幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

石原昌家「〈ドキュメント〉沖縄戦——民衆の眼差しから」

<書誌>
石原昌家,1985,「〈ドキュメント〉沖縄戦——民衆の眼差しから」『世界』475: 74-97.



慰安婦に関する記述

1.米軍上陸まで
〇とりあげられた家
・さらに軍は民家を取り上げて慰安所も設置していった。(75)
・日本軍は、後方施設と称して各部隊に慰安所を設置した。それは民家や村屋などを利用していったが、我が家が慰安所になった人の証言がある。「宮城篤三さん(浦添村安波茶出身)が、昭和十九年夏、村兵事係兼在郷帝国軍人会分会長をしているとき、安波茶駐屯の日本軍経理将校が訪ねてきた。『(ママ)役場にやってきた将校が瓦葺屋根の私の家に慰安婦を入れるというのです。私は最初不服だといったが、どうしても使用すると言い、貸さなかったらどうするかと聞くとこれは軍命令だと言って、強引に慰安所にしていったのです。そのとき私は子ども三名の五人家族でした。そして、製糖小屋に追いやられたので、そこは床もないから子供を寝かせられないので、屋敷内の馬小屋で寝泊まりさせてほしいと願ったが、そこもだめだということでした。慰安婦は、朝鮮人と辻(遊郭)の女性が四、五人きていました。」(75-76)

・太田朝英さん(明治三十九年生)は、中国大陸で転戦して満期除隊となり帰国したので、慰安所が果たしてきた役割を熟知していいた。村の婦女子を兵隊から守らねばならないということで、止むを得ないとおもった。それで老父母三名で住んでいた家を明け渡して〔佐久川小の〕馬小屋にムシロを敷き、そこを住まいとすることにした。「当時、戦争に勝つためには何でも軍のいうがままですから、すぐ出ていきなさいと言われて、出たら慰安所にされたんです。一〇月末頃だったと思います。というのは二カ月ぐらいたった正月には八三歳の父が亡くなりましたので。私の家は瓦葺家の大きな家でしたが、馬小屋暮らしが始まって父は老衰していき、正月に『家に帰りたい』といったので、部隊長に会って、『おじいさんが病気で家に帰りたいというので、助からんかも知れないから許可してくださいませんか』と頼んだのです。部隊長は、それを認めて慰安婦たちを余所に移したので、父を連れてきました。ところが来ると同時に亡くなってしまい、その日のうちに葬式をやりました。役場の人もみんなきたし、兵隊も沖縄の葬式を珍しがって大勢墓場までやってきて、立派な葬式ができました。だが部隊長は『もう葬式は終わったから、むこう(馬小屋)に戻りなさい』といい、その日のうちにまた家を出ることになりました。それでも私は『立派な葬式ができて、ありがとうございました』と礼を述べたのです。」(76)