幸福なポジティヴィスト

アイコンの作者忘れてしまいました。

『世界』『新東亜』共同企画「日本軍『「慰安婦」』問題をどう考えるか」

<書誌情報>
大鷹淑子下村満子野中邦子、和田春樹,1995.11「なぜ『国民基金』を呼びかけるか」

問題は、日本政府にとって、「従軍慰安婦」問題は国家が犯した戦争犯罪であると法的に認めることは難しいということです。日本国家にそのことを認定させ、裁きをうけるように、あるいは自らを裁くようにさせる方向に国際的なキャンペーンが行われていますが、これを達成するのは難しいと考えます。
(中略)
このような日本国家にいま戦争犯罪を認め、法的責任を取るように求めても難しいと思います。それをうけ入れるには戦後日本の歩みの全面的な見直しが必要になるでしょう。そのような主張はすでに久しくなされていますが、合意にはほど遠いのが現実です。現在できるのは、過去の反省を深め、政治的、道徳的責任を認め、被害者に謝罪する方向での前進です。
(中略)
このような日本国家として謝罪するということは、国家、国民としての連続性にもとづいて謝罪することです。自分たちがしたこと、自分たちに直接的に責任があることではないが、自分たちの国家がかつてしたこと、自分たちの祖父がしたことだから、道義的責任を感じて、謝罪するということです。
(中略)
謝罪は、補償、償いによって形を与えられなければなりません。私たちは「従軍慰安婦」にされた人々に対して、国民の支持をえて、国家が補償するのが望ましいと考えてきました。
(中略)
日本政府は、日本と関係各国との賠償や請求権問題などはサンフランシスコ条約やその他の戦後処理のための二国間条約ですでに処理ずみであるとしています。したがって、「従軍慰安婦」への補償問題も、これまでの条約で解決されているのかのような説明もしばしばなされました。これには私たちは納得できません。
(中略)
にもかかわらず、ひとたび国家間の戦後処理が決着したあとで、国家による補償をはじめれば、混乱がおこると日本政府は主張してきました。これに対して、国家が賠償請求を放棄して、国家間の関係が決着したとしても、個人の補償要求は可能であり、国家は正当な要求には応えて、個人補償すべきであるという考えが存在します。
(中略)
政府部内の議論の様子を見ていると、個人補償するという方向に方針を転換させることは、現状では相当に難しいということがわかります。被害者が原告になった戦後補償裁判も多くおこなわれていますが、多くの時間を要し、結果は楽観を許しません。(中略)他方で犠牲になられた方々はみな高齢でおられます。謝罪と償いの政策をとるための時間はもうあまりのこっていないのです。犠牲者たちがこの世にいなくなってから、正しい解決が出るということでは、恨をとくことは永久に不可能になってしまうと私たちは恐れました。
(中略)
構想されたのは、政府が組織し、政府の予算で運営活動する公的な基金、準国家機関です。運営費は予算から四億九千万円以上が計上されています。この基金が、政府の謝罪とともに、国民から拠出された資金を源泉として、国民の名において償いを行います。
(中略)
国民から拠金をえるという提案された方式は、強制力はありませんが、自発性に基づくだけに、安全に支出目的への支持と結びついた財源がえられます。これは、「従軍慰安婦」とされた人々に償いをするさいにもっとも必要な国民の謝罪の意思、償いへの国民的支持がもっともよく担保される方式だと言えます。ですから、私たちは基金方式は国家国民の謝罪と償いという原則にそうものと考えて、これを支持したのです。

ラトゥール『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』

<書誌情報>
ブリュノ・ラトゥール,伊藤嘉高訳,2019,『社会的なものを組み直す——アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)



序章——連関をたどる務めに立ち帰るには
〇本書の目的
・社会科学者が何らかの事象に「社会的」という形容詞を加えるとき、「一方で、〔さまざまな人や事物〕が、1つに組み合わさる動きを指し示しているにもかかわらず、他方で、他の素材と異なるとされる種差的な成分を指し示してしまう」のである(8)。
→「本書のねらいは、社会的なものを素材や領域の一種と見なせない理由を示すことにあり、さらには、他の何かしらの事態に対して「社会的説明」を行おうとすることに異を唱えることにある。」(8)。
〇手続き
・社会的という概念をその原義に立ち返って定義し直し、社会科学者には思いもよらなかった諸要素の結びつきをたどり直せるようにしたい。
→社会と科学の定義を再構成する。
→従来のアプローチは、社会、社会的秩序、社会的営為、社会的次元、社会構造など種差的な事象の存在を措定すること。具体的には8つの点を指摘している。
①社会的でない活動の背景には社会的なコンテクストがある。②社会的コンテクストは種差的な実在領域である。③社会的コンテクストは固有の因果を有し、他の領域では扱いきれない点を説明する。④社会的コンテクストは専門家が分析する。⑤社会的世界の中にいる人は、この社会的世界に気づかず、専門家によって記述される。⑥定量的かつ客観的な科学的手法を用いる。⑦⑥ができなければ、人間的、意図的、解釈学的側面を導入した新し方法論を提示する。⑧政治的な意義を有する
⇔もう1つのアプローチが訴えるのは、①社会的な秩序に種差的なものは何もない。②社会的というラベルがはられる明確な実在領域はない。③ほかの学問領域が説明できないことを説明するために社会を持ち出さない。④社会の構成員たちは自分が何をしているんかわかっていること。⑤アクターは社会的コンテクストに埋め込まれなず、単なるアクターではない。⑥ほかの専門領域に社会的と付ける意味がないこと。⑦社会科学を通じて得られる政治的な意義は必ずしも望ましくない。⑧社会はコンテクストではなく、狭い導管を循環している数々の連結装置の1つとして解釈されなければならない。
社会学を「社会的なものの科学」と定義するのではなく、「つながりをたどること/tracing of association」と定義し直す。



・アプローチの命名
①社会定なものの科学⇒社会的なもの(ザ・ソーシャル)の社会学
→あらゆる活動の背後に社会的なまとまりを想定する。

②「つながりをたどること」⇒連関の社会学
→社会を生みだす活動の背後に何の存在も想定しない。
⇒「社会的なもの」は、それ自体は社会的ではない諸要素の間で新たな連関が生み出されているときに残される痕跡/traceによってのみ見ることができる
⇒アクター・ネットワーク・理論=actor-network-theory

・「アクター自身に従うこと」
社会科学がアクターの役割をインフォーマントに限定してきたが、社会的なものを作り上げているものについて自前の理論を作り上げる能力をアクターの手に戻さなければならない。


〇連関の社会学の先駆者
ガブリエル・タルド(、ハロルド・ガーフィンケル
⇔のちに覇権を握るデュルケームとの論争が想起される。
→社会的なものの社会学者が示してきた社会の見方は、主として、近代化が進む中で文明の秩序を確保するための手段であった、とすれば、近代化が疑問に附されるようになる一方で、共生の道を探る務めがかつてなく重要になっている今日において、連関の社会学者は、どんな種類の集合的な生活とどんな知識を得ることができるだろうか。


・社会的なものを狭く定義することで示される社会学の先行研究らは、社会学の建設的、科学的な面を劣化させている。

社会的領域を、すでに社会的領域の一員であるとされているアクター、方法、分野のリストに切り分ける代わりに、相対性の原則を守り、この世界が何でできているかをめぐる種々の論争で構成する。
①グループの性質に関する不確定性
②行為の性質に関する不確定性
③モノ(object)の性質に関する不確定性
④事実の性質に関する不確定性
⑤社会的なものの科学というラベルの下でなされる研究に関する不確定性



ANTによる社会理論の抽象度の深化の意味
・1つの参照フレームを安定したままにするよりも、むしろ不安定で移ろう参照フレーム同士の結びつきを記録する方法を見つけ出すことで、もっと堅固な関係をたどることができ、もっと多くのことを伝えてくれるパタンが発見できる。
社会は「個人」や「文化」や「国民国家」で「おおむね」でできているのではない。




Qアクターに語らせるというが、それはアクターの踏襲にならないか?
・客観的に観察できる研究者が彼らを分析するのではなく、「やってることを観察する」(ルーマン
・現場に入って記述して終わり?

中山元『フーコー――思想の考古学』書誌情報と目次

<書誌情報>
中山元,2010,『フーコー――思想の考古学』新曜社

フーコー思想の考古学

フーコー思想の考古学

目次

第一章 フーコーの初期――『精神疾患とパーソナリティ』
第二章 狂気の経験――『狂気の歴史』
第三章 狂気と文学――『レイモン・ルセール』
第四章 死と科学——『臨床医学の誕生』
第五章 考古学の方法――『知の考古学』
第六章 思想の考古学――『言葉と物』
第七章 人間学の「罠」と現代哲学の課題――「カント『人間学』の序」

あとがき
索引

佐賀純一『戦火の記憶』

<書誌情報>
佐賀純一,1994,『戦火の記憶——いま老人たちが重い口を開く』筑摩書房

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

戦火の記憶―いま老人たちが重い口を開く

〇長南善治(大正12年生まれ)「餞別をくれた中国人」
昭和19年の秋、洛陽に入る前、葉県に駐屯。かなり繁盛してる町。
・トラックに乗った10人ばかりの慰安婦。「移動慰安部隊とでも言うんだろうかな。」10日ぐらいいてまた移動。
・割り当てが決められ、初年兵や階級が下の者は遠慮する。三年兵ぐらいから上が優先。
・関西の鷺師団の応援で再度遭遇。どこから来たか分からないが、30キロほど離れた駐屯地で小屋掛け。古参兵が向かう。(49-51)


田中豊吉(大正13年生まれ)「慰安婦船轟沈」
・軍属としてサイパンに18歳の時にいた。
・17歳から徴用S17年8月まで茨城の第一航空廠で修理費見積もりなどをしており、その後、サイパンの水上基地の工事費の仕事に。
・輸送船が撃沈され、その救助された人たちのほとんどが女たちであった。数は百数十人ほどで、25,6の若い女ばかり。ニューギニアで働いていた慰安婦と分かる。
→女たちの腹部が奇妙に膨れ上がっていて、それが大量の札束であることが判明。「女たちは、稼いだ金を失くすまいと、札束をびっしり巻き付けていた。」(100)
→命が助かったからお金はいらないと、周囲の兵らにもって行っていいよなどと言っていたという。
→そのうち陸船体の一部隊が女を町の法に連れていったのでその後のことはわからない。

サイパンではその大部分が飲み屋と遊郭慰安婦らは外で客引きをしており、日本人も朝鮮人もいた。
→一度だけ同じ軍属の男と飲みに行ったときに、相棒が女を抱きに行く。自分は召集前の体だからと断った。いざとなったら怖くなって逃げだしてきた相棒を、裸の女が笑いながら連れて行ったのに怖くなり逃げ出した。

・トラック島方面にも派遣され、夏島に赴任。そこで帳簿をつけた。トラック島は前線で完全な戦時体制だが、そこにも慰安所があった。いずれも粗末な屋根とござ。入り口で金をだす。一浄化二畳ほどない部屋があるということです。私自身は行ったことはないが、サイパン遊郭と比べると大変粗末なものであった。


〇柿沼富蔵(大正二年生まれ)「特攻隊長のダイヤモンド」
・戦前は海軍の下士官(巡邏伍長)として花街で顔を利かせていた人物。霞ヶ浦航空隊ができたころの話から始める。土浦の街に散らばっていた女郎屋だの芸者などを一カ所に集める。
※軍と集合的な花街という軍都が出来上がる
・「なんせみんな若いんだから、精力は余っているよ。そのはけ口をこしらえてやらなければ、とても軍隊なんてやっていけない。命令ばかりして、ぶん殴って、それで若い兵隊がちゃんとついてくるかというと、そんなもんじゃない。やっぱり人間は、気持ちが第一、楽しみというものがないともたない。それで花街というのはどうしても必要だった。そこに来れば酒を飲む、若いから女にもてたい、という気持ちもある。時には羽目をはずすこともある。そうやって一人前の人間にあるというわけだ。(187)
・もちろん軍隊はすべてが命令で動くんだが、相手は生き物だから、いくら命令を出しても思うように動かなければどうしようもない。特に若い盛りのエネルギーのはけ口というものを考えないと、とんでもないことになる。それで花街というものを整備したんだが、そればかりに頼ってはいけないということで、大いに訓練をやった。
・悩みは兵隊と女のいざこざ。
→女は泣き出す。まだ二十歳ぐらいで、農村から売られてこんなところで働かされているんだから、泣きたいのも当たり前だ。私も東北出身だから事情は分かる。
女将「お客がいっぱい待っているんです。できるだけ多くの兵隊さんにご奉仕するのが役目なんですから、ある程度時間で決めるのは仕方がないことですよ」(196)
→私はこんなことを隊へ報告したことはない。報告すれば兵でも下士官でも経歴に傷がつくから、そんなことはしないで、日誌には全部、「本日異状なし」だ。(197)

・敗戦後の捕虜時代の話
→日本軍がボルネオを占領したときに、敵の兵隊を捕まえて収容所に入れたんだが、その時の取り扱いが悪かったというので、責任ある士官・下士官はみんなとっ捕まったんだ。また原住民を無理やり連れてきたような慰安所の親父たちも残らず捕まって、銃殺か絞首刑だった。(206)
→ボルネオの慰安所は海軍が直接関係していたんではなくて、商売人がやっていたんだよ。内地でその関係の商売をしていた人が南方まで進出して、原住民を集めて慰安所をこしらえて、ボルネオで働いていた民間人や兵隊に場所を提供したんだ。(206)
慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。あるところでは女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら騙されたと言って泣きわめいている。それで店の親父に、本人がこんなに嫌がっているんだから家に帰してやれと命令して、私自身がトラックに乗せて、女の村まで連れて行った。そしたら家族だと近所の者だと大勢出てきて、喜んで大変だったよ。こんな具合に、いやいや連れていかれた女たちは終戦になるとオーストラリア兵に訴えた。それで親父たちはみんな捕まって、ほとんどが現地で銃殺されたんだ。このことは公式記録には載っているかどうか疑問だが、正真正銘、確かな話なんだ。
※茶園義男編『BC級戦犯和蘭裁判資料・全館通覧』には次のような記述があるという。「所属君橋商会・氏名○○・起訴理由概要・昭和十七年和蘭軍投降後、本人所有のバリクパパンの建物を日本軍の慰安所とし、強制売淫及び扶助の誘拐を為す」(207)


〇根本豊(大正八年生まれ)「屍衛兵と複葉特攻機
・初年兵だった昭和15年ごろは兵士を火葬していた。最初は北海道の兵士からなる独立混成第二十六大隊の砲兵。その時屍衛兵をした。
パイロットの試験に合格して、熊谷の飛行学校を17年の三月の卒業して、最初に満州の白城子に向かう。「そこで実地訓練をしたんですが、町はずれにアンペラで作った粗末な小屋がズラッと、並んでいる。見ると兵隊がその小屋の前に列を作っている。何だいあれはと聞いたら、慰安所だったんですね。」(213)

・戦前戦後に亘って芸者を務めた中沢すいさんの話。
→警察から進駐軍のために芸者を用意することになったが、海軍さんの相手からいきなり占領の相手をするのは嫌だと反対した。警察署長が説得に来たがはねつけ、警察は市長と芸者組合と議論して、既婚者である芸者には札をつけ、未婚の「女屋さん」(公娼)を同席させる。夜を共にしたいのであれば、その女たちが同意の上でそのように取り計らうという次第。(あとがき、266-267)

仲程昌徳『沖縄の戦記』

仲程昌徳,1982,『沖縄の戦記』朝日新聞社

沖縄の戦記

沖縄の戦記


目次

序 時期区分
Ⅰ 戦記作品の先駆
Ⅱ 沖縄人による戦争記録
Ⅲ 本土の作家の沖縄戦
Ⅳ 体験記録集の輩出
Ⅴ 沖縄の作家の沖縄戦
あとがき


Ⅴ 沖縄の作家の沖縄戦
慰安所の少女」
・沖縄の作家が沖縄を扱うとき、何らかの形で、歴史や伝統の問題が含まれるのだが、そうした特異な視点から沖縄戦を描いたのが、船越義彰の1976年2月『新沖縄文学』31号に発表された「慰安所の少女」である。
→いわゆる当初から従軍慰安婦ではなく、空襲により300年近い歴史を持つ辻遊郭が空襲で焼失したことによって、そこの遊女らが慰安所に集められ、兵隊たちを相手に戦争を迎えるという沖縄戦が描かれている。日本軍が、「慰安婦」として戦場に女性たちを連行したことは山谷哲夫の『沖縄のハルモニ』で明らかにされているが、現地でもそのような女性をかき集めた。(221-222)
・特定の将校を相手する一の主人公は、まだしも慰安婦として幸せだったと言える。また将校も人柄よく、日本兵の行動に対する批判がなく、行為をもって扱ったものとして特異な位置にある。(223)
・船越の作品は、「300年以上もつづいてきた伝統」が「兵隊の前に踏みにじられ粉々」にされ「辻という沖縄特有の遊里の体質を変えて」しまったことに対する嘆き、すなわち、沖縄におけるもう一つの生活伝統としてあった習俗が崩壊していしまったことを取り出したものであったし、戦争がすべてをのみこんでしまうものであることを書いたものであったといえよう。(223)

吉田裕「第1章 敗戦と占領」

<書誌>
吉田裕,2011,『兵士たちの戦後史』岩波書店

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

本書は岩波書店の「戦争の経験を問う」シリーズ(全13巻)の「兵士たちの経験」部門の一冊である。(クリックでリンクへ)

目次

序章 一つの時代の終わり

第1章 敗戦と占領   ⇦いまここ!

第2章 講和条約の発効
第3章 高度成長と戦争体験の風化
第4章 高揚の中の対立と分化
第5章 終焉の時代へ
終章 経験を引き受けるということ
あとがき
索引


第1章 敗戦と占領:9-50.
1.戦場の諸相
兵士らが戦った戦争はどのようなものだったのか、戦友たちはどのように亡くなったのか。
(1)大量の餓死者
230万人の戦没者数のうち、上限が140万人の61%(藤原彰)、下限が85万人の37%(秦郁彦)と推計できる。
(2)艦船や輸送船の沈没による海没死
推計37万4000人、民間人は2万5000人(秦郁彦
(3)特攻死
4000人ほど。水上特攻作戦の「大和」を加えれば倍増。
(4)自殺や自殺の強要、軍医や衛生兵などによる重度の傷病兵の殺害、投降する兵士の殺害。
硫黄島では約7割がこれだという証言がある。

⇒自分の行動で何とかできそうな戦闘行為によって死亡する兵士はかなり少ない。

2.敗戦と復員
・日本軍の軍紀の急速な崩壊
命令なき逃亡・離隊、処刑を恐れたパニック、軍隊倉庫の火事場泥棒的な略奪、上官への暴行、命令無視。
・復員兵への冷たい視線。
昭和天皇ヒロヒトの免責に向けて、GHQの対日政策ではすべての責任を軍部に転嫁し、日本国民と昭和天皇ヒロヒト軍国主義勢力の犠牲者として強調した(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)。その中で復員兵に向けられた視線は冷たかった。
・米兵相手の売春婦パンパンの存在
→「敗戦はすなわち「日本男児」の〈敗北〉を意味していた」(木村涼子 2006)。西村政英は復員直後「浮浪者の群れ、アメリカ軍と戯れるパンパンと言われる女の姿。タヌキかキツネかは知らないけれども、けばけばしく、毒々しい安物の化粧姿、ぷかぷか吹かすタバコ片手姿と、モンペ姿はどうひいき目に見ても不似合いでしたが、これも敗戦国民の恥も外聞もなく生きようとする一つの姿かと、悲しくも体から血のひくような思いになりました」と回想している(西村 1981)。
・復員兵の社会復帰
→就職難、生活難、生きていた英霊(自分の妻が未亡人として弟などと再婚していた)、
戦後民主主義への反発と受容

高橋三郎「戦争研究と軍隊研究」

高橋三郎,1974,「戦争研究と軍隊研究——ミリタリー・ソシオロジーの展望と課題」『思想』605.(再録:2013,『戦争社会学の構想——制度・体験・メディア』勉誠出版,43-76.)

戦争社会学の構想 ―制度・体験・メディア―

戦争社会学の構想 ―制度・体験・メディア―



1.はじめに
・高橋は先行研究の物足りなさを、従来の戦争研究で語られていることとわれわれが身近に体験していることとの間にずれを感じることと指摘した。つまり、戦争についてのこれまでの「理論」では、戦争にかかわりをもつ様々な人々の意識や行動を十分に説明していないのである。
→戦争研究における理論の欠落。
・一方で、第二次大戦後はミリタリー・ソシオロジーという研究領域が確立されている。
・こうした状況に鑑みて、本稿ではミリタリー・ソシオロジーの系譜をたどりながら、戦争研究と軍隊研究の接合について問題提起を試みるものである。

2.ミリタリー・ソシオロジーの系譜
・1950年代ごろから出現し、アメリカとドイツにおいて、社会学の研究分野を指す。
・ミリタリー・ソシオロジーは、第一に軍隊の社会学的研究、つまり「軍隊社会学」を指している。第二に、より広義には「戦争社会学」と言われる領域を指す。
→これらは理論と方法において簡単に接合する領域ではない。
・高橋は戦争研究を5つの分類し、見通しを立てている。
(1)19世紀—一次大戦……戦争の哲学
(2)大戦間……戦争社会学
(3)二次大戦以降……平和研究
(4)        攻撃性研究
(5)        軍隊社会学

(1)戦争の哲学
・高橋は一次大戦以前の戦争研究を「戦争の哲学」と概括する。
→政治哲学などの戦争論を指し、戦争についての価値評価が中心である。近代の戦争の全体化傾向が、分析の対象となる。
ギリシア以来の戦争についての言説の整理分類される。
→戦争否認論と肯定論(弁護論)
・戦争弁護論は2種類に分類できる。1つは戦争が何らかの利益をもたらすがゆえに戦争を肯定讃美するものである。もう1つは戦争そのものに「魅力」があるとするものである。
→「戦争が建設的・文化的だとするかぎりで、これを高揚した」。カントンとユンガーらの系譜は、戦争の社会的機能をめぐる評価ではなく、個人の内的体験であることに注目する。
・戦争の魅力に関する分析
→戦争をすることでどのような欲望が満たされるのか?
Ex)スタインメッツの5つの精神的特性、ジェームスの「戦争の道徳的等価物」、フリューゲルの4つの魅力、グレイの3つの魅力。

(2)戦争社会学
・戦争社会学は主に戦争原因と影響・効果を研究する社会学的領域。スタインメッツの『戦争社会学』(1929)から一般化する。
→スタインメッツは戦争社会学の目的を戦争の起源・本質、戦争の機能・効果を明らかにすることによって戦争についての法則を導き出すことにあるとしている。
・王道的な社会学は戦争をどう扱ったのか。
→社会や国家の発展や進化に戦争や闘争が重要な役割を果たしたと指摘する。つまり、戦争そのものよりも戦争によって変化する社会構造に注目する。例えば家族の解体や犯罪の増減、人口問題といった視点から戦争に言及した。

(3)平和研究
・1960年代後半から「平和研究」(Peace Research)が新しい研究領域を指す言葉として使われ始めた。
→1950年代から60年代にかけての平和研究は、戦争と平和についての研究の総称であり、その実質的な内容は国際政治学的な研究。
・「平和」概念、平和研究の内容についての検討。
→平和は「単に戦争がない状態(「消極的平和」)から、搾取や抑圧のような社会的不正〈J・ガルトゥングのいう「構造内暴力」(violence structuelle)〉が存在しない状態(「積極的平和」)をも含む」ものとされた。(57)
⇒「平和」概念の検討・拡張によって、従来の戦争研究とは異なる研究領域であることを画定した。つまり、軍縮や経済搾取、南北問題や社会変革までをも包摂する。

(4)攻撃性研究
・K・ローレンツは攻撃性(aggression)という概念を使い、同じ種の仲間に対する闘争の衝動を人間に認めた。
→本能論・新生物学主義として、行動主義的心理学、得意社会的学習理論の立場から強い批判。攻撃本能を認めることで、平和への努力を否定することになるというイデオロギー的批判が起こる。
・攻撃性理論の3類型。①欲求不満—攻撃説、②社会的学習説、③本能説
・戦争の原因と本能との関係性についての論点。本能説の理論的欠落がある。「すなわちなぜ人間すべてが常時闘っていないのか、『何百万の市民の個人的な生来の特性や衝動がある特定の時間に特定の敵に対する戦争状態に突然凝結するのはどうしてなのか』という問題である。」(61)

(5)戦争の条件
・戦争の本質的である「戦う人間」という視点の欠落。戦争を成立させているようとしての人間を分析する視座は、従来の戦争研究に欠落していた。この視座とは戦争の条件を問うことである。
→W・レヴィ「それがいかなる原因に基づくものであるにせよ、戦争が現実に開始され、遂行されるためには、いかなる状況が存在していなければならないか、そしてそれはどのようにして形成されるのか」という問いに答えることを意味する。
・人間と戦争のかかわり方の条件論。第一に戦争開始を決定する人間、第二に軍隊において戦う人間、第三に銃後で戦う人間である。
・戦闘の主体は正規兵力、つまり軍隊である。これが総力戦=戦争の全体化によって銃後で戦う人間を発生させた。そして戦力最大化の要請に基づき動員がかけられ、1つの急進的な社会構造をもたらすことになる。人、精神、物資の動員を通じて、「国家的攻撃性」あるいは「戦時体制」が形成される。こうした背景なくして軍隊は戦闘できない。一方で、こうした体制を作り上げるためには、その意志を表明し、戦争を始める人間、そして終わらせる人間がいることを示している。
→原因・影響研究の一部は条件研究として整理し直すことができる。また平和研究のような国際関係論もプロセス分析として条件研究となる。さらに戦う主体の軍隊研究が必要になる。
※高橋はここでもって、これまでの先行研究を、戦争の条件研究を軸にして整理・再構成することで、筆者のいう緩やかなミリタリー・ソシオロジー研究として展開できるのではないか、という問題提起をしているのではないか。

3.軍隊社会学
・「軍事心理学」から発展し、軍隊社会学は1960年代初めに定着する。
→第二次大戦以降は、組織集団としての軍隊内部の分析を特徴とする。これらを軍隊の内部的アプローチとする。主なテーマは士気と軍隊生活への適応、軍隊組織、小集団での戦闘効果。
⇔軍隊と社会の関係を研究する、外部的アプローチは1950年代に盛んになる。主なテーマは軍隊の政治的コントロール、ミリタリズム、軍隊と革命、新興国における軍隊の役割。
・軍隊社会学5類型。①軍人、②軍隊、③軍制、④シビル・ミリタリー・リレイションズ、⑤戦争。
・軍隊研究の功績は、戦争の機能と軍隊の機能とを区別して分析できるような視座を提示したこと。先の条件研究的観点からすれば、内部的アプローチは戦闘行動の準拠枠を明らかにし、組織や装置、教育や訓練といった様々な要素を結び付ける理論的枠組みは攻撃性理論が提供する。そして外部的アプローチは、戦争政策決定に当たって軍隊と社会との関係がどのような影響を及ぼすのかということになる。

4.むすび
・戦争、あるいは軍隊を肯定するにせよ、否定するにせよ、その対象を科学的探究する必要がある。科学的な議論を抜きにして軍事組織を維持することほど不幸なものはない。


5.コメント
・筆者が提示した緩やかな「ミリタリー・ソシオロジー」は、軍隊研究と戦争研究の接合を目指している。そうした問題提起の上で、従来の戦争研究の系譜を論じている。いうなれば、本論文は、「日本における軍事社会学宣言」(野上元 2013: 81)である。
・戦争の哲学の中から戦争の「魅力」研究を取り出し、軍隊の「魅力」と関連付けた。私はあほなどでここの説明がもう少し欲しかった。
→後の現代思想における論稿「戦争の『魅力』はどこにあるか」(1981)が詳しい。すなわち戦後の大衆文化としてのミリタリーカルチャーの研究の視覚になっている。軍事と関係なさそうに見えるものでも、平時には無害に見えるものでも戦争の条件となる差別や偏見を助長する文化要素を分析できる。高橋三郎が後に戦友会をテーマにした戦争体験の媒介作用に注目しているのには、筆者の本論文での宣言からの一貫した研究姿勢である。

参考文献

「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)

「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)