幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

佐賀純一『戦火の記憶』

<書誌情報>
佐賀純一,1994,『戦火の記憶——いま老人たちが重い口を開く』筑摩書房

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

〇長南善治(大正12年生まれ)「餞別をくれた中国人」
昭和19年の秋、洛陽に入る前、葉県に駐屯。かなり繁盛してる町。
・トラックに乗った10人ばかりの慰安婦。「移動慰安部隊とでも言うんだろうかな。」10日ぐらいいてまた移動。
・割り当てが決められ、初年兵や階級が下の者は遠慮する。三年兵ぐらいから上が優先。
・関西の鷺師団の応援で再度遭遇。どこから来たか分からないが、30キロほど離れた駐屯地で小屋掛け。古参兵が向かう。(49-51)


田中豊吉(大正13年生まれ)「慰安婦船轟沈」
・軍属としてサイパンに18歳の時にいた。
・17歳から徴用S17年8月まで茨城の第一航空廠で修理費見積もりなどをしており、その後、サイパンの水上基地の工事費の仕事に。
・輸送船が撃沈され、その救助された人たちのほとんどが女たちであった。数は百数十人ほどで、25,6の若い女ばかり。ニューギニアで働いていた慰安婦と分かる。
→女たちの腹部が奇妙に膨れ上がっていて、それが大量の札束であることが判明。「女たちは、稼いだ金を失くすまいと、札束をびっしり巻き付けていた。」(100)
→命が助かったからお金はいらないと、周囲の兵らにもって行っていいよなどと言っていたという。
→そのうち陸船体の一部隊が女を町の法に連れていったのでその後のことはわからない。

サイパンではその大部分が飲み屋と遊郭慰安婦らは外で客引きをしており、日本人も朝鮮人もいた。
→一度だけ同じ軍属の男と飲みに行ったときに、相棒が女を抱きに行く。自分は召集前の体だからと断った。いざとなったら怖くなって逃げだしてきた相棒を、裸の女が笑いながら連れて行ったのに怖くなり逃げ出した。

・トラック島方面にも派遣され、夏島に赴任。そこで帳簿をつけた。トラック島は前線で完全な戦時体制だが、そこにも慰安所があった。いずれも粗末な屋根とござ。入り口で金をだす。一浄化二畳ほどない部屋があるということです。私自身は行ったことはないが、サイパン遊郭と比べると大変粗末なものであった。


〇柿沼富蔵(大正二年生まれ)「特攻隊長のダイヤモンド」
・戦前は海軍の下士官(巡邏伍長)として花街で顔を利かせていた人物。霞ヶ浦航空隊ができたころの話から始める。土浦の街に散らばっていた女郎屋だの芸者などを一カ所に集める。
※軍と集合的な花街という軍都が出来上がる
・「なんせみんな若いんだから、精力は余っているよ。そのはけ口をこしらえてやらなければ、とても軍隊なんてやっていけない。命令ばかりして、ぶん殴って、それで若い兵隊がちゃんとついてくるかというと、そんなもんじゃない。やっぱり人間は、気持ちが第一、楽しみというものがないともたない。それで花街というのはどうしても必要だった。そこに来れば酒を飲む、若いから女にもてたい、という気持ちもある。時には羽目をはずすこともある。そうやって一人前の人間にあるというわけだ。(187)
・もちろん軍隊はすべてが命令で動くんだが、相手は生き物だから、いくら命令を出しても思うように動かなければどうしようもない。特に若い盛りのエネルギーのはけ口というものを考えないと、とんでもないことになる。それで花街というものを整備したんだが、そればかりに頼ってはいけないということで、大いに訓練をやった。
・悩みは兵隊と女のいざこざ。
→女は泣き出す。まだ二十歳ぐらいで、農村から売られてこんなところで働かされているんだから、泣きたいのも当たり前だ。私も東北出身だから事情は分かる。
女将「お客がいっぱい待っているんです。できるだけ多くの兵隊さんにご奉仕するのが役目なんですから、ある程度時間で決めるのは仕方がないことですよ」(196)
→私はこんなことを隊へ報告したことはない。報告すれば兵でも下士官でも経歴に傷がつくから、そんなことはしないで、日誌には全部、「本日異状なし」だ。(197)

・敗戦後の捕虜時代の話
→日本軍がボルネオを占領したときに、敵の兵隊を捕まえて収容所に入れたんだが、その時の取り扱いが悪かったというので、責任ある士官・下士官はみんなとっ捕まったんだ。また原住民を無理やり連れてきたような慰安所の親父たちも残らず捕まって、銃殺か絞首刑だった。(206)
→ボルネオの慰安所は海軍が直接関係していたんではなくて、商売人がやっていたんだよ。内地でその関係の商売をしていた人が南方まで進出して、原住民を集めて慰安所をこしらえて、ボルネオで働いていた民間人や兵隊に場所を提供したんだ。(206)
慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。あるところでは女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら騙されたと言って泣きわめいている。それで店の親父に、本人がこんなに嫌がっているんだから家に帰してやれと命令して、私自身がトラックに乗せて、女の村まで連れて行った。そしたら家族だと近所の者だと大勢出てきて、喜んで大変だったよ。こんな具合に、いやいや連れていかれた女たちは終戦になるとオーストラリア兵に訴えた。それで親父たちはみんな捕まって、ほとんどが現地で銃殺されたんだ。このことは公式記録には載っているかどうか疑問だが、正真正銘、確かな話なんだ。
※茶園義男編『BC級戦犯和蘭裁判資料・全館通覧』には次のような記述があるという。「所属君橋商会・氏名○○・起訴理由概要・昭和十七年和蘭軍投降後、本人所有のバリクパパンの建物を日本軍の慰安所とし、強制売淫及び扶助の誘拐を為す」(207)


〇根本豊(大正八年生まれ)「屍衛兵と複葉特攻機
・初年兵だった昭和15年ごろは兵士を火葬していた。最初は北海道の兵士からなる独立混成第二十六大隊の砲兵。その時屍衛兵をした。
パイロットの試験に合格して、熊谷の飛行学校を17年の三月の卒業して、最初に満州の白城子に向かう。「そこで実地訓練をしたんですが、町はずれにアンペラで作った粗末な小屋がズラッと、並んでいる。見ると兵隊がその小屋の前に列を作っている。何だいあれはと聞いたら、慰安所だったんですね。」(213)

・戦前戦後に亘って芸者を務めた中沢すいさんの話。
→警察から進駐軍のために芸者を用意することになったが、海軍さんの相手からいきなり占領の相手をするのは嫌だと反対した。警察署長が説得に来たがはねつけ、警察は市長と芸者組合と議論して、既婚者である芸者には札をつけ、未婚の「女屋さん」(公娼)を同席させる。夜を共にしたいのであれば、その女たちが同意の上でそのように取り計らうという次第。(あとがき、266-267)