幸福なポジティヴィスト

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家永三郎,2002,『太平洋戦争』

<書誌情報>
家永三郎,2002,『太平洋戦争』岩波書店

太平洋戦争 (岩波現代文庫―学術)

太平洋戦争 (岩波現代文庫―学術)

目次

序論 戦争の見方はどのように変わってきたか

第1編 戦争はどうして阻止できなかったのか
第1章 中国・朝鮮に対する政策・意識の根本的な誤りと歪み
第2章 戦争に対する批判的否定的意識の形成抑止
第3章 軍の反民主制・非合理性

第2編 戦争はどのように進められ、どのような結果をもたらしたのか
第1章 中国侵略の開始
第2章 満蒙侵略から全中国侵略へ
第3章 中国侵略と反共思想
第4章 中国侵略における誤算
第5章 戦争の進展に伴う民主主義の全面的破壊
第6章 思想界・文化界の転向・便乗と国民の戦争協力
第7章 中国侵略から対米英乱戦争へのエスカレーション
第8章 対米英戦争における誤算とそのための大破綻
第9章 「大東亜共栄圏」の実態
第10章 戦争における人間性の破壊―「戦争の惨禍」上
第11章 国民生活の破壊―「戦争の惨禍」中
第12章 戦時下の抵抗と怨嗟の声の発生
第13章 戦争による社会関係の変化と戦後構想の出現
第14章 「国体護持」のための「終戦
第15章 敗戦悲劇―「戦争の惨禍」下

結論 戦後の歴史において日本は何を得、何を失ったか。


序論 戦争の見方はどのように変わってきたか

1945年8月までの日本では、「大東亜戦争(米英に対する開戦に伴い支那事変を含むものとなる)」「満州事変」「ノモンハン事変」とその他派生戦争は切り離して考えられていた。しかし、当時から、1931(昭和6)年9月に生じた柳条湖事件を発端とする「満州事変」以来の戦争をすべて切り離すことのできない一連不可分の連続行為であることは自覚されていた。中央の人間の証言のほかに、1941年12月の御前会議で、対米英戦開戦の決定された際の説明文中にも、米英との開戦は、「満州国」という「満州事変」の成果を守るためやむを得ない旨が書かれており、「大東亜戦争」の発端が「満州事変」であることを最高国家意思として表明している。
次に戦争中の日本では「大東亜戦争」は「聖戦」として多くの国民に積極的に支持されていた。少数の人々が批判的、否定的な態度を示したが、そのような考えは権力により徹底的に抑圧された。
ところが、敗戦による占領の開始とともに、戦争の名称及びその見方は一変された。占領軍により「大東亜戦争」という用語の公式使用が禁止され、新たに「太平洋戦争」の名が普及させられた。「満州事変」以後の戦争を一連の行為としてとらえる立場は、連合国共通の基本方針であって、極東軍事裁判は、この方針に基づき、「満州事変」以来の戦争犯罪について責任を問うたのであった。
戦争の名称とその範囲についての占領軍の見解は、表面上「満州事変」だけを切り離して理解してきた日本の常識を変えただけに過ぎない。「太平洋戦争」という名称は、もっぱらアメリカから見た主戦場が太平洋上であったというだけで、中国戦線、対ソ戦、マレー以西の戦争を包括する戦争の名称としては正確ではない。
占領軍はこの戦争を軍国主義者の企画した不法な戦争と見、日本の改革を行った。極東軍事裁判では、この戦争が国際法に違反する侵略戦争であり、また人道に反する行為を伴った犯罪的戦争であると認め、その責任者を戦犯として処罰する判決が下された。この裁判は、戦勝国が自分たちのことは棚上げし、戦敗国の責任のみを一方的に追及している点、事後法による処罰が罪刑法定主義に触れる点など、問題を多くはらんでいる。これがもし、日本国民の自発的意思によりおこなわれたならば、もっとすっきりとした形になっていたが、戦争に関する法律上の責任追及は、極東軍事裁判のみで今日に至る。
ただ、極東軍事裁判が、若干の問題を含みながらも、一般市民にかなり広い範囲で支持される態度が見られたのは事実であり、それは戦争中からも日本国民の中で小数意見ながらも戦争に否定的な態度をとった人々があり、そうした意見が戦後急速に支持を集めたこと、また戦争中は支持していた人の中でも、戦争の実態を知るに及んで戦争に対する評価を転換させたものが多数に上ったことが考えられ、単に占領軍への迎合だけではないと考えられる。日本国憲法の第9条において戦争放棄・戦力の不保持の草案が出された際にも、国民の多くがその平和主義を十分理解したとは言えないにもかかわらず、これに反発せず、むしろ好意の態度を持って受け入れたのは、やはり敗戦直後には、国民の多くが戦争に対し否定的な心情を持っていたからこそである。
戦後学問の自由が獲得され、真実の究明をタブーとされてきた日本史研究が大きく飛躍した。歴史学研究会の「太平洋研究史」は、戦争の帝国主義的性格と正面から取り組み、その本質を総合的にとらえようとした初めての試みだった。
しかし、アメリカの日本を反共軍事陣営の一環とするためにとった占領政策によって戦争の見方は一変する。再軍備アメリカへの軍事的従属が強化される過程において、戦争を積極的に評価する動きが見られた。中国蔑視意識を露骨に書いたものや、また、日本人の加害行為よりも被害事実のほうを強調した内容でみたされたものも出版されており、戦争への客観的批判が鈍ってきた。
戦後20年を経て、戦争体験を持たない世代が増加し、その世代にとって、戦争についての理解は学校教育での歴史の取り扱い方や、テレビ・映画・その他マスメディアを通じて得るところが大きい。ことに学校教育で戦争をどのように教えているかは重要であり、戦後約10年までは戦争に関して「無謀」と「責任」とを断言している。しかし、1953年池田ロバートソン会談以降180度の転換を遂げた。かつては、生徒・児童の大多数が戦争に対し否定的であったのに対し、その後は次第に肯定的評価が増加してきた。戦後長い年月がたつことにより、多くの史料・研究が公刊され、事実認識の精緻の度合いが高くなる一方で、一般国民においては「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」に類した退歩が顕著であることは軽視できない。

第1編 戦争はどうして阻止できなかったのか

 第1章 中国・朝鮮に対する政策・意識の根本的な誤りと歪み
中国を侵略する際、国内において少数の反対派の声が支持を得ず、最後まで侵略素子の条件がそろわなかったのは、長年にわたる日本人の対中国意識、日本国の対中国政策の歪みがあることを前提にしなければ、理解できないだろう。しかし、その歪みの原型は、朝鮮に対する政策・意識の歪みとして形成されていた。
古代日本では、朝廷が中国に朝貢の礼をとっていた時期があり、その後も中国は文化上の先進国として、長らく畏敬の目をもって見られていた。しかし朝鮮に対しては、しばしば軍事的進出を行っていた。文化の供給源でありながら、政治的には中国と異なる傲慢な態度で臨んだ。欧米諸国が主な低開発地域の分割を終えた後、追いつくために近代化に乗り出した日本は、隣国朝鮮のほかに進出の場を見出せなかった。アジア諸民族の力を合わせて欧米の侵略に対抗するのではなく、欧米にならい挑戦を侵略対象とすることに疑問を感じたものは少なかった。弱肉強食の現実に、強者に対しては卑屈に迎合するか、力学的に反発するかのいずれかの態度しかとりえない一面、弱者に対しては傲慢に圧伏しようとする。平田篤胤流の日本主義に基づき、全世界を支配するといった思想は、のちの「大東亜共栄圏」の構想と気味が悪いほど一致している。少なくとも、封建的武力征服イデオロギーが結びついていることは否定できない。
 もっとも植木枝盛のように侵略と戦争のない世界の実現を構想した思想家もいたし、小国主義も唱えられた。しかし、政府当局や民権派の多くの人間が、海外進出による強国への道を歩むことを熱望した。
 日清戦争は畏敬の目をもって見ていていた対中国観を一変させた。敵愾心を煽るだけでなく、中国を蔑視する意識の強い歌謡が流行した。この戦争で一部の漢民族に支配者になったことは、ますます優越意識を助長し、より広い地域への進出が企てられた。朝鮮支配を確保するための対外戦争は、朝鮮だけでは満足せず、中国内部への進出へとエスカレートしていった。
 台湾・韓国での統治では、参政権は与えられず、その自由は極度に拘束され、政治的に完全な隷属状態におかれ、経済も日本の独占資本の支配下に置かれ、日本人と現地人とが鮮やかなコントラストを描いていた。朝鮮では土地調査の名を借りて領地の没収が行われ、土地を失った朝鮮人は労働者となって内地にわたり、冷遇と侮蔑の目を向けられた。中国の主権下にある満州さえも、事実上は日本の植民地と化しており、満鉄や鉱山では、劣悪な条件で使役すことによって莫大な利益を上げた。日清・日露で日本が犠牲を払ってこれら中国領土を獲得したという歴史が、あたかも日本が中国領土を支配する当然の権利を有するものであるかのごとき心理を抱かせる根拠となった。
 もちろん、中国に対する帝国主義的支配において穏健派と強硬派は存在しており、強硬派だけがリードしているわけではない。しかし、穏健派と強硬派のどちらの立場も、日清・日露で得た領土は日本のものであるという主張は同じであった。
 このような中国進出論の背後には、中国人に対する日清戦争以来の伝統的侮蔑意識があった。協調外交を進めた幣原喜重郎中国が帝国主義によって領土を割譲されたり、不平等条約を結ばれたりするのは国内政治の欠損から生じるものであるもとして、中国自身に責任を転嫁している。軍事評論家の池崎忠孝は中国軍の交戦能力を否定している。陸軍中佐の石原莞爾満州事変の首謀者だが、中国を占領し、日本がアジアの覇者となる思想は、決して石原個人が突拍子に思い付いたものではなく、長年にわたり育てられた中国に対する侮蔑意識が、石原をして体現されたに過ぎない。

第2章 戦争に対する批判的否定的意識の形成抑止

 第1節 治安立法による表現の自由の抑止
   戦前の日本は。表現の自由という権利を一度も享受したことがない。1875年の新聞紙条例・讒謗律や、自由民権運動の切り崩しに大きな効果を表した1880年の集会場例などの一連の治安立法の強化・励行が主なものだ。出版の自由に加え、集会の自由までもが大幅に制限され、国民の政治活動は著しく困難となった。自由民権運動は、単に国会開設を勝ち取るためだけの運動ではなく、同時に表現の自由その他の基本的人権の確立を求める戦いでもあったのである。したがって、民権運動の崩壊は表現の自由獲得の要求の挫折も意味したのであって、大日本帝国憲法においては、ただ法律の範囲内に限られた。それゆえ重要な事実・思想の自由な伝達の不可能な社会では、国民はおのずから権力の志向する方向にのみ、その視野と施策とを限定されることを免れなかったのである。
 

第2節 公教育の権力統制による国民意識の画一化

 明治初年の文明開化期には、教育内容の国家統制を考えなかったばかりか、むしろ様々な意見を自由に教科書として学校で採用させた。しかし、自由民権運動のころから統制が徐々に厳しくなり、全国民が文部省著作の教科書で学習することとなった。
 義務教育を受けるようになった日本では、国民の知的水準を全般的に向上させるという成果を上げるとともに、その教育内容が画一化されるときには、国民の大多数が画一化されたものの考え方を注入される結果となることを免れない。しかし家庭環境や、マスメディアによる影響も考えられ、すべての責任を公教育に帰するのは良くないかもしれない。ところが、当時「非国民」とされた人々は主に高等教育を受けた人物、もしくは不就学者の両極に多く集中していることから、公教育がいかに絶大な役割を演じていたかがわかる。

第3章 軍の反民主制・非合理性

 第1節 国家機構内での軍の地位
 明治憲法のもとでは、陸海軍の統帥権・編成権は天皇に属しており、軍部は政府から独立して行動できた。さらに内閣の構成員である陸海軍大臣は、現役武官制が維持されており、軍部は組閣を妨げることができるほど力を持つことができたため、軍部の意向に政府は沿うことしかできなかった。 さらに軍部はその独立性から、機密情報として政府に真相を伝えないため、政府は軍と連携をとることができず、内政も外交もうまくいかなかった。
 軍部と政府の溝だけならまだしも、下級将校の軍紀違反、出生軍の中央部の意向に反する独走、その上に天皇の意思を無視するなど、本来一糸乱れぬ統制の上に成り立つ軍そのものが、完全な統制力を失ってしまっていた。
 さらに過失の責任は主に外部に押し付け、内部の人間は見かけの実の処分が下されるだけであり、反省の意思は全く存在しなかった
 

第2節 軍内部のあり方

 日本の軍部は、一方では天皇制官僚としての特権を享受する将校と、他方では過酷な労役に服している兵卒という対立があり、下位のものが上位の者に対する絶対服従による従属関係によってはじめてその機構の存立と運用が維持されるものであったから最も非民主的な集団となることを免れなかった。
軍のよい一面として、近代化・能率化・合理化に勇敢なところがあった。しかし、一方で精神面に関しては極端に反動的・非合理的な意識が支配していた。しかし、兵卒とは、彼らを非人間的に扱う上官により掌握されているほうが、より戦力を発揮すると言われている。日ごろたまっているうっぷんが戦闘時敵に向かって爆発するからである。しかし、それ故に捕虜や非戦闘員に対し残虐な行為を行う副次的効果を生む要因ともなっていた。

第2編 戦争はどのように進められ、どのような結果をもたらしたのか

第1章 中国侵略の開始
日本人が中国の権益の維持・拡大に囚われている間に、中国では反植民地状態からの脱却をしようとする要求が高まり、多くの独立運動へと発展した。もし日本が極東の民主国家として、真に中国の独立と進歩を期待し、互いに協力して欧米帝国主義からアジアを解放しようとするならば、中国のそうした政治的自覚と植民地状態からの脱却を援助する方向に沿って努力すべきであったにもかかわらず、むしろ欧米帝国主義と競って中国の植民地化を推進する政策を固執し、在華特殊権益の擁護・拡張に狂奔し、ことに軍は、何かといえば武力をもって中国を圧服することだけしか考えていなかった。       
関東軍の策略により満州鉄道の線路を爆破し、 それを中国兵の仕業として襲撃し、満州の全面支配となる既成事実を創り出した。その後北満・両性に兵をすすめ、満州に傀儡政権を作り、全満をその支配下に置いた。

第2章 満蒙侵略から全中国侵略へ

 満州国の存在は他国から批判の対象になり、国連決議で満州国の承認を得られなかった日本は、国連を脱退した。しかし、満州国建国に成功した関東軍はその成功に酔い、蒙古・華北へと侵略を進めた。華北には日本に少ない資源が豊富であり、軍事的・経済的に見ても手に入れておきたい場所であったからだ。日本の華北への露骨な侵略に、ついに盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まった。日本はすぐに華北を抑え、苦戦を強いられつつも上海を突破、その後華南をも手中におさめ、あとは蒋介石の降伏を待つのみとなった。

第3章 中国侵略と反共思想

 中国を侵略する目的の一つが、中国の持つ莫大な資源を手に入れることであったことは否定できない。しかし、和平交渉の最低要求が満州国の維持と防共駐兵を認めることであったことから、満州を防共の軍事前線基地としてみていたこと、中国との戦争が共産主義の予防という性格を持っていたことがわかる。ソ連を仮想敵国の一つとしてみていた日本としては、中国が共産主義に染まることは北と南から挟撃される形となることを示しており、絶対に中国の共産化は防がなくてはならなかった。この防共思想はイギリスをはじめとする列強の国々の多くが持っていたものであり、日本を極東の防共壁として連帯関係にあることを意識している。これは列強が日本の満州国建国の際、国連からの非難を少なくするため妥協案を模索していたこと、中国侵略に形式的な抗議を繰り返す程度であったこと、イギリスがビルマの援蔣ルートの一時閉鎖を受け入れたこと等からもわかる。

第4章 中国侵略における誤算

 日本軍は中国侵略を行うにあたり、大きな誤解が3つ存在した。1つ目は、中国の軍隊は日本が思うほど脆弱ではなかったことだ。日本は中国を侵略する際には3個師団と予備としての2個師団があれば全土を掌握できると参謀本部は本気で考えていた。知識人の論理的な忠告さえも、非国民と一蹴し受け付けることはなかった。2つ目は、中国人は民族意識が低いと思っていたことだ。占領さえすれば、民族意識の低い民衆は言うことを聞くと思っていたが、いうことを聞かないばかりか、抗日軍への積極的な支援、ゲリラ戦での徹底的な抵抗をみせた。共産党軍は今まで搾取され、政治的に抑圧され、物質的・精神的に虐げられた人たちを解放することで絶対的な支持を得た。相変わらず独裁と搾取を続ける国民党軍、中国人を人と思っていない日本軍になびかないのは自然の成り行きであった。3つ目は中国軍の統制は独裁的ではなく、民主的に行われていたことだ。共産党軍の統制は主に命令ではなく説得によって行われていた。階級もなく、「同志」としてつながっていた彼らは、仲間と話し合うことでルールを決めており、その軍紀は厳粛であった。軍紀が厳しいからこそ、日本と異なり民衆を虐げる行為は行われず、民衆の支持を集めていった。

第5章 戦争の進展に伴う民主主義の全面的破壊

 民主主義の欠如が戦争の原因となるとともに、戦争の進展がいよいよ民主主義の破壊を促進するという悪循環が繰り返され、もし人民の自由意思による別の道の選択が可能とされたときに回避ないし減殺できたかもしれぬ戦争の惨禍を極限化するのに役立った。民主主義の破壊進行は、まず思想統制から始まった。戦争推進に反対する出版・言論・集会・結社をことごとく抹消し、御用団体を最大限活動させて、戦争政策に国民を動員させた。次は大本営発表と言われるもので、好ましい情報のみを放送し、都合の悪い情報は隠蔽、もしくは言葉上のごまかしを行い、国民の戦意を鼓舞するための創作すらも行った。マスメディアとともに教育にも国の圧力はかけられた。小学校の教科書は戦争一色に染まり、正科として軍事訓練が採用された。人権は存在せず、社会主義者と疑われてしまうと、拷問の末留置場へ入れられるか、その場で死んだ。それを恐れ、人々は一言一句に気を付けながら、プライバシーが完全に失われた状態で生活した。要するに、人権感覚の欠如が戦争の原因となり、戦争の激化が人権蹂躙を一層激化させつつ、大破綻への転落の道が続いたことに太平洋戦争の最大の問題点がある。

第6章 思想界・文化界の転向・便乗と国民の戦争協力

 戦争初期の数年間は、思想界において一部ではあるが反戦運動が活発に行われていた。大学教授・共産主義者などのおびただしい数の刊行物が発禁処分を受けており、反戦運動の活発さがわかる。しかし、その中でも共産主義の思想は、国民の大多数にとって簡単に受け入れることができるものでなかったため、大きな広がりを見ることなく崩れ去ってしまったことは否定できない。そのため、1935年以降共産主義が壊滅状態に陥るとともに、反戦運動煮を展開することは不可能に近くなった。言論界においては、自ら進んで軍国主義の方向に順応する動きが高まり、拷問に耐え切れなかった人、肉親を人質にとられた人も合わせ、大部分が「転向」していった。国民においては隣組班長など小単位の家父長的地位の人々が一般市民を叱咤したり、特権的に振舞ってみたりすることで下士官的優越意識を発揮し、戦争に積極的に協力した。ゆえに、権力の強制によって心にもなく戦争に駆り立てられたばかりでないことは否定できないのだ。

第7章 中国侵略から対米英乱戦争へのエスカレーション

 満州を多くの同胞の血を流して獲得した日本は、その戦果を失うことを嫌い、その戦果を維持するために新たに戦域を拡大し続けなければならなくなった。結果、中国全土の掌握が条件となり、そのため北の脅威であるソ連の撃破、他方では戦争を遂行する上で必要な資源を確保するために東南アジアを確保する必要が生まれ、そこから対米英戦争を回避できなくなってしまった。

第8章 対米英戦争における誤算とそのための大破綻

日本は対米英戦争を遂行するにあたって3つの誤算があった。1つ目は、敗戦の大きな原因でもあることで、自国の国力の過大評価と敵国の国力の過小評価だ。戦争を行うに当たって重要な条件は、蘭印から必要分の石油を、輸送船の輸送能力、海軍による安全な護送の確保などを、戦闘における消耗を見込んだ上で維持できるかにかかっていた。しかし、その点計画部局の計算は甘かったうえ、敵の反効力を見くびっていた。もちろん、日本側がすべての点で劣っていたわけではない。高い技術力を生かし、零戦や武蔵、イ号潜水艦を制作・建造している。しかし、電波探知機では終始圧倒され、生産ライン、兵器の質においても追い抜かれた。原子爆弾制作に取り掛かっている間に、日本で考えられたのは風船に爆弾を括り付けアメリカに向けて放流する手段を考えるのがせいぜいであり、本土空襲の焼夷弾に対し、バケツリレーで抵抗するなど、近代戦の空襲・兵器に熟知していれば児戯に等しいことくらいわかるはずであることを、本気で指導していた事例を見ても、いかに安直な想定のもとに戦争が進められていたかを示している。2つ目はドイツの戦力の過大評価だ。これも1つ目に似ていて、ドイツがイギリス・ソ連を破り、大西洋側からアメリカを攻撃すると判断した人間がいたほどで、これも戦争の見通しを楽観的にさせた要素となった。特に陸軍はドイツ留学将校の勢力が強く、ドイツ勝利を確信する人がほとんどだったし、海軍さえ、潜水艦と空軍でイギリスを屈服できると思っていた。こうした世界情勢の軍の認識は主観的立場から見たものであり、非客観的に流れていったのである。3つ目は特攻兵器を考えるなど人権無視の思考様式だ。ニューディール政策を遂行し、自由と活気に満ちていたアメリカを、単なる資源豊かな国とだけ認識し、非人間的なナチスを盟邦と頼みその力を過信し、民主主義の精神が独裁と圧政により生み出した「愛国心」より、はるかに頼もしい戦力であることを認識できなかった。なお、日本の進撃はミッドウェー海戦で止まり、あとは敗戦に続く敗戦で、1945年8月15日をもって連合国軍に無条件降伏した。

第9章 「大東亜共栄圏」の実態

大東亜共栄圏」とは「米英帝国主義」の圧制からアジア諸民族を解放し新しい秩序を創り出すという日本が考え出した構想であり、それをスローガンとして米英との戦争を行った。表向きは、まるで日本がアジアの解放者のような幻想を抱かせる言葉であるが、その実態は、東亜諸民族の完全な独立と平等の上に立つ連帯ではなくて、あくまでも日本の特権的支配を前提としたものであった。被支配地域での共通の特徴としては、参政権の縮小・剥奪、統治機構の要職の独占、政権・軍隊の傀儡化、現地人と日本人の所得・生活格差、創始改名や日本語の強制使用などの皇民化政策、現地人の強制労働、資本の日本軍専用化、略奪、暴行、虐殺、強姦、放火、拷問があげられる。さらに中国、朝鮮地域では日本内地への強制連行、従軍慰安婦制度が見られた。
これらの日本軍の行為に対し、住民は抗日軍を作り、連合国軍とともに戦い、ゲリラ戦でもって日本軍を苦しめた。軍に籍を置かない人々も、情報提供をしたり、支援物資を提供したりした。よくアジア諸民族の独立が、日本が欧米諸国を追い出したから成功したというたぐいの論理から、戦争を正当化する主張する人がいるが、それは違う。日本の力によってアジア諸民族が独立したのではなく、アジア諸民族は日本軍に抵抗することによって独立を勝ち得たのである。
 

第10章戦争における人間性の破壊―「戦争の惨禍」上

 本来残虐である殺人を義務化する戦争は、本質的に非人間的な性格を固有している。殺すか殺されるかの死闘の中では、敵に対してはもちろん、味方にさえも非人間性に徹しなければ生き残れない場合が多い。この戦争は敵国ばかりでなく。日本人に対して残虐行為の繰り返された事実を注意する必要がある。まず1つ目は、勝算のない戦争をはじめ、敗戦の明白となった後にも戦争を終結しようとせず、いたずらに多数の国民を犠牲にした戦争政策の全体である。2つ目は日本軍内部での行為だ。傷ついた戦友は自決をさせるか射殺する、戦闘を行えないような状況での戦闘の強要、特攻などの人間兵器の使用があげられる。終戦近くになると、日本軍同士で食糧、弾薬、艦船をめぐり戦闘行為が行われ、友軍の肉を食べるといったこともされている。3つ目は民間人に対する軍の行為だ。「従軍慰安婦」は朝鮮、中国の婦女子のみならず、内地からもだまされて連れてこられている。非戦闘員の生命は軽く見られており、スパイ嫌疑で射殺、沖縄戦での自決の強要、さらに終戦後の海外からの撤退では、関東軍は民間人を見捨てていち早く帰国し、残された邦人がソ連軍、民衆により暴行、略奪、強姦、虐殺、拉致されている。このことから、日本軍は戦闘ではなく、道義的に内部から壊滅しているともいえる。
 

第11章 国民生活の破壊―「戦争の惨禍」中

 太平洋戦争は、出征軍人の比率が甚大となったばかりでなく、総力戦形態の進展により、全国民の毎日が戦争に巻き込まれることになった。軍需産業に多くの国民が動員されることで、生活必需品の生産が低下し、国民の生活は窮乏していった。当然健康状態は悪くなり、感染症や飢えで亡くなる人が大勢いた。物質的充足が満たされず、精神・道義面の破壊が進んだ。出征前の軍人の大勢での輪姦や、戦争未亡人の姦通などが多発した。戦争に直接関係ない職に従事している人間は職を奪われ、軍需工場へと動員され、在学中の学徒や未婚の女性も動員の対象となった。学生は在学中満足な教育を受けることができないまま社会に送り出されただけでなく、卒業後は戦争に駆り出され、大勢が亡くなった。都市では学童疎開が行われ、子供たちは地方に疎開した。空襲にさらされることはなくなったが、食べ物は全員分満足に用意できず、飢えに苦しんだ。このような間接的な苦しみのほかに、日本領が戦場になるに至り、非戦闘員である一般国民が直接戦火にさらされた。空襲、艦砲射撃、機銃掃射などの敵の攻撃によって死亡する人、敵に殺されるより自決することを選ぶ人、沖縄戦では日本軍により死ぬことを強制された人もいた。さらに広島・長崎では原爆が投下され、最終的に約22万もの人が亡くなっている。

第12章 戦時下の抵抗と怨嗟の声の発生

戦時中、断固転向や迎合を拒み、侵略戦争に反対の態度を堅持し、反戦平和の大義を守り抜いた人々が少数ながら実在している。反対活動は消極的抵抗と積極的抵抗に大別され、さらに消極的抵抗は完全沈黙と戦争を無視して良心的な仕事をするという形によるものに、積極的抵抗もまた合法的抵抗と、非合法的抵抗に分けられ、非合法的抵抗は、軍隊拒否、国内での秘密活動、獄中抵抗、国外での公然たる反対運動に細別できる。
(1) 消極的抵抗・沈黙
 発言し行動する以上、戦争支持する形をとることを免れない状況の下では、完全な沈黙を守るということも一つの方法だった。官憲の目をくらまし蒸発したり、活動を完全に止めて息をひそめてじっとしていたりする方法があった。
(2) 消極的抵抗・非便乗の良心的活動
 積極的な行動はとらずとも、最小限の言葉を使い抵抗を続けた者もいた。小説の中に難解な文体で巧みに偽装された反戦表現を埋め込むものや、戦争政策に対する暗黙の抵抗の意図をひそめた学界での刊行物、個人的な日記に書きとめる者もいた。
(3) 積極的抵抗・合法的活動
 積極的かつ合法的抵抗は主に労働・農民運動、個人誌の発行によって行われた。労働・小作争議は年を経るにつれて件数、参加人数ともに激減するも、終戦の年まで続いている。個人雑誌の発行は、商業ジャーナリズムが戦争協力を余儀なくされていく上で、明確な批判文を刊行し続ける方法であり、発禁、廃刊されながらも根気よく刊行したり、文章中に直喩・隠喩などを駆使し、巧みに偽装し反戦意思を表現したりしました。他には、翼賛選挙に無効判決を下した判事や、立憲政治の擁護のため、不敬罪の罪で逮捕・起訴されながらも、法廷で国策の誤りを批判した尾崎行雄がいる。
(4) 積極的抵抗・非合法的活動
① 軍隊拒否
軍隊拒否とは入営の拒否や、抗命、上官暴行・殺傷、逃亡、奔敵といった軍法違反を犯すことであって、何人かの青年が入営前に自殺したり、軍法違反によって裁かれている。
② 国内秘密活動
民衆の投書、落書き、私語の形で顕在し、官憲にキャッチされた例がいくつか存在した。特に終戦間際になると、選挙の際の無効票の増加、軍人・官僚への不敬行為が激増した。しかし、この個人的な反戦感情による行為はついに組織化することなく終戦を迎えており、フランスのレジスタンス、アジア諸民族の抗日運動に比べると、人民の主体性の欠如という点で大きく相違している。
③ 獄中抵抗
共産主義者や思想犯の中には獄中においても転向することなく意志を貫くもの、反戦の意思を堂々と述べ、屈服を拒み続けたものがいた。
④ 国外での反戦活動
国外での反戦活動には主に2つの方法があった。1つ目は敵国への亡命だ。これは単に日本国内にいると捕らえられる恐れがあったため、国外へ逃亡した場合と、あえて敵に協力することで日本国の敗戦を早め、被害を最小限に抑えようとした場合があった。自ら中国軍の捕虜となり、仲間と反戦同盟を組織し、前線で日本軍に対し反戦思想の喚起と投降の勧告を行ったり、敵国のスパイとなり、国内にて情報を送り続けたりした者もいた。
 

第13章 戦争による社会関係の変化と戦後構想の出現

 戦争の進行は良い悪いにかかわらず、社会関係の上に変化をもたらした。1つ目は軽工業から重工業への産業基盤の変化だ。これは戦争を行うために重要な重工業が大きく発展したことにより、成年男子を労働力とする近代産業の形成が促された。2つ目は職場への女性の登用だ。徴兵によって不足した労働力の確保のため、女性が当てられ、従来男子のみの職場に女性が進出した。これは戦後の女性の社会進出の足掛かりとなった。3つ目は小作人への規制緩和だ。戦争によって大量の食糧が必要になるなかで、政府は生産量を上げるために小作料の軽減など地主制の根底を揺るがす政策を施行した。そのほか、戦争の遂行による国民生活の破綻を少しでも和らげようとなされた、法の制定・改正は社会保障制度の先駆けとなった。
 そして戦争の開始が決まったあたりから日本の敗戦を予期し、戦後の日本が目指すべき姿を考えていた人たちがいた。その内容は戦後の民主主義革命に非常に類似しており、それが高度の知識人だけでなく、学生も自身の日記などに記していることから民主主義が暗黒時代においても完全に絶えることなく、守られてきたことを意味している。

第14章 「国体護持」のための「終戦

 終戦工作の中心となったのは前首相級の重臣たちであった。その工作の中心となったのは天皇イデオロギーの存続すなわち国体護持のためであり、決して民衆のことを思ったものではなかった。しかし、終戦工作の間も軍部は徹底した決戦を叫び、本土決戦のための作戦も練られていた。軍部がそういう雰囲気である以上重臣と言っても公に動くことはできず、結局終戦について公の機関が正式に動いたのは1945年の6月の御前会議になった。2回にわたる会議の中で、天皇の「聖断」によりポツダム宣言受諾が決まった。この時政府は負担を押し付けられていた民衆の革命を最も恐れ、取り締まりを強化したが、ついにそのようなことは起こらず、占領軍の統治を待って戦争責任の追及と国家体制の変革がなされた。

第15章 敗戦悲劇―「戦争の惨禍」下

 敗戦により悲惨な状況に突き落とされたのは占領地に居留する日本人だった。特に戦争によってもっとも残酷な運命に陥るのは女性であるのが常であり、この戦争も例外ではなかった。満州においてはソ連軍と現地人によって、暴行・略奪・虐殺・強姦が多発し、女性の被害は凄惨を極め、いたるところで強姦が行われていた。働けそうな成人男性はシベリアへと連行され、極寒の地で労働に従事させられた。フィリピンでは現地人とアメリカ軍によって日本人の追撃が行われ、多くの人が逃避行中に命を落とした。
本土においては空襲の危険から解放されたと言え、戦死した肉親は帰ってこないし、広島・長崎においては原爆の直接の被害にあった人のほかに、大量の放射能の危険性がわからず訪れた人が被爆し、今でも後遺症で苦しんでいる。さらに本土においてもアメリカ人によって満州のような被害が生じている。政府は性的慰安施設を設けるも、満足しないアメリカ人による民間人への強姦が多発し、他にも暴行や略奪も行われた。
敗戦の悲劇は混血児にたちにもおよび、差別と軽蔑に苦しめられた。
BC級戦犯においては冤罪であるケースも多く、ただ現地人の憎悪の気持ちによって裁かれているため被害者としての性格を帯びている。
占領地となった沖縄や小笠原諸島においては、十分な自治権が与えられず、軍事基地として利用された。さらに殺人・強盗・強姦の被害にさらされ続けた。
戦火からの回復は目覚ましかったが、その回復の陰では親を空襲で失った不良児や、戦争未亡人となった軍人の妻、空襲で肉親を失った人、火傷の跡が原因で結婚を逃した女性などが社会の片隅で多数残っていることを忘れてはいけない。
日本人だけでなく、戦後日本国民でないがため補償を受けられない朝鮮・台湾の人たちがいること、そしてその人たちが祖国から裏切り者として扱われていることも、戦争で悲劇を見る人たちが日本人だけでないことは忘れてはいけない。

結論 戦後の歴史において日本は何を得、何を失ったか。

日本は戦後の民主主義によって新しく生まれ変わり、平和主義の国が誕生した。日本国憲法の基本構造は、第2篇第13章にしめしたように一部の日本人がひそかに期待していた願望と一致しているだけでなく、自由民権論者が実現しようとしたができなかった国民の願望でもあった。それが15年戦争というあまりにも高価な犠牲を払ったのちに達成できた意義を有するばかりでなく、占領軍が日本国憲法の原案を起草するにあたり自由民権運動者の私擬憲法から多くを取り入れているので、単なる押しつけ憲法でないことは見逃してはいけない。
 不幸にして平和主義の健全な成長は、アメリカの日本を反共軍事戦略の一環とする政策によって妨げられ、再軍備化がすすめられ、米軍を駐留させることによって日本を反共軍事施設として利用する体制が成立する。
 日本国憲法に平和主義という3本の柱に1本が空洞化しているが、この憲法は戦争の惨禍を再び繰り返すまいという決意のみによって支えられており、戦争を体験したことがない世代が増えていくにつれ、憲法の改悪ないし第三次世界大戦の悲劇を阻止する必要の自覚の弱体化する傾向は免れない。核兵器の破壊力や戦略戦術が高度化している現在、この15年戦争の真相を再認識し、多くの人共同の財産にすることが戦争の被害者に対し、生き残った者としての償いとなるのではないか。