幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

佐賀純一『戦火の記憶』

<書誌情報>
佐賀純一,1994,『戦火の記憶——いま老人たちが重い口を開く』筑摩書房

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

〇長南善治(大正12年生まれ)「餞別をくれた中国人」
昭和19年の秋、洛陽に入る前、葉県に駐屯。かなり繁盛してる町。
・トラックに乗った10人ばかりの慰安婦。「移動慰安部隊とでも言うんだろうかな。」10日ぐらいいてまた移動。
・割り当てが決められ、初年兵や階級が下の者は遠慮する。三年兵ぐらいから上が優先。
・関西の鷺師団の応援で再度遭遇。どこから来たか分からないが、30キロほど離れた駐屯地で小屋掛け。古参兵が向かう。(49-51)


田中豊吉(大正13年生まれ)「慰安婦船轟沈」
・軍属としてサイパンに18歳の時にいた。
・17歳から徴用S17年8月まで茨城の第一航空廠で修理費見積もりなどをしており、その後、サイパンの水上基地の工事費の仕事に。
・輸送船が撃沈され、その救助された人たちのほとんどが女たちであった。数は百数十人ほどで、25,6の若い女ばかり。ニューギニアで働いていた慰安婦と分かる。
→女たちの腹部が奇妙に膨れ上がっていて、それが大量の札束であることが判明。「女たちは、稼いだ金を失くすまいと、札束をびっしり巻き付けていた。」(100)
→命が助かったからお金はいらないと、周囲の兵らにもって行っていいよなどと言っていたという。
→そのうち陸船体の一部隊が女を町の法に連れていったのでその後のことはわからない。

サイパンではその大部分が飲み屋と遊郭慰安婦らは外で客引きをしており、日本人も朝鮮人もいた。
→一度だけ同じ軍属の男と飲みに行ったときに、相棒が女を抱きに行く。自分は召集前の体だからと断った。いざとなったら怖くなって逃げだしてきた相棒を、裸の女が笑いながら連れて行ったのに怖くなり逃げ出した。

・トラック島方面にも派遣され、夏島に赴任。そこで帳簿をつけた。トラック島は前線で完全な戦時体制だが、そこにも慰安所があった。いずれも粗末な屋根とござ。入り口で金をだす。一浄化二畳ほどない部屋があるということです。私自身は行ったことはないが、サイパン遊郭と比べると大変粗末なものであった。


〇柿沼富蔵(大正二年生まれ)「特攻隊長のダイヤモンド」
・戦前は海軍の下士官(巡邏伍長)として花街で顔を利かせていた人物。霞ヶ浦航空隊ができたころの話から始める。土浦の街に散らばっていた女郎屋だの芸者などを一カ所に集める。
※軍と集合的な花街という軍都が出来上がる
・「なんせみんな若いんだから、精力は余っているよ。そのはけ口をこしらえてやらなければ、とても軍隊なんてやっていけない。命令ばかりして、ぶん殴って、それで若い兵隊がちゃんとついてくるかというと、そんなもんじゃない。やっぱり人間は、気持ちが第一、楽しみというものがないともたない。それで花街というのはどうしても必要だった。そこに来れば酒を飲む、若いから女にもてたい、という気持ちもある。時には羽目をはずすこともある。そうやって一人前の人間にあるというわけだ。(187)
・もちろん軍隊はすべてが命令で動くんだが、相手は生き物だから、いくら命令を出しても思うように動かなければどうしようもない。特に若い盛りのエネルギーのはけ口というものを考えないと、とんでもないことになる。それで花街というものを整備したんだが、そればかりに頼ってはいけないということで、大いに訓練をやった。
・悩みは兵隊と女のいざこざ。
→女は泣き出す。まだ二十歳ぐらいで、農村から売られてこんなところで働かされているんだから、泣きたいのも当たり前だ。私も東北出身だから事情は分かる。
女将「お客がいっぱい待っているんです。できるだけ多くの兵隊さんにご奉仕するのが役目なんですから、ある程度時間で決めるのは仕方がないことですよ」(196)
→私はこんなことを隊へ報告したことはない。報告すれば兵でも下士官でも経歴に傷がつくから、そんなことはしないで、日誌には全部、「本日異状なし」だ。(197)

・敗戦後の捕虜時代の話
→日本軍がボルネオを占領したときに、敵の兵隊を捕まえて収容所に入れたんだが、その時の取り扱いが悪かったというので、責任ある士官・下士官はみんなとっ捕まったんだ。また原住民を無理やり連れてきたような慰安所の親父たちも残らず捕まって、銃殺か絞首刑だった。(206)
→ボルネオの慰安所は海軍が直接関係していたんではなくて、商売人がやっていたんだよ。内地でその関係の商売をしていた人が南方まで進出して、原住民を集めて慰安所をこしらえて、ボルネオで働いていた民間人や兵隊に場所を提供したんだ。(206)
慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。あるところでは女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら騙されたと言って泣きわめいている。それで店の親父に、本人がこんなに嫌がっているんだから家に帰してやれと命令して、私自身がトラックに乗せて、女の村まで連れて行った。そしたら家族だと近所の者だと大勢出てきて、喜んで大変だったよ。こんな具合に、いやいや連れていかれた女たちは終戦になるとオーストラリア兵に訴えた。それで親父たちはみんな捕まって、ほとんどが現地で銃殺されたんだ。このことは公式記録には載っているかどうか疑問だが、正真正銘、確かな話なんだ。
※茶園義男編『BC級戦犯和蘭裁判資料・全館通覧』には次のような記述があるという。「所属君橋商会・氏名○○・起訴理由概要・昭和十七年和蘭軍投降後、本人所有のバリクパパンの建物を日本軍の慰安所とし、強制売淫及び扶助の誘拐を為す」(207)


〇根本豊(大正八年生まれ)「屍衛兵と複葉特攻機
・初年兵だった昭和15年ごろは兵士を火葬していた。最初は北海道の兵士からなる独立混成第二十六大隊の砲兵。その時屍衛兵をした。
パイロットの試験に合格して、熊谷の飛行学校を17年の三月の卒業して、最初に満州の白城子に向かう。「そこで実地訓練をしたんですが、町はずれにアンペラで作った粗末な小屋がズラッと、並んでいる。見ると兵隊がその小屋の前に列を作っている。何だいあれはと聞いたら、慰安所だったんですね。」(213)

・戦前戦後に亘って芸者を務めた中沢すいさんの話。
→警察から進駐軍のために芸者を用意することになったが、海軍さんの相手からいきなり占領の相手をするのは嫌だと反対した。警察署長が説得に来たがはねつけ、警察は市長と芸者組合と議論して、既婚者である芸者には札をつけ、未婚の「女屋さん」(公娼)を同席させる。夜を共にしたいのであれば、その女たちが同意の上でそのように取り計らうという次第。(あとがき、266-267)

仲程昌徳『沖縄の戦記』

仲程昌徳,1982,『沖縄の戦記』朝日新聞社

沖縄の戦記

沖縄の戦記


目次

序 時期区分
Ⅰ 戦記作品の先駆
Ⅱ 沖縄人による戦争記録
Ⅲ 本土の作家の沖縄戦
Ⅳ 体験記録集の輩出
Ⅴ 沖縄の作家の沖縄戦
あとがき


Ⅴ 沖縄の作家の沖縄戦
慰安所の少女」
・沖縄の作家が沖縄を扱うとき、何らかの形で、歴史や伝統の問題が含まれるのだが、そうした特異な視点から沖縄戦を描いたのが、船越義彰の1976年2月『新沖縄文学』31号に発表された「慰安所の少女」である。
→いわゆる当初から従軍慰安婦ではなく、空襲により300年近い歴史を持つ辻遊郭が空襲で焼失したことによって、そこの遊女らが慰安所に集められ、兵隊たちを相手に戦争を迎えるという沖縄戦が描かれている。日本軍が、「慰安婦」として戦場に女性たちを連行したことは山谷哲夫の『沖縄のハルモニ』で明らかにされているが、現地でもそのような女性をかき集めた。(221-222)
・特定の将校を相手する一の主人公は、まだしも慰安婦として幸せだったと言える。また将校も人柄よく、日本兵の行動に対する批判がなく、行為をもって扱ったものとして特異な位置にある。(223)
・船越の作品は、「300年以上もつづいてきた伝統」が「兵隊の前に踏みにじられ粉々」にされ「辻という沖縄特有の遊里の体質を変えて」しまったことに対する嘆き、すなわち、沖縄におけるもう一つの生活伝統としてあった習俗が崩壊していしまったことを取り出したものであったし、戦争がすべてをのみこんでしまうものであることを書いたものであったといえよう。(223)

吉田裕「第1章 敗戦と占領」

<書誌>
吉田裕,2011,『兵士たちの戦後史』岩波書店

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

本書は岩波書店の「戦争の経験を問う」シリーズ(全13巻)の「兵士たちの経験」部門の一冊である。(クリックでリンクへ)

目次

序章 一つの時代の終わり

第1章 敗戦と占領   ⇦いまここ!

第2章 講和条約の発効
第3章 高度成長と戦争体験の風化
第4章 高揚の中の対立と分化
第5章 終焉の時代へ
終章 経験を引き受けるということ
あとがき
索引


第1章 敗戦と占領:9-50.
1.戦場の諸相
兵士らが戦った戦争はどのようなものだったのか、戦友たちはどのように亡くなったのか。
(1)大量の餓死者
230万人の戦没者数のうち、上限が140万人の61%(藤原彰)、下限が85万人の37%(秦郁彦)と推計できる。
(2)艦船や輸送船の沈没による海没死
推計37万4000人、民間人は2万5000人(秦郁彦
(3)特攻死
4000人ほど。水上特攻作戦の「大和」を加えれば倍増。
(4)自殺や自殺の強要、軍医や衛生兵などによる重度の傷病兵の殺害、投降する兵士の殺害。
硫黄島では約7割がこれだという証言がある。

⇒自分の行動で何とかできそうな戦闘行為によって死亡する兵士はかなり少ない。

2.敗戦と復員
・日本軍の軍紀の急速な崩壊
命令なき逃亡・離隊、処刑を恐れたパニック、軍隊倉庫の火事場泥棒的な略奪、上官への暴行、命令無視。
・復員兵への冷たい視線。
昭和天皇ヒロヒトの免責に向けて、GHQの対日政策ではすべての責任を軍部に転嫁し、日本国民と昭和天皇ヒロヒト軍国主義勢力の犠牲者として強調した(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)。その中で復員兵に向けられた視線は冷たかった。
・米兵相手の売春婦パンパンの存在
→「敗戦はすなわち「日本男児」の〈敗北〉を意味していた」(木村涼子 2006)。西村政英は復員直後「浮浪者の群れ、アメリカ軍と戯れるパンパンと言われる女の姿。タヌキかキツネかは知らないけれども、けばけばしく、毒々しい安物の化粧姿、ぷかぷか吹かすタバコ片手姿と、モンペ姿はどうひいき目に見ても不似合いでしたが、これも敗戦国民の恥も外聞もなく生きようとする一つの姿かと、悲しくも体から血のひくような思いになりました」と回想している(西村 1981)。
・復員兵の社会復帰
→就職難、生活難、生きていた英霊(自分の妻が未亡人として弟などと再婚していた)、
戦後民主主義への反発と受容

高橋三郎「戦争研究と軍隊研究」

高橋三郎,1974,「戦争研究と軍隊研究——ミリタリー・ソシオロジーの展望と課題」『思想』605.(再録:2013,『戦争社会学の構想——制度・体験・メディア』勉誠出版,43-76.)

戦争社会学の構想 ―制度・体験・メディア―

戦争社会学の構想 ―制度・体験・メディア―



1.はじめに
・高橋は先行研究の物足りなさを、従来の戦争研究で語られていることとわれわれが身近に体験していることとの間にずれを感じることと指摘した。つまり、戦争についてのこれまでの「理論」では、戦争にかかわりをもつ様々な人々の意識や行動を十分に説明していないのである。
→戦争研究における理論の欠落。
・一方で、第二次大戦後はミリタリー・ソシオロジーという研究領域が確立されている。
・こうした状況に鑑みて、本稿ではミリタリー・ソシオロジーの系譜をたどりながら、戦争研究と軍隊研究の接合について問題提起を試みるものである。

2.ミリタリー・ソシオロジーの系譜
・1950年代ごろから出現し、アメリカとドイツにおいて、社会学の研究分野を指す。
・ミリタリー・ソシオロジーは、第一に軍隊の社会学的研究、つまり「軍隊社会学」を指している。第二に、より広義には「戦争社会学」と言われる領域を指す。
→これらは理論と方法において簡単に接合する領域ではない。
・高橋は戦争研究を5つの分類し、見通しを立てている。
(1)19世紀—一次大戦……戦争の哲学
(2)大戦間……戦争社会学
(3)二次大戦以降……平和研究
(4)        攻撃性研究
(5)        軍隊社会学

(1)戦争の哲学
・高橋は一次大戦以前の戦争研究を「戦争の哲学」と概括する。
→政治哲学などの戦争論を指し、戦争についての価値評価が中心である。近代の戦争の全体化傾向が、分析の対象となる。
ギリシア以来の戦争についての言説の整理分類される。
→戦争否認論と肯定論(弁護論)
・戦争弁護論は2種類に分類できる。1つは戦争が何らかの利益をもたらすがゆえに戦争を肯定讃美するものである。もう1つは戦争そのものに「魅力」があるとするものである。
→「戦争が建設的・文化的だとするかぎりで、これを高揚した」。カントンとユンガーらの系譜は、戦争の社会的機能をめぐる評価ではなく、個人の内的体験であることに注目する。
・戦争の魅力に関する分析
→戦争をすることでどのような欲望が満たされるのか?
Ex)スタインメッツの5つの精神的特性、ジェームスの「戦争の道徳的等価物」、フリューゲルの4つの魅力、グレイの3つの魅力。

(2)戦争社会学
・戦争社会学は主に戦争原因と影響・効果を研究する社会学的領域。スタインメッツの『戦争社会学』(1929)から一般化する。
→スタインメッツは戦争社会学の目的を戦争の起源・本質、戦争の機能・効果を明らかにすることによって戦争についての法則を導き出すことにあるとしている。
・王道的な社会学は戦争をどう扱ったのか。
→社会や国家の発展や進化に戦争や闘争が重要な役割を果たしたと指摘する。つまり、戦争そのものよりも戦争によって変化する社会構造に注目する。例えば家族の解体や犯罪の増減、人口問題といった視点から戦争に言及した。

(3)平和研究
・1960年代後半から「平和研究」(Peace Research)が新しい研究領域を指す言葉として使われ始めた。
→1950年代から60年代にかけての平和研究は、戦争と平和についての研究の総称であり、その実質的な内容は国際政治学的な研究。
・「平和」概念、平和研究の内容についての検討。
→平和は「単に戦争がない状態(「消極的平和」)から、搾取や抑圧のような社会的不正〈J・ガルトゥングのいう「構造内暴力」(violence structuelle)〉が存在しない状態(「積極的平和」)をも含む」ものとされた。(57)
⇒「平和」概念の検討・拡張によって、従来の戦争研究とは異なる研究領域であることを画定した。つまり、軍縮や経済搾取、南北問題や社会変革までをも包摂する。

(4)攻撃性研究
・K・ローレンツは攻撃性(aggression)という概念を使い、同じ種の仲間に対する闘争の衝動を人間に認めた。
→本能論・新生物学主義として、行動主義的心理学、得意社会的学習理論の立場から強い批判。攻撃本能を認めることで、平和への努力を否定することになるというイデオロギー的批判が起こる。
・攻撃性理論の3類型。①欲求不満—攻撃説、②社会的学習説、③本能説
・戦争の原因と本能との関係性についての論点。本能説の理論的欠落がある。「すなわちなぜ人間すべてが常時闘っていないのか、『何百万の市民の個人的な生来の特性や衝動がある特定の時間に特定の敵に対する戦争状態に突然凝結するのはどうしてなのか』という問題である。」(61)

(5)戦争の条件
・戦争の本質的である「戦う人間」という視点の欠落。戦争を成立させているようとしての人間を分析する視座は、従来の戦争研究に欠落していた。この視座とは戦争の条件を問うことである。
→W・レヴィ「それがいかなる原因に基づくものであるにせよ、戦争が現実に開始され、遂行されるためには、いかなる状況が存在していなければならないか、そしてそれはどのようにして形成されるのか」という問いに答えることを意味する。
・人間と戦争のかかわり方の条件論。第一に戦争開始を決定する人間、第二に軍隊において戦う人間、第三に銃後で戦う人間である。
・戦闘の主体は正規兵力、つまり軍隊である。これが総力戦=戦争の全体化によって銃後で戦う人間を発生させた。そして戦力最大化の要請に基づき動員がかけられ、1つの急進的な社会構造をもたらすことになる。人、精神、物資の動員を通じて、「国家的攻撃性」あるいは「戦時体制」が形成される。こうした背景なくして軍隊は戦闘できない。一方で、こうした体制を作り上げるためには、その意志を表明し、戦争を始める人間、そして終わらせる人間がいることを示している。
→原因・影響研究の一部は条件研究として整理し直すことができる。また平和研究のような国際関係論もプロセス分析として条件研究となる。さらに戦う主体の軍隊研究が必要になる。
※高橋はここでもって、これまでの先行研究を、戦争の条件研究を軸にして整理・再構成することで、筆者のいう緩やかなミリタリー・ソシオロジー研究として展開できるのではないか、という問題提起をしているのではないか。

3.軍隊社会学
・「軍事心理学」から発展し、軍隊社会学は1960年代初めに定着する。
→第二次大戦以降は、組織集団としての軍隊内部の分析を特徴とする。これらを軍隊の内部的アプローチとする。主なテーマは士気と軍隊生活への適応、軍隊組織、小集団での戦闘効果。
⇔軍隊と社会の関係を研究する、外部的アプローチは1950年代に盛んになる。主なテーマは軍隊の政治的コントロール、ミリタリズム、軍隊と革命、新興国における軍隊の役割。
・軍隊社会学5類型。①軍人、②軍隊、③軍制、④シビル・ミリタリー・リレイションズ、⑤戦争。
・軍隊研究の功績は、戦争の機能と軍隊の機能とを区別して分析できるような視座を提示したこと。先の条件研究的観点からすれば、内部的アプローチは戦闘行動の準拠枠を明らかにし、組織や装置、教育や訓練といった様々な要素を結び付ける理論的枠組みは攻撃性理論が提供する。そして外部的アプローチは、戦争政策決定に当たって軍隊と社会との関係がどのような影響を及ぼすのかということになる。

4.むすび
・戦争、あるいは軍隊を肯定するにせよ、否定するにせよ、その対象を科学的探究する必要がある。科学的な議論を抜きにして軍事組織を維持することほど不幸なものはない。


5.コメント
・筆者が提示した緩やかな「ミリタリー・ソシオロジー」は、軍隊研究と戦争研究の接合を目指している。そうした問題提起の上で、従来の戦争研究の系譜を論じている。いうなれば、本論文は、「日本における軍事社会学宣言」(野上元 2013: 81)である。
・戦争の哲学の中から戦争の「魅力」研究を取り出し、軍隊の「魅力」と関連付けた。私はあほなどでここの説明がもう少し欲しかった。
→後の現代思想における論稿「戦争の『魅力』はどこにあるか」(1981)が詳しい。すなわち戦後の大衆文化としてのミリタリーカルチャーの研究の視覚になっている。軍事と関係なさそうに見えるものでも、平時には無害に見えるものでも戦争の条件となる差別や偏見を助長する文化要素を分析できる。高橋三郎が後に戦友会をテーマにした戦争体験の媒介作用に注目しているのには、筆者の本論文での宣言からの一貫した研究姿勢である。

参考文献

「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)

「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)

アルヴァックス「第4章 思い出の位置づけ」『記憶の社会的枠組み』

<書誌>
Maurice Halbwachs, [1925]1994, Les Cadres sociaux de la mémoire, Albin Michel.(=鈴木智之訳,2018,『記憶の社会的枠組み』青弓社.)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

記憶の社会的枠組み (ソシオロジー選書)

目次

前言
第1章 夢とイメージ記憶
第2章 言語と記憶
第3章 過去の再構成

第4章 思い出の位置づけ   ⇦いまここ!

第5章 家族の集合的記憶
第6章 宗教の集合的記憶
第7章 社会階級とその伝統
結論
訳者あとがき
人名索引
事項索引


「第4章 思い出の位置づけ」

〇心理学による思い出の整理
・心理学は思い出の再認(reconnaissance)と思い出の位置づけ(localisation)を区別する。
再認することとは、既知感を持つこと。自動的になされる。
位置づけすることとは、思い出を時間軸の中で認識できること。反省的努力が必要であり、精神活動が加わる。
→再認から位置づけのプロセス。記憶と理性の関係は、再認では認められず、位置付けようとするかぎりにおいてみられる。

・獲得から再認までの記憶の本質は、純粋に個人的な心理的・生理的活動によって説明される。
→個人的記憶(獲得から再認)→社会的記憶(位置づけ)という段階を経ていることになり、他者との思い出の一致は、思い出を作り出す事より、思い出の整理となる。

・心理学者による思い出の議論は、感情:観念=再認=位置づけ、獲得―再認―位置づけのプロセス

〇心理学に対する反論
・どのような思い出であっても、私たちは、正確にいつどこでとは言えなくとも、少なくともどのような条件の下でそれを獲得したのか、すなわち同様の条件の下で獲得される思い出のカテゴリーはどこに属しているのかを、述べることができる。(p.160)
→言い換えれば、私は社会生活のどのような領域でその思い出が生まれたのかを常に指示することができるのである。(p.160)
→既視感を覚え、この人は誰だ、これはどこだ?と自問自答することは、再認には位置づけの最初の試みが伴っていることを示している。
⇒したがって、すでにあったことがあるという感覚とほぼ同義であるこうした広い意味での位置づけと、心理学者たちが語る厳密な意味での位置づけの間には程度の違いしかない。位置づけの始まりにならないような再認、つまり、少なくとも問いという形をとってすでに反省が介在していないような再認は存在しないのである。(p.161)


〇思い出の呼び起こし―再認―位置づけという古典的図式
ハラルド・ヘフディングの即時的再認
⇔ハラルドがあげた事例は、どれも複合的ではない単純なもので、即自的再認は、言葉の媒介によって説明される(レーマン)。

ベルクソンの議論
・現在の近くが単に相互の類似によってそのイメージを引き寄せた。
⇔私たちが捉えた類似性とは、現在の印象とそこに再現する過去の印象ではなく、現在の心理的枠組みと、やはりまた相対的に安定した概念によって構成された他の枠組みのあいだにあるものだということ、そして、、、(p.163)。

〇直接的な再認のケースってあるのか?
思い出の日付を突き止めようとするには、思い出がなければならないという人がいる。
⇔時間をたどりながら思い出を呼び戻していく方が普通じゃないか?
→したがって多くの場合、位置づけは再認に先立つばかりではなく、思い出の喚起に先行していて、位置づけが喚起を規定しているのである。それはつまり、位置づけはそれだけですでに、再認された思い出の内容になる部分を含んでいるということである。これは反省的な思考だが、しかし観念という形で、すでに具体的で感覚的なものを含んでいる。その意味では、多くの場合、位置づけが思い出のありようを説明するのである。(p.164)

ベルクソンの位置づけ理論
・イポリット・テーヌの理論との対比によって提示した。
→自分の思い出の集まりの中に入り込んでいくようなものではない。
ベルクソンにとって、実際には位置づけの作業とは、次第に大きくなっていく拡張の努力の中にある。記憶は常にそれ自体に対しては丸ごとすべてが現前しているのだが、この拡張によって、次第に大きなものになっていく表面に様々な思い出を拡げていき、それまで渾然一体となっていた集まりの中から、位置づけを見出せなかった思い出を識別していくにいたるのである。(p.165)
→思い出は記憶が収縮しているときには、ありふれた形を取り、拡張しているときにはより個別的になる。
⇒「ほかの思い出を支える支点となっている支配的な思い出」。

〇アルヴァックスの思い出の位置づけに関する議論
私たちはどこにあるのか全く分からない思い出の位置を突き止めようとするわけではなく、思い出の総体から特定するわけでもない。思い出は常に、それ自体の中に、その位置を突き止めることを可能にする何らかのしるしをまとっていて、過去は私たちの前に、多少なりとも単純化された形で姿を現すのである。(168-169)

行き当たりばったりに過去を思い出すのではなく、「挿入とはめ込み」によって特定されていく。
「行き当たりばったりなどではまったくなく、かなり論理的に導かれていったひとつながりの思考の結果として思い出したのである。」(171)

ここでもまた一連の推論を経て、私は一つの感覚的状態を再構成するにいたったのであり、その状態の内容は、実は、こうした他の状況との関係によって作り出されていたのである。(175)

〇思い出の位置づけ、または記憶の枠組みとは、いったいどういうものなのだろうか?
ベルクソンの提示した支配的な基準点
→枠組みは日付と場所に関する静態的な体系、そして思い出の位置づけの度に全体を思い描いていると考える。自分の生活上の出来事全て、総体を展開させていく必要があると考えている。
⇔そこまでせずとも、何らかの形で既に存在する概念の集合ばかりではなく、その概念を出発点として、単純な推論にも似た精神のはたらきによってたどり着くこともできる。(176)言い換えれば、現時点からみて近か遠いかに応じて変化する枠組みが存在する。

・現在の知覚とのつながりのイメージの系列的な連なりが存在する(過去—最近の過去—現在)。したがって、その連なりを遡ることができる。
⇔なぜ途中で遡ることができなくなるのか説明できていない。

・記憶の枠組みとは、純粋に個人的な枠組みではなく、同一の集団に属する人々に共通のもの。したがって、ありありと思い出せるのは集団がそれを重要と見なし、保存しているからである。
→集団は空間的には相対的な安定しか有していない。成員の変化、時間の経過に従って絶えず変化していく。社会的事実として保持され、時間の経過とともにある個人にとってだけ重要性を持つことになり、集団はそれに対する関心を失う。
→最近の様々な出来事は、社会がまだ重要性を整理できていない。しかし整理が終え次第、保持されるか、忘れられるかが決定していく。

〇以前に得た思い出に対して巡らせた反省的思考は、現在からある程度離れたところで断ち切られているように思われるのか?
・イメージの鮮明性と親密性の区分。
→遠く離れた場所にある建築物のイメージは親密性に乏しいとしても鮮明なイメージである。最近の出来事は鮮明だが親密性はない。過去の出来事は新鮮さは失われているが、より明確であり、より従順であり、親密である。
⇔こうした区分に意味はない。最近の出来事は鮮明でもあり、親密である。

・出来事に付随して生じた思考は何度も立ち返っていた可能性がある。
→新しい出来事に出会う度に、再適応の作業が生じているので、常に全体に立ち返る。前の事実からその次への移行という線条的なものではない。常に現在の枠組みの更新が行われている。社会も常に変化、消滅、生成される中で、出来事全てが関心を引き付けるわけではないがそれなりに出来事を記憶している。それは私たちの身の回りに起こることは自分にとってどのような結果をもたらすのかが分からないあいだは、何一つ自分にとって無関係なものではないという信念があるからである。そして結果が分かり次第、出来事は整理されていく。
→しかし、こうした思い出の漸進的な忘却はすべてが同じ速さで進まない。同時に複数の集団に所属しており、その集団と個人との結びつきの強さがその速度を変えていく。

・人の記憶はその人を取り巻く集団や、そうした集団が最も関心を寄せる観念やイメージによって決まるということを、基盤にして生じている枠組みがある。


〇まとめ
・過去の特定の思い出の位置と隣接する思い出にたどり着くのは、隣接する思い出が特定の思い出を枠づけているからである。しかし、ベルクソンがいうように、すべての思い出を呼び起こし、支配的な思い出を基準点に徐々に拡大されていくのではない。支配的な思い出とは、思い出を再現するための「たくさんの思い出の中での、重要度や強度の順位を決定するのに役立つもの」である。
→ある一つの思い出に対して、過去に同様の重要性を持っていた出来事に対応するすべての思い出を、再現しなければならないという前提は過剰すぎる。というより、記憶すべてが存続しているというよりは、その人の現時点での関心に対応するいくつかだけである。したがって、今日のその人の観念や知覚と出来事との関係が重要となる。

・思い出を位置付ける際に、ある特定の領域を選び出したり、ある特定の思い出を出発点としてたどることができるのには、記憶がいくつかの単純な枠組みをもち、もしもっていなくてもそれらの枠組みをいつでも再構成できるからだ。この枠組みは人の思考の中に常に入り込んでいる様々な概念から作られていて、これらの概念は言語の形式と同様の権威をもって記憶に押しつけられている。

・思い出を位置付けるために必要な隣接領域の画定は、連想論の立場をとる心理学者とは異なり、
「最近の思い出を相互に結び付けているのは、それらが時間的に隣接していることではなく、それらが一つの集団に共有された一群の思考の一部をなしていることに基づいているのである。」(193)
→したがって、その集団の利害関心、集団の思考の傾向、視点を取り入れていけば思い出を呼び起こすことが可能になる。この集団を起点とした思い出の呼び起こしと思い出の位置づけを行っている。
⇒確かに思い出は連想され、それぞれが別の思い出を再構成する。「しかし、思い出のこのような様式は、人々の結びつきがとりうる多様なやり方から生まれるものである。個人の思考の中に現れるおのおのの思い出は、これに対応する集団の思考のなかに位置づけ直されてはじめて、十分に理解される。その人が同時に所属している様々な集団に個人を結び付け直すことによってはじめて、それらの思い出の関係上の力はどのようなものであり、どのようにしてそれらが個人の思考の中に結び付くのかが十分に理解されるのである。」(194)

・反省的思考=社会環境からもたらされる思考に思い出を結び付けたときにのみ、思い出は持続する。思い出を推論していくということは、自分の見方と周囲の見方とを、1つの観念の体系の中に結び付けることであり、それは社会的思考のもつ意味と射程とを常に思い起こさせるような事実の個別的適用を見ることである。
⇒「このようにして、集合的記憶の枠組みは、私たちの最も内面的な思い出までをも囲い込み、相互に結び付けている。」(195)


難解すぎワロタ

小森陽一『天皇の玉音放送』

<書誌>
小森陽一,2003,『天皇玉音放送』五月社.

天皇の玉音放送 (朝日文庫)

天皇の玉音放送 (朝日文庫)


目次
第一章 二十一世紀における歴史認識
第二章 「玉音放送」を読み直す
第三章 マッカーサーヒロヒト
第四章 「人間宣言」というトリック
第五章 戦後体制とは何か
第六章 サンフランシスコ講和条約日米安保体制下における象徴天皇制
終章 我らの戦後
あとがきにかえて

第一章 二一世紀における歴史認識
・本書は昭和天皇の名によって発表された詔勅を中心とした言説そのものの分析をおこなうことを課題としている。言説そのもののふるまい方、その行為遂行性、社会的機能を分析することである。
※本書を一読するとわかるが、天皇の言説と敗戦後の日本人が意識的にせよ無意識的にせよもっている様々な認識との間の奇妙なまでの一致点を見出すことができる。その結果は、昭和天皇ヒロヒトの戦争責任の免責であり、より抽象的には「国体の護持」である。憲法9条にすら見ることができる言説のもつ力を改めて感じる。


第二章 「玉音放送」を読み直す
〇なぜポツダム宣言を黙殺したのか?——ポツダム宣言から原爆投下まで
ヒロヒトソ連仲介の可能性に強く固執しており、陸軍大臣阿南がヒロヒトの意向を口実にして延期を主張し、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を黙殺することになった。ヒロヒト固執したのには次の理由からだ。1つは米英に劣らない国力があり、米英の無条件降伏を退けられる可能性があるからであり、もう1つは中立条約を締結している情義である(『昭和天皇独白録』以下『独白録』と略記する。)。(17)
ソ連仲介に固執した理由は、無条件降伏によって「国体の護持」が不可能になることを恐れていたからである。端的に言って、終戦間際の天皇及びその側近、政府首脳の関心は、国民の犠牲ではなく、「国体の護持」=ヒロヒトの命と三種の神器の守り方の一点である。(20)
三種の神器についての議論がある一方で、それ以外の状況判断は皆無である。したがって、こうした議論に時間をかけたことによって生じた犠牲がヒロシマナガサキ、そしてソ連侵攻による犠牲でもある。ポツダム宣言受諾の遅れの結果生じた犠牲は、国民の生命を無視し、国体護持をめぐる議論をあーでもないこーでもないとしていた結果生じたのである。「ポツダム宣言」13項には「日本政府が直ちに前日本軍隊の無条件降伏を宣言」することを求め、それ「以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみとす」と明記されていたことをどれだけ真剣に考えていたのか疑問である。(26-27)
・和平交渉の第一条件は「国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること」である。(28)
※国体と国民の命は天秤にかけられたことさえなかった。

昭和天皇ヒロヒトは誰のための涙を流したのか——御前会議から聖断まで
・初期の迫水久常終戦の真相」には、聖断が下ったときの会議場の雰囲気として、会議に出席する男たちが、はらはらと涙を流すシーンが幾度となく繰り返し描写される。しかし、この涙は対外戦争に負けたことのないという神話的歴史認識に基づき、面目をつぶしたことに涙している。「皇祖皇宗」にのみ向けられた涙は、東京空襲、沖縄戦ヒロシマナガサキへの死者に向けられて流された涙ではない。(32)
→例の耐え難きを耐え、忍び難きを忍びのところで偶然にもヒロヒトは声につまり、そこがこの国では繰り返しメディアで反復されてきた。鈴木貫太郎の自伝にはここで陛下が涙を流したことがまたもや登場する。この涙を流す描写は、女に比べてめったに泣かない男が男泣きに泣くのだからそれほど重要な出来事であることを強調するための男性中心主義的な紋切り型の表現でしかない。(40-41)
ポツダム宣言受諾の理由を「独白録」から抜き出してみよう。「当時私の決心は、第一に、このままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することができない。第二には国体護持の事で木戸も全意見であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田良神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」(33-34)
→すくなくとも「独白録」上では、まず第一に天皇を支える臣民が滅びることに恐怖した。そして次に固執したのは「国体護持」=三種の神器の移動の余裕が見込めず、その安否が不確かだからである。ヒロシマナガサキの33万の被害ではない。ヒロヒトの心を常に支配していたのは、「ただの器物」である。これほど破壊的な状況にあっても、「三種の神器」という器物の安全しかこの国の大元帥ヒロヒトの関心にはなかったのだ。(34)
→これが一回目の聖断。例の「subject to」をめぐって議論は再燃するのだ。

〇「subject to」になぜ固執したのか——「終戦詔書」をめぐる攻防
・「subject to」が従属するという日本語訳になることからポツダム宣言を拒否する動きが起こった。これに対し「独白録」は自分がリーダーシップを取り最終的にポツダム宣言に踏み切らせたことを強調する。ここには奇しくも、この国の最高責任者としての天皇の姿がくっきり浮かび上がる。やはり国家主権の行使はヒロヒトにあるのだ。(37)
・受諾に踏み切った理由を「独白録」は「ビラが軍隊一般の手に入ると「クーデター」の起こるのは必然である。そこで私は、何をおいても廟議の決定を少しでも早くしなければ……」と記しているように、ヒロヒトは自分をターゲットにしたクーデターに恐怖している。「国体の護持」と言えば国家全体のことのように思えるが、要はそれを体現するヒロヒト自身なのだ。(38-39)
・「終戦詔勅」に関する迫水原案には3つの訂正が入った。その3つ目には、この国が「三種の神器」に固執したことが凝縮されている。
原案「朕は忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に神器を奉じて爾臣民と共に在り」。
→石黒農相が「神器とむやみに書けば、占領軍が好奇心や意図をもって神器を詮索するかもしれないから、むしろ削除しよう」と提案。そして阿南陸相は「国体護持」の確実性にこだわり「茲に国体を護持し得て」を加えることを提案。
⇒「朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り」となった。このプロセスからわかるのは国民の生命など眼中になく、常に国体=三種の神器を護持し得るかがアジェンダとなるこの国の最高責任者とその側近の姿である。(42-43)

竹内洋『教養主義の没落』

<書誌>
竹内洋,2003,『教養主義の没落——変わりゆくエリート学生文化』中央公論新社

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)


目次
序章 教養主義が輝いたとき
1章 エリート学生文化のうねり
2章 50年代キャンパス文化と石原慎太郎
3章 帝大文学士とノルマリアン
4章 岩波書店という文化装置
5章 文化戦略と覇権
終章 アンティ・クライマックス
あとがき

主要参考文献
人名・事項索引


1.学生文化と教養主義
・ダンスや異性遊びが好きな「軟派」型、試験勉強にいそしむ「実利」型、運動部の学生のような「硬派」型などの学生下位文化と上位の支配的文化としての教養主義マルクス主義教養主義教養主義マルクス主義)が学生文化としてあった。
→こうした教養主義と言われた学生文化は、夏休みの必読書みたいな文学・哲学・歴史関係の古典だけではなく、「総合雑誌の購読を通じて存立していた面が大きい」と指摘される(13)。
→「昭和戦前期の旧制高校や大学生の教養は、学校の授業などの公式カリキュラムだけではなく、総合雑誌や単行本、つまりジャーナリズム市場を通じて得られていた。しかも総合雑誌の論文のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったと言われていることにも注意したい。」(14)
総合雑誌の読書率は学生の3割が読んでいた。もちろん一般庶民の多くは総合雑誌など読まない。『キング』に代表される大衆雑誌が読まれている。
・戦後の総合雑誌ブームは「常識」への欲求を満足させ、教養的なものを満足させていた。「人々は、総合雑誌を通じて教養主義者になったが、同時に総合雑誌の講読によって教養共同体を形成していたのである。」。「まさしく総合雑誌は知識人のきょう強権を形成する媒体であった。」(19)
・こうした読書を通じた人格形成や社会改良という意味での教養主義は、なぜかくも学生を魅了し、そしてその魅力は喪失してしまったのか?本書の対象は教養とは何かではなく、教養主義教養主義者の軌跡をたどり、エリート学生文化を記述していくことである。

終章 アンティ・クライマックス
教養主義の終わりは1960年代後半から始まる。
・マーチン・トロウ『高学歴社会の大学』は、高等教育は該当年齢人口の15パーセントをこえるとマス段階になるという説を出したが、1064年ないし1969年に日本の高等教育はエリートからマス段階に移行した。1970年代からは企業の大卒大量採用が始まる。大学生は専門からただの人になる。ただの学生に教養知はいらない。
教養主義は大衆文化との差異化をはかる特権的な学生文化であった。こうした教養主義の終わりは、反エリート主義文化を生み出したのではなく、大衆への同化をはかり大衆文化への適応戦略の文化を生みだした。それをサラリーマン文化と名付けている。(240)
→経済学者村上泰亮の「新中間大衆社会」。階級構造の溶解により、「伝統的な意味での中流階級の輪郭は消え去りつつあって、階層的に構造化されていない膨大な大衆が歴史の舞台に登場してきたように見える」のである。(234-235)。こうした膨大な大衆の中間意識は、大衆が正当な存在として感じられ、大衆からの逸脱は変人となる。これをオルテガは「凡俗の居直り」といった(オルテガ『大衆の反逆』)。
→サラリーマン文化は教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化である。(236)
・サラリーマン文化のこうした適応の機能は、理想(超越)や自省の文化ではなく、大衆文化と実用主義の文化の蔓延をもたらしたのではないか?(242)
※理想を掲げる左翼を鼻で笑い、自制を促す知識人を嫌い、ポピュリズムと無関心で出来上がっている現代社会を見据えているような。ニーチェのいう衆愚(畜群)の政治。