幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

ロラン・バルト『明るい部屋』読書会②

ロラン・バルト『明るい部屋』読書会



<書誌>

Roland, Barthes, 1980, La chambre claire: Note sur la photographie, Paris: Galimard. (=花輪光訳, 1999, 『明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房)

 


1.「写真」の特殊性

 

私は「写真」の《存在論》を企てたいという欲求に駆られた。「写真」とは、《それ自体》何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか、私は是が非でもそれが知りたかった。

 

2.分類しがたい「写真」

 

「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度とふたたび繰り返されないことを、機械的に繰り返す。(中略)「写真」は絶対的な「個」であり、反響しない、バカのような、この上もなく「偶然的なもの」であり「あるがままのもの」である(ある特定の写真であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然」の「機会の」、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。

 

 

実際、ある特定の写真は、決して指向対象(そこに写っているもの)から区別されない。(中略)あたかも「写真」は、常にその志向対象と共にあり、両者は、流動するこの世界のまっただなかで、愛や死がもたらすのと同じ不動の状態に落ち入ってしまったかのようである。

(中略)この宿命(ある何ものか、ある誰かが、写っていない写真はない)によって、「写真」はさまざまな対象――世界中のありとあらゆる対象――を覆う、果てしない無秩序の中に投げ込まれてしまう。(中略)何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものは常に目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。




<ディスカッション>

2時間ほどみっちりと話し合うことができた。

主な論点は、

ロラン・バルトのテクスト論、いわゆる「作者の死」について

・個別的とか普遍的というのはどういう意味?

・本書を通じてバルトは何をしようとしているのか?本書の課題とその方法。

→「『写真』
とは、《それ自体》何であるのか」。ここにすべてが集約されていると思われるが、重要なのは「それ自体」という部分。読み進めていくとわかるように、写真は指向対象(以下、被写体)と不可分である。われわれが「写真」を見ているときは被写体も一緒に見ていることになる。そうした写真の特質に注意深くなければ、「写真」を論じているつもりで、「被写体」を論じてしまう危険性がある。そうした点で、「それ自体」というところが、本書では重要な点だと思われる。

この論点の不一致により少し時間を食った。

・本を読み、著者の主張を読み解こうとする、十分なテクストクリティークを求める読書会とは?

→これは、読書会についてのディスカッションであって、本書とは全く関係ないが、ここの不一致が本書の読みを制約していた。

「現場」出身の参加者の一人は、この本の論点が自分の興味と一致しなかったことで、あまり熱心に読むことができなかった。


写真の読解の多様性、角度・視点が十分に掘り下げられると思ってきたが、写真とは何かというよくわからない論点に拘泥するロラン・バルトは何が面白くてこんなことをやっているのかと思った。言葉遣いもなんやら格好つけたような難しい言葉遣いをするし・・・。


読書会をすると、現場に役立つ知識を求める方が多いので、こうした質問や読書会に向かう姿勢の不一致はよく耳にする。「写真とは何か」という単純だが根本的な問いは、非常に観念的で、頭の中の遊びのように思えるという批判は、読書会を開く側としては頭の痛い批判である。


ただ、この読書会で大事にしたいのは、写真とは何かについての問いに答えるとか、何か実践に役立つ知識を手に入れようということではない。

単純に、ロラン・バルトの声に耳を傾けようとすること。彼は何を言っているのかを、1つの文のメタファーや指示語を確定していくようなミクロの分析、そして、この章は何を言っているのかといったミドルの分析、そして本書は何を伝えようとしているのかといったマクロな分析を、いったりきたりしながら、バルトの声に耳を傾けようとすることである。

バルトは、本書に書かれていること以上に話すことはできない。

だから、読んだ側の人間は、彼からの反論におびえることなく、いくらでもシニカルに、斜に構えて批判することはできる。でもそれは不公平で無責任な態度だ。

彼は本に書かれている以上に話すことはできない。
だから、われわれがしなければならないのは、検察官として彼のテクストを批判的に読み解くことだけではなく、時には弁護士として、彼の言葉に耳を傾ける必要がある。

そうした読書会をしようじゃないか。



2時間ほどのディスカッションで本来は7章まで進む予定だったけど、3章までしかできなかった。

次回は4章から7章までが範囲。

この読書会どうころんでいくのだろうか。主宰者なのに無責任だけど行く末を見守りたい(笑)