幸福なポジティヴィスト

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岡部牧夫「歴史のなにを、どう修正するか」

<書誌>
岡部牧夫,2000,「歴史のなにを、どう修正するか——日本近現代史研究と<国民>の概念」歴史学研究会編『シリーズ 歴史学の現在 4 歴史における「修正主義」』青木書店,3-28.

歴史における「修正主義」 (シリーズ歴史学の現在)

歴史における「修正主義」 (シリーズ歴史学の現在)


1 歴史学の性格と歴史の修正
歴史学は資料に立脚し、分析し、叙述する学問であり、そこには客観的な分析と論理的叙述が求められる。その点で、歴史学は科学である。

・しかし、事象の選択から資料の選択、歴史の意味付けの過程において、その歴史家の信念や個人的な価値観から逃れることも不可能であり、そうした制約があることは否定できない。また歴史学「界」という学問界のもつハビトゥス(社会的慣習)は、事実の選択、研究、叙述に社会的な意味があるのかを常に問う。その点で、歴史学という科学は、社会的実践であり、特定の歴史的、社会的文脈に位置付けられている。したがって、歴史学という実践は、「個々人の価値行為であると同時に、一定の客観性と普遍性とをそなえた社会の価値行為でもある。」(p.5)

・こうした意味で、歴史とは再帰的に修正、再構成されることに開かれている学問である。

2 欧米の戦後歴史学と概念の相対化
・フランス歴史学アナール派)の社会史の提唱。階級や国家の概念を相対化し、歴史学の研究対象を人間の心性や日常の出来事に拡大し、国民国家の枠組みに基づいた歴史叙述から広域史や全体史へと拡大させた。

・現在の歴史学は、西洋中心の一国主義的な歴史から脱却し、研究領域は多様化し、相対化されている。

3 日本での受容と対抗
皇国史観に代わる戦後歴史学の3潮流—マルクス主義史学、実証主義歴史学近代主義—は歴史学を科学にするという大修正を行い、現在は相対化の課題に取り組んでいる。

・いわゆる「自由主義史観」はこうした流れに逆らうものである。「自由主義史観」は日本の戦後歴史学に対して、国民ないし民族の概念をことさら絶対化し、戦後歴史学を「自虐史観」として攻撃する。

4 日本の戦後歴史学と<国民>の概念
・<国民>という概念は、近代の国民国家/Nation Stateを前提とした概念である。国民は民族やナショナリズムの概念と密接に関連し、交錯する。
国民は、他国国民とは異なるカテゴリーに属し、また内部にも民族的、階級的にカテゴリー化されており、関係性によって成り立つ概念であることが分かる。また国民として生まれるのではなく、国民となるプロセスがある。さらに国民を基礎とする国民国家も恣意的で、可変的である。両者の関係概念としての側面は強く意識されている。

マルクス主義が使うのは「人民」という概念である。被支配階級の中で、歴史の変革の主体とされる階層である。一方で近年では「民衆」という概念が使われる。民衆には人民より価値中立的な含意があり、社会史や民俗学にも通底する。

政治学社会学はこれに対し「大衆」という概念を使用する。「大衆」とは産業社会に特有の民衆である。すなわち、ブルジョアプロレタリアートのあいだの新中間層であり、教育やメディアの発達による社会の標準化の中で出現した階層を指す。マルクス主義からみれば、変革の主体とならないブルジョアに従属した集団となり、批判される。

5 歴史の主体としての<国民>と他者
歴史学にできるのは、<国民>を無限定で自明の言葉としてではなく、過度の価値的関係性をそぎ落とし、できるだけ客観的実体性に限定した概念として用いることであり、またその下位概念としての属性も適度の相対化し、これらの重層的な概念の構造を通して<人間>を描くことにある。

・過酷な植民地支配や戦争政策が日本近現代史の中で、他国に抑圧として作用したことを正しく認識する必要がある。

・日本版「修正主義」は、自国・自国民のナショナリズムを絶対的優位と見なし、歴史観の中心に据えた。日本が独立しようとした1880年代のナショナリズムではなく、1900年代以降の帝国主義ナショナリズムを改めて歴史認識の基準とし、過去の歴史を肯定的に語り直そうとする修正主義と言える。

山崎洋子『女たちのアンダーグラウンド』

<書誌>
山崎洋子,2019,『女たちのアンダーグラウンド――戦後横浜の光と闇』亜紀書房


目次

プロローグ
第一章 闇からの声
第二章 横浜・混血の系譜
第三章 接収の街と女たち
第四章 大和・葉山・札幌――混血児養護施設
第五章 高度経済成長が生み出した闇
第六章 横浜の「外国人」たち
第七章 いまだ渦中――沖縄
第八章 逐われた女たち
エピローグ
参考文献


第三章 接収の街と女たち
〇米軍慰安施設
8月18日、政府は各都道府県に向けて、米軍のための特殊慰安施設を用意するよう通達した。通称RAA協会と言われるものだ。
鎖国を解いて開国したときも、日本は同じことをしている。乗り込んでくる海外からの脅威に対して遊郭という感障壁を築いた。」(91)

慰安施設の目的は、「占領軍から善良の婦女子の貞操を護るため」ということだった。遊郭の経営者、警察らが奔走する。
※戦中の慰安婦制度が、性病による戦力の低下、治安維持、防諜、慰安の提供という目的で作られていた(吉見 1999)と考えれば、治安維持のためだけに作られたのがRAになる。性病を恐れたから消毒や検黴を義務付けているが、RAAはそうした目的ではないので、そうした義務もなく性病が蔓延した。制度はこうも性格を異にするのかと思う。本質論からはわからない微妙な差異である。

横浜は互樂荘という建物が使われた。女性の数は100人ほど。
一週間ほどで閉鎖。
以降は米軍による強姦。私娼、街娼、パンパンと呼ばれる女性たち。
米軍による犯罪が紙面で報じられることもなくなっていく。
治安維持法戦前の日本の情報統制、民主主義否定の象徴とされている。これは現在も反自民反戦運動などでかなり言及されるお決まり文句でもある。けれど、治安維持法は明文されており、その存在すら知られず米軍の犯罪が紙面から消えるGHQ占領政策下における非明文化された情報統制が過小評価されていないか?一番怖いのは知らないうちの検閲だろうに。

〇GIベイビー
アメリカ兵の俗称であるGI。その子供であるからGIベイビー。
混血児の実態調査は国会でも議論になるも、厚生省はなにもしていない。
その穴埋めをするように、篤志家や宗教団体が保護に乗り出している。

David McCallum, 1997,“Chapter 3 Mental health, criminality and the human science” , Foucault, Health and Medicine, 53-73.

<書誌>
Alan Petersen and Robin Bunton eds. Foreword by Bryan S. Turner, 1997, Foucault, Health and Medicine, London: Routledge.

Foucault, Health and Medicine

Foucault, Health and Medicine


Contents

List of contributors

Bryan S. Turner, 1997, Foreword: From governmentality to risk, some reflections on Foucault’s contribution to medical sociology

Acknowledgement

Introduction: Foucault’s medicine Robin Bunton and Alan Petersen

Part Ⅰ Fabricating Foucault
1 Foucault and the sociology of health and illness: a prismatic reading
David Armstrong
2 Is there life after Foucault? Text, frames and differends
Nick J. Fox

Part Ⅱ Discourses of health and medicine

3 Mental health,criminality and the human sciences
David McCallum


4 At risk of maladjustment: the problem of child mental health
Deborah Tyler
5 Foucault and the medicalization critique
Deborah Lupton

Part Ⅲ The body, the self
6 Is health education good for you? Re-thinking health education through the concept of bio-power
Denise Gastaldo
7 Bodies at risk: sex, surveillance and hormone replacement therapy
Jennifer Harding
8 Foucault, embodiment and gendered subjectivities: the case of voluntary self-starvation
Liz Eckermann

Part Ⅳ Governmentality
9 Of health and statecraft
10 Risk, governance and the new public health
Alan Petersen
11 Governing the risky self: how to become healthy, wealthy and wise
Sarah Nettleton
12 Popular health, advanced liberalism and Good Housekeeping magazine
Robin Bunton

Index



David McCallum, 1997,“Chapter 3 Mental health, criminality and the human science” , 53-73.(=ディヴィット・マッカラム,1997,「chapter 3 メンタルヘルス、犯罪性、人間科学」.)

Introduction: Law and Phychiatry(法と精神医学)
フーコーの『狂気の歴史』は出版から30年が経過した現在でも、歴史家たちの議論を引き起こしている。この本は、「美しい本」であり、経験的根拠の表面に飛び込んだ一連の「過度な単純化」であり、そして文化の歴史を記述するための新しいモデルである。
・本書の受容に関する最近の研究は、フーコーの「複雑な解釈枠組み」の成果に関する実際のテストはなかったと主張している。
フーコーの著作群は、しばしば歴史的記述の政治性と知識人の役割について難問を提起してきたため、歴史からの「いら立ち」の原因を原因であった。

フーコーは「方法論の問い」におけるいくつかの批判を処理し、彼の著作が説明枠組みを含んでいないとする主張に応えようとする試みるところに位置付けた。
フーコーは、自分を批評する人らはフーコーの研究に構造がないことの不満であると分析した。つまり上部構造も下部構造も、マルサスのサイクルも、国家と市民社会の対立も、そこにはない。歴史家の操作を支えてきた図式もない。

・要約された英訳版が、いまだにフーコーオリジナルの『狂気の歴史』を、英訳版読者に「知られていない本」の何かにしているという事実にもかかわらず、狂気の歴史についての議論は継続する。

・「フーコー歴史家」については未だ決まっていないものであるが、フーコーフーコーの著作に影響を受けたものらが、フーコーが「現在についての(複数形の)歴史」—いま、ここにある諸問題を診断するという目的のために歴史的な調査を活用すること—といった研究方法を作り出したという貢献は認めなければならない。

フーコーの関心の主な領域は、自由であることが近代のリベラルな社会において行使される諸形態を問題化していこうとする方法として、現代の刑法システムの機能、メンタルヘルスシステム、分散し配置されている統治の制度的メカニズムを関係づける。
→この意味で、フーコーの著作は、独自の歴史的な研究を通じて発展した概念的な「ツールボックス」の結果として、大いに古い問題への新しいアプローチを勇気づけてきた。

図式や閉鎖を与えることというより、知的な勧誘を含意は、彼の研究方法を異なる種類の方法で、新しい領域を図示し、問題を定式化するやり方として取り上げることである。規律技術という観点でポーズされた、アサイラムと監獄について彼の仕事は方法論的背景についての分野の事例的位置づけとして、そして歴史より重い重量の背景についての分野の。

彼の歴史学的な調査の活用は、過去の経験的な音の記録を与える専門的歴史家というよりも、現在の諸問題をエルシデイトしようとする哲学者として、である。
フーコーは知識人の役割についてより制限された主張を、「分析の道具、存在論的かつ地理学的な調査」与えることで、作り出すこと、そして人間の状態のいまだ探索されていない領域の地図をつくることを追加するものとして歴史を活用しようとした。


犯罪性と狂気に関する従来の歴史的研究の多くは、これら二つの領域の制度的な発展の内部のダイナミクスを図示する個別的(非連続的)な研究を構成する。フーコーの法と精神医学への介入は、それらの集合性(収斂)と相互関係を強調することで、2つの領域を問題化するための理論的根拠を与えた。

フーコーは、法と精神医学の同時代の作動における複雑な相互依存性が、19世紀初頭ヨーロッパの刑法での(犯罪に関する)責任能力の変容から生じた。ヨーロッパの刑法は、徐々に犯罪行為のわかりやすさが個人の性格や経歴(素性)と対比して言及されていくようになった。

心理学的に決定された行為が見出されるにつれ、その作者は法的な責任能力を考慮されるようになる。行為が、いわゆる根拠もなく未確定になるにつれ、ますます許されるものになるだろう。逆説:主体の法的な自由性は、主体の行為が不可欠で、確定されたとみなされるという事実によって証明される。責任能力の欠如は、彼の行為が不必要なものとしてみなされるという事実によって証明される。(フーコー

相互的な機能は、巨大で怪物のような犯罪だけではなく、日常的で少数の違反行為と一般的な過失の裁決を確立させた。多様な心理学と精神医学の記録の増加の間で。
精神異常と精神病の概念が変化するにつれて、精神医学と犯罪学的連続は人の精神医療の状態とカテゴリーの果てしない急増を許した。

法と精神医学の歴史的な共同性の認知、それから「犯罪の危険を精神医学化すること」の含意は、心理学と精神医学のカテゴリーとこれらの今日の社会的機能の発展を理解することに批判的である。従来の精神医学の歴史、刑法と犯罪のより散逸した歴史のどちらも、こうした視座を形成することに役立たない。

人間のカテゴリーは、精神医学や犯罪性のどちらかの歴史を発展的に遡る連続的な線によって今日に出現しているのではない。むしろ精神医学と犯罪性の領域の交差するところで構成されているのだ。


本章はパーソナリティ障害の心理医療的な概念と危険性の計算の相互作用を試験することに関係する。パーソナリティ障害の言語と概念的地形は、社会活動、行政長官の法廷、精神保健システム、恐ろしい犯罪の事例において、「問題」集団を計算し、管理するルーティンに入ってくる。

注目は危険性の問題の精神医学、心理学、法学の文献にも与えられた。そしてそれらの管理における犯罪の裁きとメンタルヘルスシステム

前提を支える一つには、法と医療が単に出来事への異なる興味を持つ。医者は診断とケア、裁判所は人と特定の行為の相互関係。
精神医学は法律内の最近の事例が概念的な境界を定義することが基本的にはできないと暴露。法学は、人の精神医学的な状態について「虚構(フィクション)」を訴えるというより、危険であることに関連するそれらを制限すること許可するため雄より柔軟な法理論を必要を訴える。
パーソナリティ障害が精神病かどうかは2つの領域間の論争の進行中の根源である。「頭の病気」を構成するものの権威的で一般的に受け入れられている医療的な定義なんてない。精神病の診断の信頼性の欠如、そして精神医学はあらゆる偉大な正確をともなって危険性を予言することは一般的に不可能である。

パーソナリティは単に人の人格的形式


パーソナリティは、子ども時代から心理学的に機能するある形式に言及するとグレイザーは言う。対照的に、精神病はパーソナリティ内の質的な変化に帰着する。行動における突然の変化と関連して。
メンタルヘルスアクトが何が精神病かを定義しなかったが、精神病の人が非自発的に病院に収容されうる以前に満足される状況をつくった。この点において、精神医学はパーソナリティ障害を排除するための正当化を確立した。

セクション8(2)は、非自発的な拘留を正当化するために使われるべきではない「社会的かつ政治的逸脱者」の事例と並んで、非社会的な個人をリスト化した。ある政治的な信念を表明すること、普通ではない性行動をするもの、知的な遅れであること。彼らの社会的地位のため、ある人びとは他の人より非社会的なパーソナリティをもつものとして定義される可能性もあった。この観点で、「持続的な(しつこい)悪さ」が、個人の意思に反して処理されなければならない病気であると主張するための試みは、市民の自由にとっての脅威を構築し、自由な社会と正反対である。


・パーソナリティ障害の言語と概念的な形
言語が存在の新しい領域と公権力の働くための新しい空間を切り開くという観点から

・これは言語を人間について思考の新しい形を生みだすための道具であるとみなす。それと管理と統治される必要がある人間の状況の料理気を計算する新しい方法とみなす。
「知の技術」としての言語が人間の存在とカテゴリーの特定のタイプに関する知を生みだすために時をまたいで行為する。個人を管理し人口を統治するために。

・カテゴリーはどのように出現したのか。そうした人格が出現する用語法における区別と特別はどのようなものか。もしくは、危険性の問題とパーソナリティ障害の心理医療のカテゴリーにおける社会秩序の違反と危険性の問題を考えることをどのように可能にしたのか。

・精神異常者、知能障害、犯罪、そして彼らの共通する制度的な場所の間の区別の歴史についてのいくつかの最初の意見をつくらせる。
新しい個人の精神的な(内部の)空間として、個人を計算するための技法を試験することから離れる前に。



SEPARATEING PRACTICES: TECHNIQUES OF CALCULATION(個別の実践:計算の技法)





Conclusion
・パーソナリティとパーソナリティ障害のカテゴリーに関する既存の確実なことと真実性の多くは、その同時代的な使用の系譜学的な分析をするという試みによってかき乱されている。個性のカテゴリーはここでは、個性の自然的(本質的)、非歴史的な内容というよりかは、ある歴史的な事柄の結果として理解されている。
①19世紀後半の学校教育、医療、他の社会衛生学の戦略のといった統計学的な手続きと行政改革を通じて達成された、集団(人口)の増加した個別化(個人化)が、人々の隙間を図示した。
②知の生産は、複雑性のすべてのなかの個人の内的な側面と関係している。そして、20世紀の心理に関わる学問の成長に関連している。
③よく調整された個性の形成と提示の要求を作り上げるような、個人の生活に関する規範の進歩を通じて市民を規制すること20世紀後半の政治権力の目的。

本章で示した歴史的なアプローチは、危険な個人という問題を考えたり、作用したりするための概念的な特徴がいかに人々を知り、理解するといった統治の試みの産物であるかを示そうとした。人間の特定のタイプについての知が、法と精神医学の間の相互作用の複雑さという手段によって可能にされた。それらが作動する制度的な空間。
法や医療において示された人間科学の偶発的な発見や人間の本質的な性質というよりは、

この「犯罪の危険性の精神医学化」は、変容されるべき個人の本能と動機と意思に焦点を当てる管理の新しい諸技法を含んだ共同作業と関わっている。

ニック・クドリー『メディア・社会・世界——デジタルメディアと社会理論』

<書誌>
ニック・クドリー,山腰修三監訳,2018,『メディア・社会・世界——デジタルメディアと社会理論』慶応義塾大学出版会.

メディア・社会・世界:デジタルメディアと社会理論

メディア・社会・世界:デジタルメディアと社会理論


目次
はじめに

第一章 デジタルメディアと社会理論

第二章 実践としてのメディア

第三章 儀礼および社会的形式としてのメディア

第四章 メディアと社会的なものの隠された形成

第五章 ネットワーク社会におけるネットワーク化された政治

第六章 メディアと変容する資本・権威

第七章 複数のメディア文化――拡がる世界

第八章 メディアの倫理、メディアの正義


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


第三章 儀礼および社会的形式としてのメディア

社会的秩序を安定・維持するために、カテゴリーという概念は重要である(デュルケーム)。特定の諸実践が権力の全般的な諸相の中に押し込まれ、あるいはそうした権力を再生産するうえで、カテゴリーは主要な手段となる。どのカテゴリーを選択し、どれを犠牲にするのかというときの尺度となる「社会的価値」をめぐっては包括的な合意など存在せずに、社会的生活の領域において価値をめぐる競合を行う、複数の正当化のレジームがある(ボルタンスキーとテヴノー)。こうした複数の正当化のレジームの競合は、いずれかのものが「もっとも偉大な正統性」を有することで解決される。こうした正統化に向けたメディア制度の役割は重要である。

現代社会の価値の多元性にもかかわらず、そこから秩序化へと向かう過程があり、そこでのメディア制度の機能を分析する。そして秩序化とはカテゴリー化(類型化)の上に成り立っており、この類型化作用におけるメディア制度の役割について理解する必要がある。

メディア儀礼とは、メディアによって媒介された中心の神話と結びつくカテゴリーの区分や教会を強化うするような行為の凝集した形式である。メディアは「中心」を表象し、フレーム化することを「自然」な役割として持つ。

たぶん本書の中で一番難しい。より入念な議論の整理をしないとわけわからん。


第六章 メディアと変容する資本・権威
〇本章の問い
メディアが社会的なものの空間にいかなる影響を及ぼしているのか。
援用する概念は、ブルデューの「界(場)/field」
→社会的空間と価値の多元性を含意することができる。複数の自律的な界が資本をめぐる競合をする社会を想定できる。

〇メディア化
メディア化とは、メディアおよびその論理に社会に従属し、依存する程度が増加する過程。
メディア化を複数を架橋する概念、メタ資本として想定できる。
多くの界がメディアに関連する資本の形態に依存しながら機能している。
政治界、教育界、、、

政治界においてメディア界との相互依存はますます強いものになっており、メディアの論理に回収される政治実践が内在化されている。

第七章 複数のメディア化——拡がる世界
社会志向のメディア理論という立脚点から、ナショナルな境界を越えた複数のメディア文化という概念を発展できる。

諸文化の固有の形態は、人間の様々な基本的ニーズの力学によって形成されるということを私は論じるつもりである。(260)


→メディアに関わる生活形態の大部分がニーズによって形成されるのと同様に、メディア文化もまたニーズによって構成される。メディア研究は歴史的に概して国民国家を単位としてきたがゆえに、私の選ぶ事例もほとんどの場合に特定の国民国家について言及することになってしまうことは避けられない。しかし、のちに明らかにするように、私の比較の枠組みはナショナルな差異にもとづくものではない。私の枠組みが依拠しているのは、人間が有する幅広い種類のニーズに基づく圧力(Pressures)である。そうしたニーズはとくにナショナルな境界線の内側で、ときにそれを越えて形成され、コミュニケーションに関するニーズを生じさせる。(260-261)

重要なことは、メディアの利用におけるわずかな違いを追いかけることではなく、グローバルな規模でメディア文化の全般的な範囲(Span)や多様性を形成する力学を把握することである。

比較の単位としての「メディア文化」
メディアシステムは、資源や制度がいかにして組織化され、配分されているのかという政治経済学的な分析に基づいている。
本書における関心はわれわれのメディア経験、メディアと共にある生活様式に向けられている。こうした意味で適切なのはシステムではなく、「文化」。
日常的な意味形成の実践が相互に結び付いてまとまるあらゆる方法を意味している。
すなわち、メディアを主要な資源とする意味形成の諸実践の集合体を指すものとして用いるということである。1つのメディア文化を見定めるための唯一の基準は、成因がその固有性、すなわち奇形性の諸実践顔のように「まとまっている」のかを認識する可能性があるという点である。(262)

〇メディア文化?
・明確な境界線を有する確固とした現象ではない。
・「トランスローカル」なフロー
→複数の場所や発信源から送られる素材(メディア)の流通と翻訳にその基盤を置いている。
⇒「トランスローカルな」文化理解と「領域的」にとどまる文化理解との区別が出発点となる。かといってナショナルな境界がメディア文化を区別する上での要素であることは否定しない。言語、到達範囲、規制機関などのメディアインフラの多くの側面は、領土的な境界線を有している。
メディア文化の領土的な定義は一貫性をもちえないのである。メディア文化は形式的に定義するよりも、多かれ少なかれローカルな特殊性を有しつつもメディアを介した意味形成というトランスローカルな諸過程が濃縮したものとして定義した方がよい。


①経済的ニーズ
・貧困などの経済的問題に直面するなかで、長距離移動(移住)と個人的なリスクの増大から放送メディアではなく、職場もしくはk族のネットワークとすぐ連絡が取れるようにするためのメディア文化が存在する。

エスニックニーズ
・想像の共同体
→衛星放送
・言語的な困難性と居場所づくり
SNSでどこでもつながれる。
・インターネット利用
オルタナティブエリアにおけるオーディエンスの調査研究がない。
エスニック集団=固有のエスニックメディア文化という前提は無理。

③政治的ニーズ
・メディア産業と国民形成。
・異議申し立ての場
・新しい社会運動
・ニュースに対するニーズ

④承認ニーズ
自らが消費するメディアにおいて自分たちが承認されていない。
集合的な製作ニーズ

⑤信仰的ニーズ
・メディアの制限と促進

⑥社会的ニーズ
オンラインコミュニティは年齢とセクシュアリティ

⑦余暇ニーズ

山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学』

<書誌>
山口慎太郎,2019,『「家族の幸せ」の経済学——データで分かった結婚、出産、子育ての真実』光文社.



第2章 赤ちゃんの経済学

OECD健康統計2017」によれば、日本の低出生体重児は2015年のデータをもとにしたとき世界で2番目に多い。

その社会的要因
①妊娠中にお母さんが仕事をしていると、生まれてくる赤ちゃんが低体重児になりやすい。
→従来の性役割に戻すのではなく、妊娠中の働く女性に対して、家族や職場が特別な配慮を。
→席を譲ることも大きな意義がある。
※どんな配慮が考えられるのかが論点となりそうだ。また家族、職場、公共のどこが一番の負担なのか?妊娠中であることを社会に認知することの弊害は?
低出生体重児も救える医療技術と産科指導の変
不妊治療技術と低出生体重児比率の相関関係。

岸政彦『マンゴーと手榴弾』書誌と目次

<書誌>
岸政彦,2018,『マンゴーと手榴弾——生活史の理論』勁草書房

目次

はじめに
マンゴーと手榴弾——語りが生まれる瞬間の長さ
鉤括弧を外すこと——ポスト構築主義社会学の方法
海の小麦粉——語りにおける複数の時間
プリンとクワガタ——実在への回路としてのディテール
沖縄の語り方を変える——実在への信念
調整と介入——社会調査の社会的な正しさ
爆音のもとで暮らす——選択と責任について
タバコとココア——「人間に関する理論」のために
初出一覧

吉田裕「序章 一つの時代の終わり」

<書誌>
吉田裕,2011,『兵士たちの戦後史』岩波書店

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

兵士たちの戦後史 (シリーズ 戦争の経験を問う)

本書は岩波書店の「戦争の経験を問う」シリーズ(全13巻)の「兵士たちの経験」部門の一冊である。(クリックでリンクへ)

目次

序章 一つの時代の終わり   ⇦いまここ!

第1章 敗戦と占領
第2章 講和条約の発効
第3章 高度成長と戦争体験の風化
第4章 高揚の中の対立と分化
第5章 終焉の時代へ
終章 経験を引き受けるということ
あとがき
索引


序章 一つの時代の終わり:1-7.
〇消えゆく戦友会
 元兵士は今何人くらいご存命なのか。やや古い2008年のデータだが、吉田は下限40万、上限89万人とみている。2010年の軍人恩給本人受給者数は、16万2000人。敗戦時における陸海軍の総兵力が789万人だから、大幅に減少している。

※なお、最新のデータは2018年3月までの統計をもとにした、総務省恩給業務管理官(室)「恩給統計からみた恩給受給者の状況」(
http://www.soumu.go.jp/main_content/000248542.pdf
、最終確認2019年7月8日)がある。また恩給予算からの試算では、普通恩給が約1万1千人、傷病恩給が1800人となっている。合わせて1万2800人が下限となる。
恩給統計はECASTより以下のリンクへ。
www.e-stat.go.jp


もう一つ典型的なのが戦友会の解散である。2007年を前後して代表的な戦友会がいくつも解散している。

こうした事例から吉田は、一つの時代の終わりを見ている。その節目となるのが2007年から2008年である。奇しくも戦後保守の代表者安倍晋三内閣の誕生など、政界も世代交代が顕著だ。

〇本書の目的
本書は、アジア・太平洋戦争をたたかい、そして生き残った元兵士たちの戦後史を記録することを意図している。(3)
理由は2つある。
(1)戦争の時代をより深く理解するためには、その戦争の戦後史を視野に入れる必要があると考えるから。
→いわゆる戦後処理は、戦争の歴史と密接不可分。また戦争の残した傷跡の深さは戦後史の分析が欠かせない。

「筆舌に尽くしがたい体験を秘めながら、その後の人生をどのように生き抜いてきたのか、その体験をどのように思想化してきたのかは、非常に大切なことがらである。」(蘭信三,2009,「オーラルヒストリーの実践と歴史との〈和解〉」『日本オーラル・ヒストリー研究』5.)

(2)生き残った兵士の営為が、戦後日本の政治文化を規定していると考えられるから。
→日本人は日本のために非軍事的な貢献を望んでおり、そうした政治文化を生みだした歴史的背景を考察したい。

〇研究の留意点
①兵士や下士官を中心に戦後史を跡付ける。
→元兵士らによる膨大な量の体験記、戦友会の解放などを参考にする。
②戦争の記憶に関する研究の高まり。
→慰霊祭や記念事業の研究成果を取り入れる。
③戦争に関わらなかった特権から、元兵士の戦後史を断罪しないこと。
→戦争の当事者ではないが、戦争を語ることでアイデンティを確認している。
④心の揺れの自覚
戦争犯罪の論証と共に、その時代を生きなければならなかった兵士たちの内面にも目を向けなければならないという心の揺れを常に感じて研究をしてきた。