R・シルバーストーン『なぜメディアを研究するのか』(English-Text)の書誌データと目次
<書誌情報>
Roger, Silverstone, 1999, Why Study the Media?, London: SAGE Publication.
( = 2003, 吉見俊哉・伊藤守・土橋臣吾訳, 『なぜメディア研究か?――経験・テクスト・他者』せりか書房.)
- 作者: Roger Silverstone
- 出版社/メーカー: SAGE Publications Ltd
- 発売日: 1999/10/22
- メディア: ペーパーバック
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<目次>
Preface and acknowledgements
1 The texture of experience
2 Mediation
3 technology
Textual Claims and Analytical Strategies
4 Rhetoric
5 Poetics
6 Erotic
Dimensions of Experience
7 Play
8 Performance
9 Consumption
Locations of Action and Experience
10 House and home
11 Community
12 Globe
Making Sense
13 Trust
14 Memory
15 The Other
16 Towards a new media politics
References
Index
本書は,せりか書房から邦訳が出されており、邦題は『なぜメディア研究か』となっている。
- 作者: ロジャーシルバーストーン,Roger Silverstone,吉見俊哉,土橋臣吾,伊藤守
- 出版社/メーカー: せりか書房
- 発売日: 2003/04
- メディア: 単行本
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せっかくなので,本稿では以下にわたって,英語版と日本語版のタイトルの違いについて考えてみたい.タイトルの違いとはどういうことか。
すでに示したように,原題は「Why Study the Media?」である。一方の邦題は『なぜメディア研究か』となっている。一見同じタイトルのようだが、この違いに厳密になってみようということが本稿の課題である。
1.原題の直訳と邦題の違い
原題を素直に訳すと,「なぜメディアを研究するのか?」もしくは、「なぜメディアを勉強するのか?」というふうに訳せるはずである。
しかし、邦題は「なぜメディア研究か」とメディアと研究を区分していない.
原題がメディアを研究する理由を尋ねているのに対し,邦題はメディア研究という学問領域の意義を主張しているのように読めなくもない.
この違いに,訳者である吉見俊哉、伊藤守、土橋臣吾先生らの気持ちを読み取ってみた.
2.邦題に込められた思い
先ほど述べたように,私は邦題に「メディア研究」という学問領域が強く意識されているように思えた.
原題は「メディア」を研究することの理由,意義などが論じられているように思える.その結果,メディアを研究することで、この世界はどのように理解できるのか、そしてどのような諸問題を明らかにできるのか,ということに重点が置かれているように見える。
一方邦題の重点は「メディア研究」という学問領域である.「メディア研究」とは何なのか、何を明らかにする学問なのか,何を対象とするのかということに重点が置かれ、「メディア研究」への誘いも目的にしているように受け取れる。
この訳文に込められた思いを「訳者あとがき」に求めてみよう.
「訳者あとがき」の書き出しは,「メディアについて学ぼうとする人々が増えている.」だ.
例えば,私が所属している大学院では、「メディア」専攻があり、学部にはメディア社会学科的なものがあるらしい.どうでもいいけど,こうした類にの学部・学科・専攻は旧帝や各県国公立より私立のほうが充実しているイメージがあるのだがどうだろう。
そうした国内のメディア研究需要に対応してか、メディア研究/メディア・スタディーズと題する著作も多い。吉見俊哉、伊藤守はこうした著作を多く手掛けている研究者の代表といえる。日本のメディア研究/メディア・スタディーズが少しずつ新たな興味深い学問領域として注目され、それなりに定着してきたことのあらわれであろう。
邦題はこうした国内状況を少なからず反映したものとなっているのではないだろうか。
いまでこそメディア・スタディーズやメディア研究というジャンルが定着しているが,日本でまだメディア研究がなじみのなかった時代に,その重要性を主張したい訳者らの思いが個の邦訳に反映されたのではないか.
3.なぜメディア研究か
自律的な学問領域となることで、様々な方法論が洗練され、独自の研究成果を上げていき、なによりもそうした学問に興味を持つ未来ある学生の参加を促すことができる。
しかし、一方で自律的な学問領域はしばしば窮屈になりやすい。
本来は学際的な研究領域であるはずのメディア研究が、「メディア研究」に囚われてしまい、メディア研究という囲いの中に安住を求め、自らの自由を制約していしまう可能性もあるのだ。
例えば、政治学は昔から政治コミュニケーションという領域を確立させてきた。彼らの領域から優れた「メディア研究」の成果が提出される一方で、メディア研究の側から優れた研究はどれだけで出ているのだろうか。
これは問いであって、事実ではない。
しかし、問題はこういうところにある。
「ノマド」的研究領域は、モンゴル帝国のように一度は世界を覆うかもしれないが、次第に「定住者」の底力に負けていくのではないだろうか。
本書を読むことで、「メディア」を研究することは一体どういうことなのか。
こうしたことを今一度正面から見つめなおしていきたい。