幸福なポジティヴィスト

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ロラン・バルト『明るい部屋』読書会③

ロラン・バルト『明るい部屋』読書会


<書誌>

Roland, Barthes, 1980, La chambre claire: Note sur la photographie, Paris: Galimard. (=花輪光訳, 1999, 『明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房)


 

3.出発点としての感動

 

つまり、あらゆる還元的な体系に反発する私の激しい抵抗感である。(中略)いっそのこと、これをかぎりに、私の個別性から発する抗議の声を逆に道理とみなし、《古代の自我の至高性》(ニーチェ)を、発見のための原理にしようとするほうがよいのだ。

 

 

いったいなぜ、いわば個々の対象を扱う新しい科学がないのか?なぜ(「普遍学」Mathesis iniversalis)ならぬ)「個別学」(Mathesis singularis)がないのか? と。

 

 

4.「撮影者(オペラトール)」、「幻像(スペクトルム)」、「観客(スペクタトール)

 

私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることに注目した。すなわち、撮ること、撮られること、眺めることである。

 

 

この三つの実践のうち、一つは私にとって閉ざされているので、それを検討しようとつとめるべくもなかった。私は職業的な写真家ではないし、またアマチュアでさえもない。

 

 

「撮影者」の感動(したがって、「職業的な写真家による写真」の本質)は、《小さな穴》(ピンホールカメラの針穴)と何らかの関連をもつ、ということは私にも推測できた。(中略)しかし、「撮影者」のこうした感動(「写真」のこうした本質)を私は決して知らないので、それについて語ることは不可能だった。

 

 

 

5.撮影される人

 

ところで、自分がカメラを通して眺められていると感ずるやいなや、事態は一変する。わたしはしきりに《ポーズをとり》、またたくまに自分のもう一つの肉体をつくりあげ、前もって自分を映像に変身させる。「写真」のこの変換作用は強力である。

 

 

いずれにせよ、描かれた肖像は、どれほど本人に似ていようとも、写真とは全く異なるものである(私がここで立証しようとしているのは、この点である)。この新しい行為〔写真〕がもたらした(文化的)混乱について、人々が考えようとしなかったのは不思議なことである。私としては「視線の歴史」といったものを提唱したい。というのも、「写真」は、自分自身が他者として出現すること、自己同一性の意識がよじれた形で分裂することを意味するからである。

 

 

「写真」がもたらした混乱は、結局のところ、所有権の混乱である。(中略)「写真」は主体を客体(オブジェ)に変えた。

 

 

「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。そこでは、四つの想像力が、互いに入り乱れ、衝突し、変形し合う。カメラを向けられると、私は同時に四人の人間になる。すなわち、私は自分が自分はそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間、である。

 

 

想像の世界においては、「写真」は(私が志向する「写真」は)、非常に微妙な瞬間を表している。実際、その瞬間には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体となりつつあること感じている主体である。

 

 

「写真」が「死神」とならないように、「写真家」は、戦々恐々として大いに奮闘しなければならない、とでもいうかのようである。

 

 

しかし、以上のように生き生きと見える操作の産物である写真のなかに自分の姿を見出すとき、私にわかることは、自分が「完全なイメージ」になってしまったということ、つまり、「死」の化身となってしまったということである。

 

 

結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。

 

 

6.「観客(スペクタトール)」――その無秩序な好み

 

私はメイプルソープのすべてが好きというわけではない。それゆえ私は、歴史や文化や美学の問題ついて語ろうとするとき人が用いる、あの便利な観念、つまり、ある芸術家のスタイルと呼ばれるものを承認することはできなかった。私は対象に対する自分の思い入れがどれほど力をもち、どれほど無秩序で、どれほど偶然に左右され、どれほど謎に満ちているかを見て、「写真」というものはあまり確実でない芸術であると感じ、好ましい肉体や嫌いな肉体を扱う科学もまた(仮にそれを打ち立てようと思っても)、まったく同じようなものになるだろうと感じた。(p.27-28

 

 

ましてや自分の個性をテクストの舞台いっぱいに繰り広げるためではない。それどころか、その個性を、主体の科学といったものに捧げ、提供するためである。その科学の名前はたいした問題ではないがただその科学は、私を還元することも圧殺するもないような、ある一般性に到達するのでなければならない(これは、まだおこなわれたこのない賭である)。(p.28)

 

 

7.冒険としての「写真」

 

むしろそれは心騒ぎであり、祭りであり、労働であり、言い表されることを求めてやまない、いわく言い難いものの圧力である。(中略)それゆえ、ある種の写真が私におよぼす魅力を(とりあえず)言い表すとしたら、最も適切な語は、冒険(=不意にやって来るもの)という語であると私には思われた。ある写真は私のもとに不意にやって来るが、他の写真はそうではないのである。

 

 

冒険の原理によって、私は「写真」を存在させることができる。それとは逆に、冒険がなければ、写真は存在しない。

 

 

この荒涼たる砂漠のなかで、突然、ある写真が私のもとにやって来る。その写真は私を活気づけ、私はそれを活気づける。それゆえ、写真を存在せしめる魅力は、活気づけと呼ぶことにしなければならない。