差異を主張することは、コミュニティを想像し、維持するための必要条件である。

 こうした形でコミュニティを理解するとき、シルバーストーンは、コミュニティとメディアは以下のように結びつける。すなわち、「メディアを研究する必要があるのは、それがコミュニティ形成の資源を絶えず供給しているからであり、また私の考えでは、ときに予想もしない形で、矛盾含みの仕方でそうするからである」と(p.219)。

 ならば、メディアは具体的にどのような形でコミュニティと結びつくのであろうか。シルバーストーンは表現、屈折、批評の3つの実践をあげている。

 表現とは、コミュニティのアイデンティティを作り出すうえで必要な糧をオーディエンスに提供し、コミュニティへの参加の枠組みを形成することとして使われている。すでに、届けられる言語、届けられる領域という点で、表現という実践は境界の生成維持に関わっており、定期的なスケジュールによって届けられる日常的な些細な出来事から国家的儀礼のような非日常的出来事までが、コミュニティへの同一化と参加への呼びかけとなっている。

 次に屈折とは、メディアで表現される「糧」は直接的なメッセージだけではないということを指す。つまり、コミュニティの境界を犯して敵対する行為が、実際は支配的な価値を追認し、正当化しているということを指す。言い換えれば、「境界が侵犯され、その侵犯によって境界が宣言されている」ということを指す。

 最後に批評とは、メディアがコミュニティの様々な枠組みとメディア自身の役割に対して、批判的でオルタナティブアジェンダを提起しているということである。そこには、コミュニティの矛盾やローカルやマイノリティ、グローバルな視点から提起される社会の様々な緊張関係などが含まれている。

 こうした諸実践で明らかになるのは、メディアは、コミュニティの形成と維持の基盤である一方で、変化と変化への抵抗の両方へ、象徴的な資源を提供しているということである。

 最後に、シルバーストーンは、インターネットによる新たなコミュニティに関して問題提起をしてまとめている。とりわけ注目しているのは、「オンラインとオフラインの『コミュニティ』のインターフェイス」という点、電子的な社会性とオールドメディアの社会性の相互関係が従属的なのか、補完的なのかという点、の2点である。こうした点は、最終章でもう一度問われることになる。