幸福なポジティヴィスト

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岡部牧夫「歴史のなにを、どう修正するか」

<書誌>
岡部牧夫,2000,「歴史のなにを、どう修正するか——日本近現代史研究と<国民>の概念」歴史学研究会編『シリーズ 歴史学の現在 4 歴史における「修正主義」』青木書店,3-28.

歴史における「修正主義」 (シリーズ歴史学の現在)

歴史における「修正主義」 (シリーズ歴史学の現在)


1 歴史学の性格と歴史の修正
歴史学は資料に立脚し、分析し、叙述する学問であり、そこには客観的な分析と論理的叙述が求められる。その点で、歴史学は科学である。

・しかし、事象の選択から資料の選択、歴史の意味付けの過程において、その歴史家の信念や個人的な価値観から逃れることも不可能であり、そうした制約があることは否定できない。また歴史学「界」という学問界のもつハビトゥス(社会的慣習)は、事実の選択、研究、叙述に社会的な意味があるのかを常に問う。その点で、歴史学という科学は、社会的実践であり、特定の歴史的、社会的文脈に位置付けられている。したがって、歴史学という実践は、「個々人の価値行為であると同時に、一定の客観性と普遍性とをそなえた社会の価値行為でもある。」(p.5)

・こうした意味で、歴史とは再帰的に修正、再構成されることに開かれている学問である。

2 欧米の戦後歴史学と概念の相対化
・フランス歴史学アナール派)の社会史の提唱。階級や国家の概念を相対化し、歴史学の研究対象を人間の心性や日常の出来事に拡大し、国民国家の枠組みに基づいた歴史叙述から広域史や全体史へと拡大させた。

・現在の歴史学は、西洋中心の一国主義的な歴史から脱却し、研究領域は多様化し、相対化されている。

3 日本での受容と対抗
皇国史観に代わる戦後歴史学の3潮流—マルクス主義史学、実証主義歴史学近代主義—は歴史学を科学にするという大修正を行い、現在は相対化の課題に取り組んでいる。

・いわゆる「自由主義史観」はこうした流れに逆らうものである。「自由主義史観」は日本の戦後歴史学に対して、国民ないし民族の概念をことさら絶対化し、戦後歴史学を「自虐史観」として攻撃する。

4 日本の戦後歴史学と<国民>の概念
・<国民>という概念は、近代の国民国家/Nation Stateを前提とした概念である。国民は民族やナショナリズムの概念と密接に関連し、交錯する。
国民は、他国国民とは異なるカテゴリーに属し、また内部にも民族的、階級的にカテゴリー化されており、関係性によって成り立つ概念であることが分かる。また国民として生まれるのではなく、国民となるプロセスがある。さらに国民を基礎とする国民国家も恣意的で、可変的である。両者の関係概念としての側面は強く意識されている。

マルクス主義が使うのは「人民」という概念である。被支配階級の中で、歴史の変革の主体とされる階層である。一方で近年では「民衆」という概念が使われる。民衆には人民より価値中立的な含意があり、社会史や民俗学にも通底する。

政治学社会学はこれに対し「大衆」という概念を使用する。「大衆」とは産業社会に特有の民衆である。すなわち、ブルジョアプロレタリアートのあいだの新中間層であり、教育やメディアの発達による社会の標準化の中で出現した階層を指す。マルクス主義からみれば、変革の主体とならないブルジョアに従属した集団となり、批判される。

5 歴史の主体としての<国民>と他者
歴史学にできるのは、<国民>を無限定で自明の言葉としてではなく、過度の価値的関係性をそぎ落とし、できるだけ客観的実体性に限定した概念として用いることであり、またその下位概念としての属性も適度の相対化し、これらの重層的な概念の構造を通して<人間>を描くことにある。

・過酷な植民地支配や戦争政策が日本近現代史の中で、他国に抑圧として作用したことを正しく認識する必要がある。

・日本版「修正主義」は、自国・自国民のナショナリズムを絶対的優位と見なし、歴史観の中心に据えた。日本が独立しようとした1880年代のナショナリズムではなく、1900年代以降の帝国主義ナショナリズムを改めて歴史認識の基準とし、過去の歴史を肯定的に語り直そうとする修正主義と言える。