幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

橋爪大三郎『戦争の社会学』①

<書誌情報>
橋爪大三郎,2016,『戦争の社会学――初めての軍事・戦争入門』光文社.


目次

はじめに
序章 戦争とはなにか ⇦いまここ!

第二章 古代の戦争
第三章 中世の戦争
第四章 火薬革命

第五章 グロチウスと国際法
第六章 クラウゼヴィッツの戦争論
第七章 マハンの海戦論
第八章 モルトケ参謀本部
第九章 第一次世界大戦リデル・ハート
第十章 第二次世界大戦核兵器
第十一章 奇妙な日本軍
第十二章 テロと未来の戦争
あとがき

1.軍事社会学

 本書のテーマは「戦争の社会学」だが,既存の学問領域としては「軍事社会学」と言われる領域に当てはまる.軍事社会学とは,橋爪によれば「戦争も軍も,社会現象である.社会現象であるからには,法則性がある.戦争の法則性を理解して,リアリズムにもとづいて平和を構想する.これが軍事社会学(military sociology)である.」(「はじめに」: 4)と定義されている.

 橋爪が軍事社会学に着手した理由は,私的な側面と公的な側面の2つ.私的な側面は,橋爪が東工大教授だから,社会学の講義をする際に,学生に興味を持ってもらうため.つまり,軍隊は組織と技術(テクノロジー)の一体化であり,社会学と理工学分野の融合地点であるから.公的な側面は,戦後日本の「戦争」または「軍」なるものへの無知である.橋爪は戦後日本の平和主義が「平和とは軍を持たず,戦争を放棄することで達成される」「日本は憲法9条により平和を達成してきた」という思考停止の物語を維持していることを問題視し,戦争と軍を理解することから平和を構想する軍事社会学の視座からのアプローチを試みる.

2.「戦争」とは何か?

議論の出発点は,クラウゼヴィッツの『戦争論』で提示された戦争の定義である.この本は戦争論の古典として知られている.ここでは,戦争を次のように定義している.

「戦争とは,相手をわれわれの意志に従わせるための,暴力行為である」
(第1部第1章,橋爪訳 2016: 13)

 つまり,食い違う「意志」もった「自分」と「相手」がおり,(紛争)状態の解決手段として暴力が選ばれた状況が発生した場合,それを「戦争」(War)と呼びましょう.こういうことである.ここから橋爪は,戦争の本質を「意志を相手に押しつけること」(p.14)と理解した.
 このクラウゼヴィッツの定義や橋爪の解釈は,広義の戦争であり,非常に広い範囲の暴力行為を包含する.例えば,クラウゼヴィッツは続けて,こうも言っているらしい.

「戦争とはつまるところ拡大された決闘以外の何ものでもない」
(第1部第1章,橋爪訳 2016: 15)

 クラウゼヴィッツはこのように「決闘」と「戦争」を連続的に捉えている.こうした戦争の定義,もしくは言葉遣いは前近代において一般的だったようで,戦争という言葉は個人から村落共同体,そして国家(王朝)のあいだの暴力行為を指している.言い換えれば,戦争をする権利は万人に開かれていたともいえる.この戦争をする権利は,時代が下るにつれて徐々に限定されていく.近代国家は暴力を独占し,軍と警察を配備し,取り決めとして国家以外の主体は,暴力を行使する権利を失った.つまり,現在戦争をする権利=交戦権を有するのは主権国家のみに限定されており,それ以外の例えばテロ組織や個人は交戦権を持たないということになる.
 ところが,主権国家同士が武力行使に訴えても,それを「戦争」とするかどうかに関しては,相互の承認が必要となる.宣戦布告をし,戦争状態に入ることを確認したり,宣戦布告をせずとも戦争であることが明らかであれば,それは戦争である.たとえば,支那事変(日支事変・日華事変)という歴史的呼称があるが,これは戦争のような状態ではあったが,両国が戦争ではないと主張したこと,戦争とは認めなかったことの証である.こうした苦し紛れの痕跡は数多く認められる.武力行使ではあるが戦争ではない事例は他にも,内乱(Civil War)があり,南北戦争戊辰戦争(普通戦争と表記されるが,厳密には「南北内乱」「戊辰内乱」となる.)がこの事例に当てはまる.
 戦後歴史学は様々な武力行使事例を「実質的には戦争であった」として「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」,日清戦争から始まり,植民地支配は武力行使をともなったとして「50年戦争」という呼称を使っているが,橋爪は「戦争」の定義やその包含する諸事例を検討し,「勝手によび変えてもらっては困るのである.」と苦言を呈している(笑)
 以上をもとに,本章の要点を命題式に抜き出すと次のようになる.

①戦争とは,相手をわれわれの意志に従わせるための,暴力行為である.
②これらの権利=交戦権は万人に開かれていたが,近代国家の誕生とともに縮小し,現在は主権国家のみが交戦権を有する.そうした点で,「戦争」であるかないかはその出来事が起きた時代や社会と照らし合わせて検討する必要がある.
③暴力行使=戦争状態ではなく,両者の承認が必要となる.両者の承認がなければ,戦争とはいえない.

3.戦争社会学の論点

 以上の橋爪によるまとめから,論点をあげるとすれば,「戦争」及び暴力行使をめぐる名称が一番にあげられるだろう.つまり,「先の大戦」をどう呼ぶのか,あるいはなにを「戦争」と呼ぶのかという問題をめぐる「戦争」呼称のポリティクス,名称の政治学の問題である.これは2つの問題系に分けられよう.1つは,あの出来事をどう呼ぶのかに関係する対象の命名時から現在までの名称の政治学の問題で,もう1つは,戦争の定義の拡大及び縮小に伴う政治学である.もちろん国内外問わず.言い換えれば,戦争ではないものを戦争に包含しようとする政治と,戦争であったものを戦争から排除しようとする政治である.
 また,近代国家成立の条件である暴力の独占は,独占された暴力を担う軍部という巨大な組織を抱え込んだ.こうした巨大組織内部には「背広組」と「制服組」からなる幹部と一般大衆から動員された兵士によって成り立っている.こうした点から組織社会学のアプローチで,軍を分析することはありうる.それから国家が諸エリート集団によって構成され大衆との相互関係において動いており,多様なエリート集団は相互に対立や協調関係もっている.こうしたことから軍は,非常時・平時による影響力の高低の差はあれど,政治エリートや経済エリートと統合関係をもち,軍産官複合体を形成しうる.したがって,近代以降の政治システムにおける軍部の影響力は論点となるだろう.この論点はパワー・エリート論や多元主義的モデルを打ち出してきた政治学の領域が得意だろう.