幸福なポジティヴィスト

考古学/Archaeology×メディア社会学/Media Studies×戦争社会学/Sociology of Warfare

津田道夫『侵略戦争と性暴力――軍隊は民衆を守らない』

<書誌データ>
津田道夫,2002,『侵略戦争と性暴力――軍隊は民衆を守らない』社会評論社

侵略戦争と性暴力―軍隊は民衆をまもらない

侵略戦争と性暴力―軍隊は民衆をまもらない


目次

プロローグ ミニー・ヴォートリンの問いかけ
 1 小鳥たちが私を悲しい気持ちにする
 2 「日本の良識ある人びと」はいた,しかし…….

Ⅰ 戦争下における性暴力と強姦
 1 国際的なスタンダード
 2 ベルリン解放=ベルリン強姦
 3 加害者が口を開く
 4 被害者――スティグマとトラウマをこえて

Ⅱ 言語論からみた加害兵士の精神状況――『東史郎日記』ほかを通じて
 1 東史郎と『わが南京プラトーン』『東史郎日記』
 2 華北のある部落にて
 3 「酒呑童子の岩屋」にて
 4 言語コミュニケーションと気分

Ⅲ 疎外された性交――強姦所としての慰安所
 1 歴史的形成物としての人間的性向
 2 性生活におけるダブル・スタンダード
 3 「慰安所」の発想はどこから
 4 「強姦されるという仕事」(マリア・ヘンソン)

Ⅳ 天皇社会と中国・中国人蔑視
 1 庶民エゴイズムとは何か
 2 天皇社会の形成と実体
 3 侵略思想の系譜と中国人蔑視

Ⅴ 現代文学に現れた戦時性暴力
 1 石川達三『生きている兵隊』の世界
 2 田村泰次郎『春婦伝』の批判

エピローグ 歴史改ざん派の想像力の貧困
 1 『新しい歴史教科書』(扶桑社)の記述
 2 白表紙本の詐術
 3 抽象的な数の問題ではない

あとがき



1.はじめに
 本書は戦時中、中国人女性の生命と貞操を守ろうとしたミニーヴォートリオン女史が期待する「良識ある日本人」は、日本の社会を変えることはなかったということの仮説証明を主題とする。そのために、戦時性暴力や強姦の実態を暴きだし、それを行う兵士の精神状況、それを下支えした銃後大衆の精神状況を、言語論、性関係論、天皇社会論のような原理的なものへの言及をしながら、批判的に分析していこうというのが本書の課題である。
 この課題を論証する前に若干の予備的概念の整理を筆者は試みている。一つにそれは戦時性暴力と強姦の相対的な区別と関連である。これに対する国際的な枠組みでの規定がゲイ・マクドゥーガル特別報告書の中で明らかにされている。ここでいう性暴力とは「性的手段を利用して、または、性を標的として行われる、身体的または心理的なあらゆる暴力」と定義し、「性暴力は公衆の面前で裸になることを強制したり、性器を切除したり、女性の乳房を切り取るなど、人の性的特徴に向けられた身体・心理双方への攻撃を意味する」とされている。一方の強姦は「強制、威圧または脅迫のもとでの、ペニスまたはその他何らかの物体の膣または肛門への挿入、または、強制、威圧または脅迫のもとでの、被害者の口の中へのペニスの挿入である」とされている。 定義は明確に分け割れているがこの二つの関係は、強姦は戦時性暴力の必要条件ではあるものの、十分条件ではないというものだ。これにより、われわれは戦時性暴力=強姦をイメージしがちであるが、この戦時性暴力の定義は我々のそのイメージより、より多くのが該当することを思い知らされる。もはや性暴力のイメージが、私のはるか想像の及ばぬところまで拡大していることをマクドゥーガル報告書は物語っている。以上のような前提のもと本論へと進むのであるが、上記の課題解明のもと、本論はプロローグ・エピローグを除く5つの大きなまとまりによって構成されている。第1章は戦時性暴力についての研究の発展(裏を返せば今まで明らかにされてこなかった)理由について、その規模、実態について言及されている。第2章では筆者のオリジナリティと思われる言語論的考察が行われ、そこから当時の兵士の精神状況が明らかにされていく。ここでは『東史郎日記』や『わが南京プラトーン』を主な史料として扱っている。続いて第3章では性行為という原理的なもの対しで分析の目を向ける。人間の性行為と言う者の定義からはじまり、歴史的変遷を追った後、「疎外された性交」という概念を用いて、民衆―王族、軍隊慰安婦における性交を分析していく。第4章では、戦時性暴力を含め、虐殺・掠奪と言う行為の条件・原因として、前線と銃後と言う二つの社会を相対的に分けて考えていく。ここでは、残虐な行為に兵士を駆り立てたものに日本的特殊性があるとし、筆者はそれを天皇社会とそれとセットとなる対中蔑視に求めた。最後に5章として現代文学に、戦場での戸惑いながらも能動的なニヒリズムに身をゆだねていく兵士の姿が描かれていることから自身の論を裏付けると共に、戦時性暴力への認識の甘さ、男性権力社会の一面を糾弾する。以上のように本書を概観するに、本論の具体的な指摘の是非はともかく、流れとしては課題に対して一貫したものとなっている。
 そこでつぎは、この課題を解決する個々の具体的な指摘が妥当であるか、さらには最終的な結論は妥当であるかと言うところに向かう。

2.本書の要約との具体的な指摘への検証
(1)第1章
まず批判の目を第1章に向けてみよう。この章は全体を通した課題の中でどのような位置づけとなるのかについて考えていく。重複するが本章の要点は、戦時性暴力が明るみにされない社会条件を考察すると共に、それを個人、つまりは加害者の潜在意識にまで踏み込み、これらによって明らかにされてこなかった戦時性暴力が昨今被害者の立場から告発されていることの重要性を述べていることと言えるだろう。これによって全体のテーマである戦時性暴力がなぜ今問われているのかと言うことの大まかな歴史の流れが明らかになっていくと考える。
本章の主な材料はベルリン解放時の大量強姦である。戦時性暴力の視点で見た場合、このベルリン解放と言う世界史的に見て「良いこと」であったものが、当時そこに住む婦女子(140万人)の7%が強姦にあうという惨劇を呈することになる。10万近い女性が強姦に合い、そのうちの10%が妊娠し、おなじく10%が何らかの理由で死亡した惨劇が世界へ発信されるのは、冷戦終結後の20世紀末であった。この問題がなぜ公に認識されてこなかったのか。筆者は2つの要因が存在すると見た。一つは被害女性家族に見られる共犯関係である。家父長的な男性権力社会的な習慣による被害女性への蔑視であり、これは被害女性にも「犯行の共同責任」があるとして断罪したものである。男らしさの一端である自らの妻を守るという行為を征服によって剥奪され、この男らしさの裏返しとして奴隷根性が現れ、無作為の共犯が成り立っていく。さらには依然ドイツが行った占領地への女性の強姦が報復として戻ってくるという無理な自己納得、つまりは強姦の受容がみられていくのだ。二つ目はイデオロギー的側面である。ソ連軍にとって、ソ連軍とはファシズムを打倒し、ベルリン市民を解放したという聖ソ連軍であるべきであり、大量強姦は政治的な意味で爆弾となる。以上二つの要因によってこの問題は明らかにされてこなかったという結論であった。
次に筆者が目を向けるのは加害者である。中国戦線で残虐行為に加わった兵士の手記や回想というもののほとんどが、強姦・強姦殺人を自ら行ったと告白するものではない。しかし、この強姦に関する自慢話が広く話されていたことが今日明らかにされている。これは戦後復興の中で安定した生活の希求を背景に、戦争犯罪の合理化が図られ、潜在意識へと抑圧されたため、仲間内という「気持ちの分かる」存在同士での懐古談へと限定されていった。
最後に言及されるのは被害女性である。ここで被害女性らの証言から彼女らがスティグマとトラウマに苦しんでいること、これも被害状況を明らかにできない要因の一つであることが窺える。
以上大きく4つに分けた要因により性暴力の詳細と言うものが表面化しづらいものであることが述べられてきた。実証できる素材は持ち合わせていないが、このような戦時性暴力が戦後何十年もたってから噴出した理由は上記の4つの理由の崩壊、つまりイデオロギー的束縛からの解放などが挙げられると同時に、「周辺の死」が挙げられると思われる。次章に登場する東史郎と言う人物はその著作によって名誉を傷つけられたとして訴えられている。 つまり、自身の不用意な告発が自らの上官や同僚とその家族、さらには自らの家族の生活を破壊しかねないということがこの手の告発には付きまとうのである。その点、死後であればそこへの遠慮は幾分軽減される。裏返せば、彼らの死後、さらにはその周りの人間の死後でなければ告発することは不可能であることを示していると言えないだろうか。それは加害者だけではない。自らが受けたスティグマを家族に対して負わせるわけにはいかないと被害者が考えても何ら不思議はない。つまり、戦時性暴力はリアルタイムで配信される現代のものと、それが不可能なものとでは出てくるまでに大きな時間差が生じる。忘れたころにやってくるものであるがゆえに疑いやある種の厄介さを以て扱われかねないこの問題を真摯に取り上げ、検証することの重要さをいま改めて知らされる思いである。

(2)第2章
本章は『東史郎日記』をもとに兵士の精神状況を探るものであるが、それができるのは『東史郎日記』がもつ史料的価値に依存する。それは兵士の発語、会話が再録されていることであり、この言語表現の内容を通して筆者は探っているのである。
筆者は中国戦線の兵士が使う「ニーデーピーカンカン」という言葉に着目した。これは現代日本風に言い換えると「女性器を見せろ!」という訳語になるが、中国語ではより低俗で卑猥な表現である。ほかにもホワクーニャンなど、兵隊仲間で通じるジャルゴン、軍隊式用語としてこのような低俗な語句が使用されていく。これら兵隊式中国語はもちろん軍隊公用語ではない。しかし、これらジャルゴンは兵士皆知っている状態であり、禁止されることなく、暗黙の了解として広がっていく。これは公式に基づく序列の制御が一応は機能していても、戦場において容易に制御不能となることを示している。
加えて言語表現は気分や感情と言った非言語的なものが絶えず付きまとう。この前提をふまえながら『東史郎日記』を読むと、兵士の発語に付着するその場の気分―攻撃的な淫猥性、庶民的打算などが合わさったニヒリズム的で捨鉢気分―が漂っていることがわかる。筆者はこのような状態になると理性によるコントロールは聞かず、この気分を共有する仲間内でのある種の規範が確立していき、それが戦場と言う自暴自棄に陥る状態のなかで広がっていくのだという。「自由奔放な子」 のように刹那的な衝動の発散が行われていた中国戦線では、条件が整えば、ほとんど必然のように強姦が行われていたと思われる。
以上のように感情や気分と言った非言語的なものが兵士の発語に付着し、中国戦線での雰囲気を伝える。加えて非公式の兵隊用語(それ自体が性暴力である語句)の定着は、末端まで統制機能が十分に働いていないことを示した。よって庶民的打算とニヒリズムによって湧き上がる衝動を発散してきたことなどは、理性によるコントロールを加えることは不可能であったことを読み取れるという。

(3)第3章
 ここで筆者は「疎外された性交」を軍隊慰安婦や無差別強姦の分析タームといて提案する。つまり、人間的性愛の欠如した性交である。では、まず「疎外されていない」性交とは何か。それはひとつに肉体的な相互媒介的な過程であること、そしてひとつは双方からなる性愛感情を確証する相互媒介的な過程であることだという。これは相互的なエロスにもとづく性交であると共に、性交を相互的なエロスにまで高める人間的なラディカルな過程であることが求められ、これをもたらす精神的要因は個人的性愛にほかならない。
 個人的性愛とは歴史的な形成物であり、婚姻関係と不可分である。人類の婚姻史の歴史的段階は野蛮時代には集団婚が、未開時代には対偶婚が、そして未開と文明の中間に女奴隷に対する男の支配もしくは郡婚が入り込み、一夫一婦制=家父長制の文明へと続くものだ。ところが、富の増加とともに、富の相続人として男性に重要な地位が与えられ、家父長的一夫一婦制が確立される。よって自然的ではなく、富に左右される打算的な婚姻形態・家族形態として個別婚が採用される。そして皮肉にもこの一夫一婦制の中にこそ近代的な個人的性愛が成立してくる。
 この一夫一婦制の誕生は世界に性のダブルスタンダードをもたらした。ギリシャでは生殖の道具としての妻と快楽の道具としてのヘタイラと言われる高級売春婦が現出した。日本でも17世紀以降、公娼制の成立と儒教イデオロギーを基礎とした女性の美徳が説かれるようになる。この女の道は性行為にまで及ぶ。良家の妻の心得として求められた性行為は「疎外されていない性交」のような人間的で、相互的なエロスの創造を目的としたものではなく、男性側からの快楽の要求にこたえることを美徳するような「疎外された性交」にほかならないものであった。
 この「疎外された性交」の一つの極を示すのが王侯の婚姻である。国家行事としての性行為は、もはや私的なものではなくなり、后は性交における自由(避妊・離婚など)を失う。この自ら置かれた位置から自由でないことは慰安婦にも言えることであるが、それは対極のものであると言わなければならない。
 この慰安婦についてこの発想はどこからと言う点に関しては、これは今までの慰安婦研究の相違と変わりなく強姦防止であったと結論付けている。慰安婦を日本社会がどうとらえたかと言う点に関しては、元兵士らは必要悪であるとし、一般男性にすらもその声が届くことはなかった。この原因として売春防止法などからくる売る方が悪いというイメージや、いまだに「血の気が多い」男性には慰安を与えるべき、もしくは軽く見てあげるという意識が残っているからであると結論付けている。この後マリア・ヘンソンの事例をもとに慰安婦の実態を追っているが何か学術的に新しいものでもない。しかし、「疎外された性交」を分析タームとして用いることで、慰安所での兵士が人間的性愛から疎外され、心情として満たされえない性交を続けることで人間の心が腐っていく様を導き出した。これは慰安所が目的を達しえなかったこと、慰安婦らが兵士の暴行に絶えずあっていたことの原因となりえると思われる。

(4)第4章
 ここで筆者は中国戦線での兵士に共通してみられる凄惨な行為を支えた日本人将兵と銃後の大衆の分析へ入る。前線では功名心や打算による無理な作戦と怒涛の進撃、それを支えられないことから始まる現地調達主義、予備・行為役を用いたことによる各指揮官の権威喪失とニヒリズムを分析する。銃後では国民全員が中国への敵対感情を煽り、煽られ近衛内閣の「暴支膺懲」声明がそれを代表する。この銃後の社会は昭和・世界恐慌による社会の矛盾の解決を対外侵略によってはかろうとする軍部の宣伝のもと構築されていく。侵略ではなく恵与であり、中国人はけしからんとする暴支膺懲は徐々に大衆に浸透していった。さらに慰問袋や郷土部隊と言う制度は兵士らを武勲へと駆り立てる。このような庶民エゴイズムとニヒリズム、さらには村社会が集団における個の罪悪感の吸収を担い、大衆の思想的土壌が形成されていったと筆者はみる。
 このような大衆の思想に加え、ポイントとなるのが天皇社会とそれとセットに構築された中国人差別である。天皇制国家とは天皇による道徳価値の独占であると筆者は見た。この思想はやがてその天皇をいだく日本の道徳的価値の独占へと進化する。これは軍部が何かと統帥権を持ち出し正統性を確保したことや、軍に動員されることが同時に主体的な自己実現となりえたことへつながっていく。このような天皇制国家イデオロギーとワンセットとした中国人蔑視の感情はどこから来るのか。歴史をさかのぼり分析すると文明開化前の清国の半植民地化の過程が、今まで畏怖してきた中国があっさりと日清戦争で負けた。今までの畏怖の裏返しとして覆しのないほど大衆に中国蔑視の意識が定着したのだ。そしてこの弱き中国の意識で統一された軍内部の意識は、手強く抵抗する中国によって憎悪への感情へ転換されていく。道徳的に優れた日本とそうでないアジアと言う感情は武力発動による侵略を以て白色人種に日本の国威を知らしめるという考えに発展していくのであった。

(5)第5章
 ここでは現代文学に著された性暴力をあげている。この章は今まで批判してきた男性権力社会エゴイズムや兵士が戦争を通して中途半端な感情を集団意識の中に吸収していく様を確認している。

3.本書の成果と課題
 本書の成果として二点あげる。一つは兵士の発語から見る兵士の精神構造を明らかにしたことと、それが庶民的な打算やエゴに基づくものである一方、天皇制国家社会という日本の特殊性もその原因とすることができるという分析である。
 公式用語でもなく、発語が憚られる言葉の定着は、前線の統帥機能が効力を為し得なかったこと、そこから醸し出されるニヒリズムの定着は衝動を理性によってコントロールするのではなくなった。
 それら兵士の精神は庶民的なエゴイズムにより醸成された前線の意識、加えてそれを支える銃後社会にまで浸透し、中国戦線における凄惨な行為を生み出すことになったのである。
 本書の課題として、一つは読みにくさである。これらの社会の構造を筆者は階級によって社会を特徴づけた用語を用いる。日本の庶民社会とは経済的階級であるプロレタリアートは政治的階級にまでなりえず、天皇制社会を支える役割を担うことしかできなかった。男性権力社会とは、天皇制国家の支配の源は家父長制一夫一婦制家族であり、男性が圧倒的優位に立つものであった。ほかにもカタカナ語や筆者独特のタームにより叙述されており正直読みにくい一冊であった。
 一点だけ少し疑問に思うところがあった。第1章の被害者証言者の勇気ある証言についてだが、勇気をたたえそれによって明らかになったことのお礼として感謝を申し上げるのは構わないが、中学生の女子生徒の発言引くことで彼らと対照化し、あたかも中学生に劣るという書き方をしているのはもったいない。ほかにも基本的に反論に対して切って捨てる傾向がある。南京大虐殺の南京市民の数に関しては根拠のある反論しているが……。本書の横道にそれることを危惧していると思うが、証言を見て、それをどう解釈したかと言うなかで,質的研究は他の解釈がなぜ成り立たないのかしっかり反論することがもとめられる.