幸福なポジティヴィスト

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岡野八代,2014,「日本軍「慰安所」制度はなぜ軍事的「性奴隷制」であるのか——問われる現在の民主主義」

<書誌情報>
岡野八代,2014,「日本軍「慰安所」制度はなぜ軍事的「性奴隷制」であるのか——問われる現在の民主主義」『世界』862: 96-104.

世界 2014年 11月号 [雑誌]

世界 2014年 11月号 [雑誌]


<本稿の課題>
九三年当時に共有されていた前提が崩れつつある現状に鑑み、日本軍「慰安婦」問題をめぐって、何が核心的な問題であるのか、なぜ、国連人権条約諸機構がここにきて相次いで日本政府に対して勧告を出すようになったのか。「奴隷制」、「国民基金の過ち」「『民主主義』と『修復的正義』」という三点から考察する。

<結論>
①「慰安婦」制度は性奴隷制である

<指摘や論証過程>
奴隷制度について
日本軍「慰安所」制度が、「奴隷制」にほかならない。
→「〈なぜ「慰安所」に女性たちがいたのか〉が問題の核心ではなく、〈「慰安所」において女性たちがどのように扱われていたのか〉が問題の核心だからである」
ジャンジャックルソーの奴隷についての見解
アリストテレスは正しかった。しかし、彼は結果と原因を取りちがえていたのだ。ドレイ状態の中で生まれた人間の全ては、ドレイとなるために生まれたのだ。……だからもし、本性からのドレイがあるとしたならば、それは自然に反してドレイなるものがかつてあったからである。暴力が最初のドレイたちをつくりだし、彼らのいくじなさがそれを永久化したのだ」
→奴隷の扱いを受けてもふさわしいもの(=原因)がいるのではなく、そもそも奴隷制度があるから、その結果として、奴隷の扱いを受けるものが存在するのだ。自由意思によって奴隷にはなりえない。
慰安所に彼女たちが存在していた理由は、そこに軍慰安所を、日本軍が設置したからにほかならない。軍慰安所があったから、彼女たちはその結果として「慰安婦」にさせられたのだ。
⇒奴隷というのは自らの意思によってなるものではなく、奴隷制度があるから、その結果として、奴隷の扱いを受けるものが存在する。以上から軍慰安所があったから、彼女たちはその結果として「慰安婦」となった。
○軍事性奴隷制=人道に対する罪を認めなかった「国民基金
クマラスワミ報告における性奴隷制の定義
「戦時、軍によって、または軍のために、性的サービスを与えることを強制される」制度
クマラスワミの主張する慰安所の非人道性
「上海、日本の沖縄その他の地方、中国およびフィリピンにあった慰安所の規則はまだ残っており、なかでも衛生規則、利用時間、避妊、女性に対する料金およびアルコールと武器の禁止を細かく規定している。/これらの規則類は、戦後に残された文書のうちで最も罪深いものである。それらは、日本軍がどの程度まで慰安所について直接の責任があり、その組織のあらゆる側面と深くかかわっていたかを疑いの余地なく明らかにしている。そればかりでなく、慰安所がいかにして合法化され制度化されたかも明白に示している」
→取扱規則に「軍事的性奴隷制のシステムの異常な非人間性」を見て取っている。
奴隷制禁止の理由は「合法とされることによって、人間社会の基礎を掘り崩してしまうからである」
その秩序に対する攻撃は、個人に対する罪ではなく、人道humanity=人類に対する罪を形成されると考えられている。
規則の下で被害者女性がどのような扱いを受けて来たのかということを問題としている。
しかし、日本政府は自らの調査において日本軍が設営と運用に関与したことを認めながらも、なお「法的責任はない」とし、そのかわりにアジア女性基金を行った。
こうした日本政府態度は被害者女性たちが求める「尊厳の回復」に耳を傾けたのだろうか。

○なぜ、民主主義の問題なのか
人権回復にむけた国際法上の到達点は徹底的に無視され、第二次世界大戦後に確立され、進展してきた人権レジームに大きく背く、あたかも軍慰安所を設営していた当時であるかのような、転倒した議論がなされ続けている。
強制連行にこだわる議論に共通する「〈奴隷狩りのような強制連行がなければ、責任がない〉」という議論は、慰安婦問題の本質を理解していない。
民主主義とは「実際には平等でも自由でもない諸個人が、それでも平等に扱われることを求めた際に、ひとつひとつ制度を精査し、批判的に現状を捉え、改革していく政治システム」という意味にを持つことにおいて軍事性奴隷制という人道に対する罪を放置することは、被害者の声に耳を貸さないという点で、現在もなお、かつてその尊厳を踏みにじられた人の人権をさらに傷つけるという、反民主主義的な状況である。
「修復的正義」という概念について
社会は不平等で、不正義を許容してきたという事実から出発。
→被害者は、平等な存在としては認められてこなかったこそ、被害に遭った。
→金銭的・物理的な賠償を超えて、対等な人間として加害者と被害者が一つの社会を構成することに向けた、変革的な意味を持った対話を伴う交流を命じる。
ウォーカーによれば被害者の修復は「善意や慈悲」からなされる行為はふさわしくない。その失敗例アジア女性基金
第一に、「償われるべき『被害』があったこと」を認めていること、第二に「正義をなす意図があること」、そして「当然果たすべき責任がある」と認めること。第三に謝罪が「慈善・善意・厚意から発しているのではない」という点。
慰安婦問題は過去の歴史認識の問題であるというよりはむしろ現在の民主主義のあり方
慰安婦らに対等な人格を認めようとせず、加害責任を問われている政府が、善意で謝罪をしていると公言しても許される社会をつくりだしている。