幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

木村幹,2017,「日本における慰安婦認識――一九七〇年代以前の状況を中心に」

<書誌情報>
木村幹,2017,「日本における慰安婦認識――一九七〇年代以前の状況を中心に」『国際協力論集』25(1): 23-46.

1.論文の課題
・日本での慰安婦に関わるまとまった言説は,千田夏光,1973,『従軍慰安婦――”声なき女“八万人の告発』双葉社.である.しかし,70年代の日本において,突然,慰安婦をめぐる言説が出現したのではなく,それ以前の慰安婦言説を前提として,千田の著作が脚光を浴びたという理解が必要.
→1970年代以前の言説状況を知ることで,千田の著作が大きな衝撃を持って受け止められたのかを理解できる.
⇒70年代以前の日本における慰安婦をめぐる言説についてもう一度振り返り整理する.

2.本論
2-1.「戦記物」における慰安婦言説
・戦後早い時期の慰安婦言説は,1960年代を中心に活発に書かれた「戦記物」といわれる一群のテクスト.
→戦時下の体験について,赤裸々に語ることができる公的な言説空間が出現したことを意味する.
・「戦記物」の特徴
①実際に戦争を体験した元軍人等の記憶を基盤にした.彼らの視点や体験が直截に反映されていた.中には今日からみれば憚れる内容さえ書かれている.
②マクロな視点よりミクロな視点が重点が置かれたこと.大きな歴史的視点からの語りではなく,個々の兵士が戦場においてどのように戦い,また辛酸をなめたかといった詳細な記述に重点が置かれる.政府や軍関係の叙述とは一線を画す.
③戦前の戦争観の残存.軍隊の勇ましさや男性性の重要性.
④戦死者や遺族に対する配慮もあり,戦争の悲惨な現実については直接触れることは回避された.
⑤同時代の共通の戦争観.
→元軍人たちは,戦争の「加害者」ではなく,「被害者」にあるという前提.ここでの加害者は,無謀な戦争や作戦を遂行した無能で傲慢な軍上層部や指揮官であり,一般兵士はそうした支配層によって「戦争に駆りだされた被害者」であったという認識.
⇒「戦記物」の言説のもつ偏り.

2-2.元兵士が語る慰安婦
・「戦記物」の随所に慰安婦が登場する.
→当時戦場に慰安婦がいることは当たり前だから.
・戦場における慰安婦の状況.いつどこにどんな人がいたのか.そこで彼女らは何をしていたのか.
→90年代以後の動員過程等についての議論は多くない.
朝鮮半島出身者が多かったこと,慰安婦になるまでにはだまされたり,甘言に乗ったり,売られたりと様々な過程があることが記されている.
・日本軍向けの慰安所が,明らかに現地の同様の施設とは一線を画していること,また慰安婦派遣に際しては軍の意図があったことが繰り返し述べられている.
→戦場まで進出する慰安所と後方の歓楽街で展開する売春施設.軍機・風紀・衛生の観点から,軍により厳格な統制がされていた.
・忌むべき存在としての慰安婦を記すものと,個人的に密接なかかわりをもった慰安婦を描くもの.
→後者は,上官の横暴や戦場における苦難を兵士とともに分かち合い,同情し合う存在として描かれている.これは被害者としての兵士という立ち位置を如実に反映している.軍上層部:兵士・慰安婦=加害者:被害者という対立図式.

2-3.慰安婦による「証言」と「慰安婦に仮託された語り」
・90年代の金学順は実名で名乗り出た元慰安婦として衝撃を与えた.
⇔それ以前にも,日本では慰安婦による語りや「慰安婦に仮託された語り」は存在した.
慰安婦に仮託された語りとは,かりに「証言」をもとにしていたとしても,話を付け加えたり,誇張したりしている可能性が高く,「証言」そのものとして扱うことはできない慰安婦の語りのことである.
慰安婦の「証言」や「慰安婦に仮託された語り」において,慰安婦がどのように記述されていたのか,またその記述にあたって何が重視されていたのか,という点を分析する.
・対象,味坂,金,城田
・特徴
①元慰安婦がどのようにして動員されていったのか,について比較的詳しい記述が存在すること.
→「戦記物」における慰安婦記述では欠落しがちな部分.関心ごとの変容.
→味坂はだまされて連れていかれる.金も困難な生活状況の中,公権力をちらつかせる人物によって騙されて動員させられた.
⇔城田の「証言」では,経済的困窮が重要な要素であり,そんな境遇からやむなく選択を余儀なくされたものとして語られている.
⇒だまされた味坂や金とは異なる
慰安婦に対する軍のかかわり方について,味坂と金の語りと城田の語りが異なる.
→味坂と金では明確な統制元として軍が登場する.
⇔城田の語りには軍が出てこない.
③悲惨なこと
・味坂と金は軍慰安婦
⇔城田は本土でのセックス・ワーカーとしての経験.
④3人とも恋愛的要素が強調されている.
→多少なりとも幸せが満たされていることが描かれている.
⑤性的な描写が含まれていること
→「戦記物」と共通している
⇔社会問題化以後全く見られない.
⑥日本と朝鮮人のあいだの民族対立という図式には比較的無頓着.
朝鮮人慰安婦がほとんど出てこない.

2-4.性と愛のドラマとしての慰安婦
・証言と仮託された語りの違い
→借りに仮託された語りにおけるモデルが実在したとしても,これらの語りを編集した人々が,その時点で存在した慰安婦をめぐる多様なあり得るべき語りの中から,当時の読者が求めたであろう内容を中心に一定の部分をえり抜いて記述したことを意味している.
⇒書かれていることは,慰安婦の語りに期待されたもの,当時は当たり前のこと.
慰安婦の動員は意に反して行われたものであることを当時の人は知っていた.「強制性」は共通の前提であった.
慰安婦に仮託された語りは戦記物とと同じ前提を有しており,この時期の慰安婦言説は,元軍人からの視点というバイアスを持っていた.

2-5.田村泰次郎
慰安婦の文学作品がまとまった形で出版されたのは,1947年に出された田村泰次郎の『春婦伝』.
→田村は従軍経験者.一兵士の視点が強い.復員者の戦場経験に依拠したもの.
・特徴
社会主義的な階級観
→抑圧者と被抑圧者の2つから構成されている.
⇒女性であり,セックス・ワーカーであり,植民地出身者であり,貧困者という意味において,階級社会の矛盾を多重的に示す象徴である.
②当時のイデオロギーの反映
→古い体制の理不尽さを象徴する慰安婦春海,古い体制の崩壊の見返りに与えられた無秩序に近い自由の過酷さを体現する慰安婦せん.そこに解決者としての社会主義革命の影.
⇒戦後直後の日本の素朴な社会主義への信奉.

2-6.朝鮮人慰安婦
・大戦終結後の言説に欠落していた視点
①兵士ら自身も日本人として彼女らを慰安婦へと追い込んだ「加害者」の立場にあるかもしれないという視点.
慰安婦を植民地支配との観点で,顧みる視点
朝鮮半島は依然として混乱した状況下にある「かわいそうな人々」が住む土地として認識されていなかった.
⇒戦後のセックス・ワーカーに関わるストーリーは,混乱する状況下で生きようとする日本の女性たちへの視線であった.

2-7.千田夏光の『従軍慰安婦』が変えたもの.
・重要な転換点である千田の著作
・特徴
慰安婦とセックス・ワーカーの連続性を切り離した.
→70年代の日本ではセックス・ワーカーをめぐる問題は重要性を失った.
②特段の意味を与えられてこなかった朝鮮半島に意味を与えた.
朝鮮半島においても,内地と同様,理不尽な貧困と支配があったという文脈に回収され,内地と植民地の違いに意味はなかった.そこでは,軍上層部:兵士・慰安婦=加害者:被害者という対立図式があった.
⇔植民地支配の文脈に位置付けたことで,この対立図式が崩れた.
→階層ではなく,民族の違い.日本人:植民地支配を受けた朝鮮人=軍人:慰安婦
⇒民族や植民地支配の過酷生が「再発見」される一方で,日本人慰安婦,業者といった存在は,図式から漏れていく.